バーデン帝国の皇帝ってまさか……
「ところで、陛下は遅くないか?」
「ああ。遅すぎる」
「シュッツ、ジーク。あなたたちで陛下を迎えに行ってきてよ」
「リタの言う通りね。そうすべきよ。陛下、一人で悩んでいるのに違いないわ」
皇帝がいっこうにやって来ない。
シュッツが言いだし、結局、シュッツとジークが居間から出て行った。
そして、彼らが戻ってきた。
皇帝を伴って。
やっと、やっと会えるのよ。
「陛下、ほらはやく」
「なにをいまさら恥ずかしがっているのです? 居間に一歩入るだけではありませんか」
わたしの緊張をよそに、ジークたちは廊下で言い争っている。
「お義母様」
そのとき、ゾフィに肩を叩かれたかと思うと腕をひっぱられた。
彼女とリタは、廊下側とは違う扉を指さして立ち上がった。
腕をひっぱられるまま、彼女たちについて行く。
居間のもう一つの扉から出て厨房を横切り、厨房から廊下へ出た。
ジークとシュッツ、それから男性の背中が見える。
リタとゾフィが口の前に指を立て、ソロソロと廊下を歩き始めた。
「陛下、往生際が悪すぎます」
「ジークの言う通りです。『獅子帝』ともあろうお方が、ご自身の奥方になるレディに会うのにそんなに恥ずかしいのですか?」
ジークとシュッツは、わたしたちに気がついている。
二人は、チラリとこちらを見てから声を大にして揶揄いはじめた。
その男性、つまり皇帝を。
そして、その皇帝の背中を見た瞬間、足を止めてしまった。
その背中に見覚えがあるからである。
このバーデン帝国にやって来て、何度も見つめたことがあるから……。
馬上で、屋敷や城で、その立派な背中を見つめては安堵し、同時に寂しさや不安を抱いた。
そのときには将校服で、威厳と自信に満ち溢れていた。だけど、いまは白いシャツに黒いズボン姿で、どことなく気恥ずかしさや自信のなさが感じられる。
どれだけ恋い焦がれ、望んだことか。手を伸ばそうともけっして届くこともつかむことも出来なかった背中。いいえ、心。
それがいま、目の前に現れたのである。
かすかに体が震えている。そう自覚した瞬間、両肩にリタとゾフィの手が置かれた。
その温かい手は、わたしに勇気と力を与えてくれた。
いままでとは違う。いままでは、逃げていた。なかったことにした。夢や希望を諦めていた。いいえ。無理だと諦めていた。だから、最初から夢や希望は抱かなかった。
そう。これまでは……。
だけど、このバーデン帝国でわたしはかわるのよ。
「失うものが何もないから」、ではない。「努力して何かを得る」のよ。
その第一歩を踏み出すの。
決意だけは立派だけど、やはり気おくれはしてしまう。
体の震えは止まらない。うれしさよりも、怖れによるものかもしれない。
ダメダメ。がんばるのよ、わたし。
もう何度目か、自分自身を叱咤する。
「お義母様、自信を持って下さい。男性なんて、あなたの笑顔でイチコロです」
「彼は、あなたのその笑顔に参ってしまっています。あなたから声をかけて、一生尻に敷いてやるのです」
リタとゾフィにささやかれ、それでわたしの迷いや怖れが完全に払拭された。
「クラウス様?」
恋い焦がれ続けたその背中に呼びかけた。
だけど、その声は小さかったかもしれない。
きこえたかと心配になったけれど、その背中がピクリと動いた。
そのとき、ジークとシュッツがまるで申し合わせたかのように彼の肩をがっしりつかんだ。そして、無理矢理こちらへ振り向かせた。
「チ、チカ……」
クラウスの渋美しい顔は、赤くなっている。
「あ、あの、その、だ、だまして、そう。だまして、ああ、クラウスなどと、皇族の一員だったかな? ああ、たしかにそう言ったと思うけど、その、とにかく、す、すまない。ああ、くそっ! なにを言っているんだ」
彼の渋美しい顔は、いまや自律神経とか内臓とかどこか不調なのではないのって心配したくなるほど真っ赤になっている。
「ああ、もう。陛下、じれったいですわ」
「リタの言う通りです。男なら、何も言わずアクションを起こすべきです」
「ゾフィの言う通りですよ。あなたの息子たちは勇気をもってトライしたのです。あなたにだって出来るはずでしょう?」
「彼女は、それを待っています。ほら、自信を持って。いくら女性の方が強いからって、とって食いやしません。とくにいまは、素直に抱きしめられてくれます。いまのうちです。ほら、はやく」
「そうですよ。結局、鼻であしらわれることになるのです。いまのうちに、ギューッとギュギュギューッと抱しめて下さい」
ちょっ……。
両隣で矢継ぎばやに飛ばす励まし? 野次? とにかく、クラウスにポンポンと飛ばすその内容を、冷静にきいている自分がいる。
いろいろとツッコミどころ満載だし、どういうことなのか問い詰めたい気持ちもある。
だけど、そのどちらも出来るわけがない。




