契約
「なるほど……」
背もたれに身を預け、腕を組み、顎に手をおく。
物思いに耽るその動作は、百合がよく行うものだった。
難解な話や、解けない難問をまえにすると、いつもそんな仕草をする。
今回も例に漏れず、いつものように百合は思考を巡らせていた。
「事情はわかった。けど、これからどうするつもり?」
「まず魔術組合に事情を話して、それ用の戸籍を発行してもらう。もちろん、伏せるところは伏せてな」
机上の湯飲みを手に取り、茶を啜る。
「過去に前例はあるし、協議に時間は掛かるだろうが。なんとかなるはずだ」
「口では簡単に言えるけど、そんなに上手くいくと思う?」
「いかなきゃ異世界に送り返すのか? それこそ上手くいくわけない。召喚陣がそんなに都合のいいモノじゃあないってことは、百合だって承知の上だろ」
異世界にある何かを、この現実世界に召喚することは可能だ。
だが、現実世界に元からある何かを異世界に送ることは現状、不可能に近い。
互いの陣地に手を伸ばし、そこにあるモノを掴んで持ち帰ることは叶う。
しかし、すでに持っているモノを相手の陣地におくことは叶わない。
それが理が定めた法である。
「それは……そうだけど」
異世界への出入りが自由に出来ていれば、魔術師はもっと儲けられている。
発展できている。
異世界の文明を取り込んで、今頃は世界の在り方すら変わっていたはずだ。
そうしなかったのは、そう出来なかったからである。
「認めざるを得ないのさ、魔術組合は。ただそれを素直に認められなくて、いつも無駄に時間を引き延ばすんだ。やってることは、子供のだだと変わりゃしないさ」
「相変わらず、組合に対しては辛辣ね」
「当たり前だ。だだに付き合わされてるこっちの身にもなれってんだ。そいつらの所為で、俺は極貧生活を強いられているんだからな」
怪異殺しの剣技が認められれば、仕事がわんさか舞い込んでくる。
その稼ぎを邪魔しているのは、他でもない組合の老害どもだ。
本当に、本当に、腹立たしくてしようがない。
「はぁ……」
とは言え、組合がなければ仕事にありつけないのも事実だ。
だから、余計に腹が立つ。
年数が経つと中身が腐るのは世の常だ。
組織という仕組みの宿命みたいなものだな。
俺はそれの割を食わされている。
「まぁ、もし仮にダメだって言われた時は、渡世の名前を出すさ。没落して久しいとは言え、貴族の名前だ。それなりに影響はあるだろ」
「……双也って、そう言うの嫌いじゃなかったっけ」
「あぁ、嫌だよ。家名を振りかざして好き勝手なんて三下がやることだ。でも、事情が事情だろ。下らないこだわりは捨てて、打てる手を打つさ」
「……ふーん」
そう含みのある返事をして、百合の視線は俺からその隣へと移る。
エリザベスはこれまでの疲労からか、話し終えるとすぐに眠ってしまっていた。
「なんだよ?」
「べつに。でも、変わったなって。今日一日で色々と」
「そうか?」
「そう」
自分自身、その自覚はないが。
「いや――あぁ、古龍の魔力のことか」
たしかに、そこは大きく変わった。
魔力なしの俺が、魔術を構築できるようになったのだ。
この変化は大きい。
「……まぁ、それはそうだし。喜ばしいことだけど」
「煮え切らないな。どうしたんだよ」
「べつに」
そう言って、百合はそっぽを向いた。
不機嫌になった理由がさっぱりわからない。
「あ――そう言えば」
そっぽを向いていた視線が、またこちらに向く。
「今度はどうした?」
そう問うてみたものの、返事がこない。
その様子をみて小首を傾げていると、また視線を逸らされた。
「あの……ね。怒らないで聞いて欲しいんだけど」
「うん? あぁ、まぁ、いいけど」
いきなりなんだ?
「双也を召喚するときにね。一から構築式を書くには時間が掛かると思ったの」
視線は、まだ逸らされたままだ。
「だから、ね。その……ちょうど憶えたばかりの構築式をベースにして、そこに改造を施して完成させたの」
憶えたばかりの構築式?
「そのベースの名前は?」
「……使い魔召喚」
「――マジか」
使い魔召喚。
それは文字通り、召喚した生物を使い魔にする魔術である。
この世界――地球のどこかにいる神話上の生物や、想像の産物とされている存在。通常はそれらを召喚し、契約を交わすことで使役する。
今回のことに当てはめてみれば、俺は百合に召喚された使い魔候補ということになる。
「契約を交わさなかった場合、召喚対象は元の場所に返される――だったな。俺の場合はあの異世界ってことになるのか」
俺はまだ正式には召喚されていないという訳だ。
召喚の途中であって、まだ現実世界に足を下ろせていない。
俺の所有権は、まだ異世界が握っている。
このタイミングで契約が不成立となれば、自動的に異世界に返されるだろう。
そして、百合の再召喚が次ぎも上手くいくとは限らない。
「ごめんなさい。気が抜けて、今の今まで頭から抜け落ちてた。召喚対象が契約を結ばずに滞在できるのは三時間が限度。もう召喚から二時間半は経ってる」
「つまり、あと三十分くらいで異世界に逆戻りか」
衝撃的な事実の発覚だ。
召喚陣の即興構築で無理をした反動が、こう言った形で現れた。
それも、どうしようもないことだろう。
「……エリザベスは、どうなる? 俺と同じで異世界に返されるのか?」
「……正直、よくわからない。ベースが使い魔召喚だってことに加えて、改造も施しているから。一緒に来たエリザベスちゃんがどうなるか、はっきりとしたことは言えない」
「そう、か」
俺だけが異世界に返されるのなら、まだ気が楽だった。
けれど、エリザベスの安否が懸かっているのなら、この現状をどうしても打破しなければならない。
「俺はどうすればいい? なにか対策はないのか?」
「どうするって……対策をするには、もう時間が足りない。だから……」
そう言って、百合は立ち上がる。
テーブルを迂回して、俺の側まできた。
「双也。私と契約して」
「……本気か? それは」
百合が知らないはずはない。
その契約方法を、知らないはずがないんだ。
「本気。大丈夫、ちゃんと五分の杯にするから」
「そう言う問題じゃねーだろ」
「もう時間がないの……するしか、ないの――」
使い魔との契約は、とある手段によって結ばれる。
それは互いの魔力を交換する行為であり、つまるところ。
「キス」
口づけだ。
「……いいんだな?」
「うん。これは私の過失で対応が遅れた結果だから、責任はちゃんと取らないと」
そう言った百合の身体は震えていた。
これはしようのないことだった、と伝えようと思ったけれど。
そこまで腹をくくっているなら、これ以上の言葉は野暮だろう。
「――わかった」
こちらも椅子から立ち上がり、百合を見下ろす。
それから腰に手を回して引き寄せ、指で百合の顎をすこし上げる。
「あっ、ちょっと、待って」
「嫌になったか?」
「そうじゃなくて……その、私……はじめて、だから」
「なっ。いま言うか、それを」
なんてタイミングで、なんてことを。
「だ、だって。乱暴にされたら、怖いし」
俺は狂犬か、なにかか。
「わかった、なるべく優しくするから」
そう告げると、ほんのすこしだけ百合の震えが収まった気がした。
それが気のせいでないことを祈りつつ、俺たちはそっと唇を重ねた。
「――あれ、私……いつの間にか眠って」
眠っていたエリザベスが目を覚ます。
「どうかしたんですか? 二人とも。顔が赤いですけど」
そう訊ねてきたエリザベスに、俺たちは合わせてこう返した。
「なんでもない」
互いの視線は、最後まで合わせられなかったけれど。