81 月
夜の闇の中、影は潜んでいた物陰から空を見上げた。
建物の壁に阻まれた僅かな隙間から見える空は漆黒。
この時間になら見えているはずの月は、場所が悪いのか確認できない。くもってはいないから星は出ているのだろうが、それも、所々に設置された外灯によってかき消されてしまっている。
影はほんの少しだけそれを残念に思った。
せめて最後に綺麗な物が見たかったから。
今日、影は死ぬ。
道具として使われ、捨てられる。
それに対する怒りはない。
悲しみも絶望も、そういった感情はとうの昔に失った。
影は懐に手をのばし共に死線をくぐり抜けてきた短剣の柄を握りしめた。
命じられるがままに多くの命を奪ってきた。その証に、持ち手の部分に巻かれた革は、洗っても落としきれなかった血で斑に染まっている。
これは影に唯一与えられた存在意義。
一族の一員であるという証。
何物にも代えがたい心の拠り所。
だが――――。
影の瞳が昏く揺れる。
己の人生そのものだともいえるこの短剣に、時折、吐き気を催すほどの、途轍もない嫌悪感を抱く時がある。
影はきつく目を閉じて潜んでいた物陰にうずくまり、叫び出したい衝動を自分の首を絞める事によって堪えた。
そしていつものように己に言い聞かせる。存在する事そのものが罪である自分に役目が与えられたのだ、感謝すべきだ――――と。
どのくらい経っただろうか、乱れていた呼吸が落ち着いた頃、遠くから爆発音と微かな悲鳴が聞こえた。
(――――合図だ)
耳を澄ます。
周囲に人の気配はない。
影はゆっくりと目を開くと、短剣を手に目的の場所へと駆け出した。
☆ ☆ ☆
「――――そんなに、獣人が嫌いかよ」
遠くの喧騒とは真逆の痛いほどの静寂の中、最初に口を開いたのはヨハンだった。
そして、わずかにかすれた己の声に自嘲する。自分で思うよりもショックだったのだと知って。
だがそれに対するアドルフの返答は冷めたものだった。
「そのような感情は持ち合わせていない」
なんの感情も伴わない平坦な答えに、ヨハンは唸るように問うた。
「ならなぜこんなことをした――――今夜の夜会がどれだけ重要か! お前だって分かってんだろう!」
今夜行われた夜会はただの夜会ではない。
肉食獣を始祖とする獣人と人間が、互いに歩み寄ることを目的に行われた極めて重要な会合だ。
人間と獣人との仲は決して良好なものとはいえない。
国境という概念を持たない獣人達が、知らずのうちにイムティア王国内に入り込み、家畜を奪い、農作物を荒らす。人間達はそんな獣人を捕らえ制裁を下す。
そんな事が建国当時より延々と続いていれば、お互いに良い感情を抱くことは難しい。
話し合いで解決した事もあるがそれは極めて稀な例だ。強い者が弱い者を搾取するのが当然の弱肉強食の世界に生きる獣人にとって、戦闘能力の劣る人間の言葉など聞く必要がないからだ。
だが、それが今夜、変わるかもしれない。
今夜の会合に応じたのは、いざという時に他の獣人のまとめ役となることが多い一族の者達だ。そんな彼等が人間との対立を止めて和解の姿勢を見せれば、他の獣人もそれに倣う可能性が高い。
イムティア王国の建国以来、初めて実現した獣人と人間との対談の場。ここに行き着くまでにどれだけ多くの血が流れたか。
郊外での任務の多い第7部隊は必然的に他部隊よりも獣人に関する任務に当たる事が多くなる。その中には思わず目を背けてしまいたくなるような酷い物もあった。
『心を持たない者のやる事だ』と、共に現場に立った隊員のひとりがそう言った。それにヨハンも同意した。それほどに凄惨な現場だったから。
だが同時にこうも思ったのだ。
心を持つからこそ、ここまで非情になれるのではないかと。
ならば、そんなふうになってしまう前に誰かが引き戻してやれば良い、そんなふうにならない環境を作ればいい――――。
その1歩目となりうる貴重な会合が潰される。
目の前にいる男の手によって。
様々な感情が交差し、アドルフを睨む目と剣の柄を握る手に力が入る。
だが鋼の瞳は揺らぐことなく淡々と告げた。
「今回の会談の重要性は重々承知している。だが、今の王国は他種族を忌み嫌う貴族派が幅を効かせている。無理に事を進めれば内部崩壊を起こしかねない」
「だからって獣人に手を出してみろ! もう二度と歩み寄れねぇだろうが!」
獣人は仲間意識が非常に強い。同族を傷つけられたとなれば反発は必至。事と次第によっては獣人との全面戦争にもなりかねない。
「なぜそう思う」
「あ゛ぁ!? 仲間傷付けられたらブチギレるに決まってんだろうが!」
獣人だけではない、夜会に参加している王や穏健派の貴族達も危険に晒されるだろう。そうなれば和平への道はますます遠ざかってしまう。
剣を振るっているからだけではなく怒りと焦りから心臓の鼓動が激しくなる。
落ち着かねばとヨハンが大きく息を吸ったその時、目の前に立ち塞がる男と視線が交わった。
そして唐突に『違う』と思った。
騎士の本分は護ること、王たる主君に仕え国を護ること。
時に冷徹ともいえる判断を下すアドルフだが、それはアドルフが騎士の職務に忠実だからだ。
そんなアドルフが国に悪影響を及ぼすような事をするだろうか、主君である王を危険に晒すような真似をするだろうか。
アドルフを凝視したまま固まったヨハンを冷たく見据え、アドルフは口を開いた。
「――――確かに獣人の同族意識は強い。だが同時に、同族の裏切りには驚くほど残酷だ」
その言葉に獣人が関わった事件を思い出す。
腹を割かれ絶命した獣人の娘、生きたまま四肢をもがれ眼球をくり抜かれた人間の男、まだろくに喋ることも出来ない幼子への無体な仕打ち。
「まさか、お前」
それを行ったのは誰だったか。
「和睦に反対する獣人を呼び入れたのか!?」
獣人同士の争いならば人間側に非はない。
警備の薄さを指摘される可能性も低いだろう。
強さを価値基準のひとつとする獣人にとって警護されることそのものが恥になるからだ。
仮に指摘されたとしても罪人を差し出せば獣人は黙るしかない。
「俺をここに連れてきたのは、俺を罪人に仕立て上げるためか?」
「いや、これはただの――――だ」
その言葉と同時にアドルフは距離を詰め、ヨハンに向けて横薙ぎに剣を振るった。それをヨハンが受け止めようと動いた。その時。
視界の隅に黒い影が写った。
(なんだ!?)
極度の緊張状態にヨハンの世界が緩慢になる。
刺客だ。刺客の手に握られた短剣はアドルフではなくヨハンに向けられている。
(刺客まで用意してたのかよ!)
そう思い睨みつけた先、アドルフの目が――ほんの僅かだが――驚きに見開かれているのが見えた。
(アドルフも知らない!?)
その間にも影は接近する。
(早く防御を! いや、間に合わねぇ!!)
迫りくる影を前に、ヨハンは死を覚悟した。
☆ ☆ ☆
(いける)
影は短剣を標的の脇腹めがけて突き入れた。
馴染み慣れた、短剣越しに感じる肉の感触と濃い血の匂いを――――。
「ぅっぁっ!!!」
金属が弾かれたようなけたたましい音と同時に両腕に衝撃が走る。
そして何が起こったのか分からぬまま視線を上げ、ぽかんと口を開いた。
石だ。
石の壁がある。
あまりに奇怪な現象に短剣を拾うのも忘れ、影は目の前にそびえ立つ石の壁を呆然と見上げた。
だから反応が遅れた。
男の――おそらく標的の――手が自分に向かって伸ばされ――――視界が真っ白に染まる。次いで、頭部に強い痛みが走った。
突如として現れた石の壁に頭を勢いよく押し付けられたのだろうと冷静に判断を下しつつ、ずるずるとその場に崩れ落ちながら、自分をこのような目に合わせたであろう男の方に視線を向けた。
そして薄れゆく意識の中――――
(変だ、ここは建物の中なのに)
男の肩越しに小さな白い月を見た気がした。
☆ ☆ ☆
「あっっっぶねぇ」
ヨハンは意識を失った刺客を見下ろしながら、自分の肩に乗る小さな存在に声をかけた。
「助かったぜ、ハル」