イラクの魔女うさぎ
頭から黒い布で全身を覆った女が、足早に通りを駆けていた。
砂岩造りの建物が閑散と立ち並ぶ街路にほかに人影はなかった。女が急いでいる狭い路地を砂まみれの風が、不気味に唸りながらよぎった。町は死にかけていた。空から陸から蹂躙された町の家屋は、あるものは瓦礫の山に、あるものは日当たりの良いバルコニーのように屋根が崩れ落ちていた。粉塵にまみれたサンダルを履いた女の足どりは早くなる一方だった。
米陸軍B分隊B班に所属するライマンは、銃床を脇の下に当てた即応体制のままゆっくり歩いていた。
「ゲリラが残存している可能性がある。ゲリラは男だけとは限らない。女であろうとゲリラはゲリラだ。いいか、貴様ら、動くものはすべて撃て。いいな」
パトロールの出動前に聞いた、中隊長の訓示が頭に蘇った。
今頃、分隊長はA班を率いて別のルートをパトロールしているはずだが、いったいどの辺りにいるのだろうか。ライマンの中にふっと不安がよぎった。
動くものはすべて撃て。確かにそれはそうだ。これまで何度も銃火をくぐってきただけに、ここイラクの危険さを熟知していたからだ。好奇心を利用されて死んだ仲間がいた。子供が描いた絵や中身が出かかったぬいぐるみ。どうでもいいようなものに興味をもって手を触れたとたんに、ドカン! 轟音と噴煙のなかで全身をバラバラにされた奴がいた。燃え尽きた車なら安心だと近づいた瞬間、ドカン! それを合図に飛来するロケット弾。小人数のゲリラと打ち合いになったと思いきや、多勢に包囲されて蜂の巣にされ、血の犠牲を強いられ、惨憺たるありさまで脱出してきた奴ら。汗と埃にまみれ、赤黒いシミだらけの軍服を着た男の頬が、ピクピク痙攣しているのが、そいつの味わった恐怖を雄弁に物語っていた。
ライマンの脳裏につぎつぎに唾棄すべき光景が流れていたとき、彼は何かが物影を走りぬける気配を感じた。
「止まれ!」と左手をあげて合図しながら、ライマンは膝をついて姿勢を低くした。すぐに前かがみのまま班員のヤンケが近寄ってきて、後ろから囁いた。
「どうしました?」
「なんだって? 聞こえない」
ライマンはヘルメットに何かがぶつかってくるのに気づいて振り返った。そこには右手で頬を指さしているヤンケの顔があった。
「糞ったれが! 引金から指を離す奴があるか」
そう呟きながら、ライマンは自分のうかつさに気づいた。分隊無線のスイッチを入れるのを忘れていたのだ。ヤンケの囁きが聞こえなかったのも無理はない。すぐさまライマンはスイッチを入れながら、後に続いている三人が左右に展開し、遮蔽物に身を隠しているのを確かめた。
「B班聞こえるか。近くで何かが動く気配がした。いつでも撃てるようにしておけ。規定コースをそのまま行くが、場合によっては包囲殲滅する。B班、聞こえているなら、返事しろ」
「ジョアンだ、聞こえた。左後方援護位置にいる」
「クレイグだ、聞こえた。右後方から援護する」
「アーヴィンだ、聞こえた。ジョアンと一緒にいる。左後方、援護する」
そして最後にヤンケの落ち着いた声がした。
「直衛する」
チラと彼を顧みると、右手の親指を立ててニヤけていた。
「糞ったれが、引金から指を離すと言ったはずだ!」
ヤンケは変わった男だ。決して冷静さを失わない。志願する前は、テキサスで外科医をしていたという。手術で何度も血を見たのが奴が慌てない原因だなんてことはないだろうが、とにかく変わった奴なのだ。ポーカーの上手い外科医なんてのが変わり種でなくてなんだっていうんだ。手術に賭けなんて持ち込んでもらいたくないからだ。
ライマンはそう思いながらも、じりじりと前進するのを忘れていなかった。十字路の手前で建物とも瓦礫ともつかなくなった石塊を盾にして周囲を確認する。そのとき、また何かが動いた。
「三つ先の十字路だ。前方で何か黒いもの。一気に道二本分、距離を詰めるぞ。なんだか嫌な予感がするんだ。走るぞ。援護してくれ」
言うやいなやライマンは突っ走った。遮蔽物のない十字路を横切るあいだ、心臓が縮みあがるのを感じていた。
人影らしきものが動いた十字路までやってくると、ライマンはしゃがみこんだ。
「班を三つに分ける。ヤンケは俺と左、ジョアンとクレイグは右だ。アーヴィンは今俺のいる位置まで来て待機援護だ。動くものを見つけたら軽機を撃ちまくれ。いいな!」
――どう考えたって人数が足りないが仕方がない。
「俺とヤンケは右に行ってブロックを左回りに偵察。ジョアンたちは左にいってブロックを右回りに偵察。何もなければ、アーヴインの位置でめでたく合流ってわけだ」
五人の男がたてた砂埃で辺りの視界は決してクリアではなかった。道の向こう側にヤンケがいるのがかろうじて見える。彼はまだ肩で息をしていた。
かつて陸上中距離のエースだったライマンからすれば、お笑い草な光景だったが、それが医者というものなんだと、さして気にもとめなかった。
その時彼の脳裏によぎった不安はそれではなかった。なぜ分隊長の率いるA班の連中の声が聞こえないのだろうか。もしあの人影らしきものがA班の連中の一人だったら? 味方撃ちになる。ライマンは自分が口にした「嫌な予感」の原因がわかった気がした。一瞬、A班を呼び出そうかとも考えたが、味方撃ちを恐れて、発砲に慎重になった隙に、ロケット弾をぶちこまれる映像が浮かんで、通信するのを止めた。彼はすぐに覚悟を決めた。進むにしろ退くにしろ、どちらにしても、長いこと緊張に晒されていたくなかったのだ。
「前進するぞ!」
ライマンが進んだ左のルートは路地とはいえなかった。爆撃をうけて瓦礫の山になった中でなんとか家屋であることがわかる岩塊がぽつんぽつんとあるだけだった。その瓦礫とも家屋ともいえない中を走る人影が見えた。
「いたぞ!」
短く連射する銃声が響いた。
「発砲音! 誰だ、どこで撃っている」
分隊長が無線で誰何する声が聞こえた。
「誰だ発砲したのは? 俺は許可していないぞ」
「黙ってください! こっちは取り込み中なんです。状況はわかってたはずです」
ライマンは今頃になって干渉してきた分隊長に激しく苛立った。
「何も聞いてない。聞いてたのは、出発からずっとつづく酷いノイズばかりだ」
「糞ったれが!」
彼は弾倉に残っている弾を、人影がいたあたりに向けて、ありったけばら撒いた。濛々とあがった煙を見ながら、ライマンは弾倉を交換した。火薬のにおいが妙に鼻について不愉快だった。
いい加減な威嚇だが、効果はあっただろう。近距離であれだけぶちこめば、跳弾で負傷くらいするだろうと彼は思った。
「おい、どうなってる? きちんと報告しろ、報告せんか!」
酷い雑音混じりに分隊長が叫んでるのが聞こえた。
ライマンはそれを無視して、「ヤンケ援護だ、突っ込むぞ。多分一人だけだ。ヒジャブを被った女だ」と言うと同時に、彼は瓦礫で巧みに体を遮蔽しながら、ぴょんぴょんと跳ぶようにさっき銃弾を撃ち込んだ辺りへと駆けていった。
「まるで兎だ。どっちが狩っているのやら、狩られているのやら」
ヤンケがそう呟いや。
「いた、あそこだ。援護しろ、援護だ!」
ライマンの構えたM4カービンからマズルフラッシュが派手に花開いた。
だが銃声はそれだけだった。薬莢が立てる乾いた音が微かに残響していた。
彼はヤンケの怠慢に怒りを感じながら、切れた息を整えようと、頼りになりそうな岩陰に飛び込んだ。
「この糞野郎! なんで援護しないんだ、俺を殺す気か!」
「班長、焦る必要はありませんよ。視程もそう悪くない。相手は女。それに負傷してます」
ヤンケは低い姿勢で双眼鏡を構えながらそう言った。
息を切らしながら目を凝らしたライマンは、瓦礫のなかの血痕を認めた。
「そのようだな。よし、追跡する。付いてこい。そう危険はあるまい」
点々とつづく血痕をたどった二人はある一軒の家に辿りついた。扉は壊れて無かった。中を覗くと、薄闇のなかに足から血を流している全身黒づくめの女がいた。女の手元には円筒形のものが落ちていた。近くには、黒猫が怒ってふーふーするように息をしながら真っ赤な顔をしている小娘が、壁に凭れて座っていた。
「両手を頭の後ろにして、壁に向かって立つんだ」
ライマンは女に銃口を向けたまま、無駄だと思いながら英語でそう言った。
と、女の手が円筒形のもを取ろうとして動いた。
「動くな! 動くと撃つぞ!」
「待て、止せ!」
二人はもみ合ったが、その間に爆発も何も起こらなかった。
「落ち着いて、落ち着いてください、班長。ただの風邪薬ですよ。落ち着いて、ほらよく見て、よく見てください」
ヤンケが手にしたフラッシュライトが茶色の瓶を照らしていた。
「ただの風邪薬だ。それにこの子は多分この女の娘だ」
彼は小娘の額に手を当ててから、「ああ、ひどい熱だ。顔が真っ赤になって苦しそうな息をして可哀想に。――つまり班長、あんたが足を撃った女は風邪を引いた娘のために必死に走って薬を手に入れに行き、ここで寝ている娘のもとへ戻る最中にあんたに撃たれたってわけだ」。
ヤンケはそこまで言うと、アラビア語で女に話しかけた。女は瓶を拾って娘を抱き起こすと薬を飲ませた。
「班長、あんたは血の気が多すぎる。いいですか、ひとつお伽噺を聞いてください。昔ガキだったころ俺はよくお袋に物語を聞かせてもらったんです。その中の一つにケルトの民間伝承があったんです。たわいのない話です。ある猟師が月夜に兎を見つけて銃で撃つ。兎は傷を負いながら逃げる。男は血痕を追ってある家に辿りつく、中には足に怪我をした婆さんと、シャーシャー怒る黒猫がいた。猟師は婆さんに『その傷はどうしたんだ?』と聞くんです」
そこでヤンケは押し黙った。
「それで、婆さんは何と言ったんだ?」とライマン。
「わたしゃ、鎌で木片を切っていたんだが、間違って足を切っちまったんだよ。あれはわたしの大事な血のしずくさ。――とね。魔女にして斯くの如しですよ。撃たれたのに自分で間違って切ったってね。――この女は事情があったにせよ、酷い有様の町に残ると決めた。きっと死を覚悟のうえだったんでしょう」
そういうとヤンケはまたアラビア語で女になにか話しかけた。
「お前、なんでアラビア語なんか?」
「志願する前に自分は国境なき医師団のメンバーだったんですよ。ああ、そんな顔をしないでください。テキサスの医者じゃって言いたいんでしょ。人生はそんな簡単に全てを語れるわけじゃないだけです。自分は医者でありアメリカ国民でもある。それだけのことです。たとえそこが戦場でも、誰かの命を救いたいと思ってる兵隊が一人くらいいたっていいでしょう」
「今は戦争中だ」
「班長、それは違いますよ。休戦協定が結ばれています。自分たちの任務は治安維持ではないのですか」
「そう言うならそうだが……」
ライマンは女が無防備に座りながら、足から流れ出る血を気にしている姿に目を向けた。顔をあげた女の瞳はいまにも泣き出しそうに潤んでいた。だがそこに怨みは微塵もなかった。ヤンケが言ったとおり、女の目には覚悟とも諦観ともいえる、なにか澄み切ったものがあった。
「分隊長、聞こえますか? 班長は取りこみ中なので、変わって報告します。事態は収拾しました。死傷者はありません。足に怪我をしたイラク人の女を保護しました。それとその女の娘もです。至急本部から救護車を回してください。以上です」
ライマンはその声を聞いていなかった。彼の脳裏ではヤンケの語った物語が谺のように響いていたからだ。
――あれはわたしの大事な血のしずくさ……。
「班長」
ライマンは親し気に肩を叩かれたことで我に返った。
「お互い、アメリカの名誉を汚さないようにしましょう。ジョアンやアーヴィンたちとも合流しなければなりません」
ライマンは何も答えずに黙って肯き、女の足を止血するヤンケの背中を眺めていたのだった。