至高のマッサージからの寝落ち
枕は、ラインハルトのにおいがする。ラインハルトは「ジジイのにおいだ」と言って嫌がるけれど、そもそもジジイのにおいがどういうものなのかわからない。
彼のにおいというのは、控えめなジャスミンの香りである。
根っからの武闘派軍人の彼は、軍にいるときにはにおいのするものはいっさい身につけたりふったりしない。だけど、わたしといるときには控えめな香りのものを身につけたりふったりしている。
わたしに気を遣ってくれているのである。
そのようなことは必要ないのに、といつも思っている。汗臭くてもジジイ臭くても、ちっともかまわないのに。
そう伝えても、彼ははにかんだ笑みを浮かべるだけである。
でも、彼のそんなささやかな気遣いがうれしすぎる。
そこまで考えたとき、ハッと現実に引き戻された。ラインハルトの声が、耳に入ってきたからである。
「万が一にも引き離されて一人になってしまい襲撃されるようなことになったら、まずは叫ぶこと。だれかを呼んだり注意をひく。それが出来なければ、とにかく逃げること。以前にも言った通り、戦うよりも逃げるのだ。たしかに、きみの小刀の腕はかなり上達している。驚くほどにね。しかし、実戦経験がない。鍛錬や稽古だけでは、実戦をこなすことは難しい」
「陛下、承知しております」
気持ちがよすぎて、彼の忠告が子守唄のようにきこえる。
「小刀は、リタとゾフィがうまく隠し持てるようにしてくれる。それを使うときは、最終手段だ。そして、どうしても使わねばならないときは……」
「相手のどこでもいいから、おもいっきり突くのですね?」
「そのとおり」
それから、彼は無言でマッサージを続けてくれた。
ハッと気がついた。というよりかは、目が覚めた。
眠ってしまったのね。
いままでウトウトすることはあっても、寝落ちしたことはなかったのに。
ボーッとした意識のまま、枕から顔を上げた。
いつの間にか室内の灯火が消えている。
ラインハルトが消したに違いない。
背中に上掛けがかけられている。
これもまた、彼がかけてくれたに違いない。
ラインハルトは?
とりあえず仰向けになってから、上半身を起こした。
枕元に置いてあるメガネをつかみ、装着する。
これがないと、室内の様子がよくわからない。それに、万が一にもラインハルトにメガネのない顔を見せてしまったら、彼に不愉快な思いをさせてしまって申し訳なさすぎる。
上半身を起こした状態で、室内の様子を探ってみた。
テラス側のガラス扉のカーテンが少しだけ開いていて、そこに夜着姿のラインハルトがたたずんでいる。強烈な月光が彼に降り注いでいて、刈り揃えたばかりの金髪を輝かせている。
彼の横顔が大人のもので、見た瞬間に心臓が飛び跳ねてしまった。
将校服姿ではなく、ただの夜着である。それなのに、彼が猛々しく輝いて見える。いいえ。それだけではない。激しくもあり、慈愛に満ちている。
彼こそが皇帝にふさわしい。
心からそう感じる。この堂々とした姿を見れば、だれだって感動するにきまっている。
同時に、いままでにない不安感に襲われた。
こんな立派な人が、どうしてわたしを妻に? わたしを愛してくれるの?
どう考えてもおかしすぎる。
すっかり有頂天になっていた。ちやほやされて、自分の容姿や素性を都合よく忘れていた。
手許をみおろすと、上掛けをつかむ両手が小さく震えている。
不安と恐怖で震えている。
もしかしたら、これは夢で覚めたら以前の生活のままだとか、彼の気がかわってしまうなどということがあるかもしれない。
やはり、政略が絡んでいるのかもしれない。
彼がわたしに手を出してこないのは、ほんとうはわたしを愛してなどいなくて触れるのも嫌だからなのかもしれない。
これまで、そんな不安や怖れをつねに抱いていた。それらは、つねに心の片隅に巣食っていていつでも心全体に広がろうとしていた。無意識の内に、それに気付かないふりをするか広がらないようにしていた。
だけど、いまは違う。
それらが膨れ上がり、いまにも破裂してしまいそう。
思わず、声がもれていた。いいえ。嗚咽だったのかもしれない。
そのとき、ラインハルトが振り返った。
 




