Ⅰ-Ⅸ 《記憶の狭間に黒の剣》
ゆっくりと目が開いた。まだぼやけた視界に最初に映ったのは一面の黒。
自分が本当に目を開いているのかを確かめるように、ノエルはその手で天を仰ぐ。銀に光る篭手らしきものが見える。まどろみの中それを見つめるでもなく眺めていると、指の形もはっきりしてきた。
心臓が脈打つ度に後頭部が鈍い痛みを放っている。痛みのおかげで脳も目を覚まし、段々と状況がわかってきた。どうやら後ろから殴られ、そのまま気絶してしまったようだ。彼は目を再度閉じ、上げた手の甲を額に乗せて記憶の再生に努める。
最後に聞いたものは何だったか。怒り狂った叫び声。恐らくヘインズの声だろう。うっすらとではあるが、まだ耳に残っている気がした。何か、彼を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。意識がはっきりしない。
では、最後に見たものは? 怯える、少女の、赤い――。
「――神官様!! ……ッつ!」
勢いよく上半身を起こしたことで、刺すような頭の痛みに襲われた。頭を押さえながら周りを見回すと、まずレナルドが目に入る。その後ろにルミナスを庇うようにヘインズが立っていた。ルミナスは彼の陰に隠れて、怯えてはいるもののこちらを心配そうに見ている。その姿を見て心が痛み、つい目を伏せてしまった。
彼女を背に隠した騎士が口を開こうとしたのを、レナルドが手で制して声をかける。
「おはよう、ノエル。平気かい?」
平気、というのは頭の痛みのことだけではないだろう。いつものような笑顔だが、ノエルをまっすぐ見つめるその眼は笑ってはいなかった。その冷たくも赤い瞳が彼に問うているのだ。今のお前は、ノエル=ブラスとしての正気を保てているのかと。
「……ええ、平気です。申し訳ありません」
「うん、安心だ。でも僕に謝ってもしょうがないよ。わかるね?」
はい、と答えてノエルは片膝を地面に付き、黙ってその光景を見ていた二人に頭を下げた。
「……また大きな過ちを犯すところでした。本当に、申し訳ありません!」
ヘインズもルミナスも何も言わない。当然だ。神官である彼女を、まだ年端もいかぬ少女をこの手にかけようとしたのだ。ヘインズにとって彼女は神官である前に娘だ。憎まれても仕様がない。頭上の彼らはいったいどんな顔をしているだろう。重い沈黙が続く。
「大丈、夫、です。お顔を、上げてください……」
しばらく続いた静寂が震えた声で破られる。しかし、顔を上げることができない。合わせる顔がない。息を深く吸う音が聞こえた。
「お顔を上げてください!」
その声に驚き、咄嗟に顔を上げる。
「ノエルさんは、ヘインズさんに殴られて、ちゃんと謝ってくれました……。だからそれで十分です。だからそんなに辛そうな顔をしないでください。さっきのこと、何か理由があったんでしょう?」
震える声がそう告げた。ヘインズも彼女の隣でやれやれ、と言うかのように頬を緩めている。目を丸くするノエルの肩を優しく叩き、レナルドが手を差し伸べた。
許してくれた。彼女は自分の命を奪おうとした相手を目の前にして、許しの言葉をかけるだけでなく、気遣う素振りさえ見せたのだ。彼らの慈悲深さに涙が出そうになるのを堪えて、レナルドの手を取り立ち上がる。
安心したのか、さっきまで忘れていた頭の痛みが戻ってきた。鈍い痛みさえ心地良く感じるほど、彼の心に張り詰めていた緊張の糸が緩んだのだろう。ルミナスとヘインズを交互に見遣りながら、もう一度軽く頭を下げて言う。
「ありがとうございます。感謝してもしきれません……。この度の暴挙、弁解という形になってしまいますがどうかお聞きください」
続けて三人に事のあらましを話す。
「最初に私が違和感を覚えたのは、ヘインズさんとの戦闘中……。私の剣がヘインズさんの胸を狙ったときのことです。これで決まる。そう確信していましたが、そうはなりませんでした」
「ああ、ありゃあ今にしてみれば不思議だった。あの好機を逃がすような腕前じゃねえはずだからな」
ヘインズの言葉にこくり、と頷いて続ける。
「あの瞬間……。なんというか、時間が止まったような気がしたのです。とても嫌な感覚でした。お三方はあのとき何も感じませんでしたか?」
ヘインズは首を横に振る。だが、思い当たる節があるかのように言う。
「俺たちが旅を始めた最初の夜、魔物に襲われた。止とどめを刺そうってときになって、そいつにやられちまいそうになったんだ。だがその時、ノエルさんの言うようにその魔物の動きがピタッと止まりやがったんだ」
ルミナスは魔物のことなど初耳だ、と言わんばかりに彼の話を聞いて驚きを隠せない様子だ。一方のヘインズは、あの時の違和感の正体はこれか、と複雑な顔をしている。
神官の二人も彼に続いて口を開く。
「私は、さっきもヘインズさんとエクレティオさんには話しましたけど、ヘインズさんとノエルさんの決闘が始まる前からの記憶がないんです。気が付いたら、目の前に剣を振り上げたノエルさんがいて……」
「僕の方はその違和感には気付いていたよ。だからまだ体力的には戦えたはずのノエルとゴーガンの戦闘を止めたんだ。気が動転していた彼にはもう勝負のことなど頭に無かっただろうからね。それに――」
ちらっとルミナスを見る。彼女はその視線に気付き、レナルドを見上げて小首を傾げた。その無垢な仕草に、にこっと笑顔を作るとノエルに話の続きを促した。
「――その嫌な感覚は一瞬のようにも長い時間のようにも感じました。時間が再び流れ始めたと思ったときには、ご覧になっていた通りに私は蹴り飛ばされ、負けていた、ということです。問題はその後なのですが……」
そこまで言ったところで、ルミナスに視線を落とす。先ほど彼女は記憶がない、と口にした。つまりはあれは彼女の意思ではないということだ。だが、あのとき見たあの瞳は紛れもなくこの少女のものだ。ルミナスが今この場にいる状況で、果たして彼の見た全てを話してもいいものだろうか。このまま話を続ければ、また怯えさせ、混乱させてしまうことになるかもしれない。
不思議そうな表情でノエルの言葉を待つ少女から目を離し、レナルドに目線を移す。彼ならばきっと気付いている。意を請うように見つめるが、彼は己の判断に任せると言わんばかりに目を閉じている。どうしたものか、と思案している彼にヘインズが疑問の声を投げる。
「黙り込んじまってどうしたんだよ? 急にルミナスに斬りかかった理由も、その変な感覚ってのと何か関係があんだろ? それとも、ルミナスに原因があるのか?」
「私……?」
二人の目がノエルを逃がそうとはしない。ヘインズの鋭い指摘にもどうやら答えなければならないようだ。意を決して重い口をようやく開く。
「――ええ、その通りです。あのときの違和感の原因を求めて辺りを見渡し、私の目に映ったのは神官様……ルミナス様のお姿でした」
ヘインズの目が彼女に向く。当の本人は自分の顔を指差して怪訝そうな表情を浮かべている。
「そのお姿はルミナス様で、ルミナス様とは全く違った何かでした。まるでルミナス様の皮を被ったような、いえ、ルミナス様に乗り移ったという言い方の方が正しいのでしょう。とにかく邪悪な何かを感じて、すぐ傍にいらっしゃったレナルド様をお守りしなければ、という一心であのような……」
そこまで言うと、ノエルはやるせなさそうな表情を浮かべて口を噤つぐんでしまった。その言葉を最後にまたしても沈黙が訪れる。ヘインズはルミナスの体を頭からつま先まで見下ろす。彼女も自分の頬を叩いてみたり、両手を見つめて異常がないかを確認している。
「ゴーガン、質問してもいいかな?」
レナルドが閉じていた目を開き、問う。
「その剣はいつどこで手に入れた物だい?」
ヘインズは腰に下げた剣を鞘ごと持ち上げて記憶の糸をたぐる。皆がその剣に注目して、ヘインズの言葉を待つ。ルミナスは彼が鎧を着るときには、この剣をいつも腰に下げていたことを思い出していた。きっと旅をしていた頃か自警団時代に、どこかの街や村で買ったのだろうと思っていた。
そういえば彼がこの剣をただ一度でも抜いたところを見たことがあっただろうか? 嫌な予感がする。心臓の音が段々と大きくなるのが聞こえる気がする。背中に嫌な汗を掻いているのがわかる。彼が鞘から剣をゆっくりと引き抜こうとしているのが見えた。
――覚えてねえ。
彼の答えが耳に入った途端、頭の中が急速に回り出した。視界には辛くも美しい光景に溢れた旅路、アルカディアの街での賑やかな生活風景。次々と切り替わる場面に目が回りそうだ。
カチっ、と頭の中で音がして、よく見知ったアルカディアの教会を下から見上げるような映像に切り替わる。やけに空が高い。誰かの足音がする。その足音の主を見ることは叶わず、また場面が移り、頭に無機質な音が響く。
視点が切り替わった。初めて見る光景だ。何もない、荒れた大地。風が吹き抜け、砂ぼこりが待っている。天を仰げば錆びた鉄のような赤い色の空。こんなに気持ち悪い色の空は初めて見る。空を見上げれば必ず見える、肝心なもの。月が見えない。月の光もランプの灯りもないのになぜこんなに地面がはっきりと見えるのだろう。また後ろの方から足音がした。
一人佇む、黒い剣を手にした黒髪の青年。髪と同じ色をした瞳からは涙が流れている。その瞳はどこを見るでもなく瞬き一つしない。涙を湛えたその横顔がこちらを振り向く――。
「――ルミナス!」
聞き慣れた大きな声に意識が戻された。目の前いっぱいに広がるのはヘインズの大きな顔。両肩をごつごつとした手で掴まれているのがわかる。しばらく呆然とその顔を見つめていたが、
「……うわあ! 近いです!」
驚いて彼を突き飛ばしてしまった、かのように思えたが、しっかりと掴まれていた手を振りほどくことができずによろめく。ルミナスの無事を確認するように、ヘインズがじろじろと顔を覗く。彼女に特に変わった様子が無いことが分かると、ふう、と安堵の息を漏らした。困ったように目を逸らして彼女はこの状況への疑問を投げかける。
「な、なんです――」
「これはどういうことだ、レナルドさん?」
ルミナスの言葉を遮り、ヘインズは後ろを振り返る。難しい顔をしたレナルドが、いつの間にかヘインズの腰に下がっている剣を見つめながら答える。
「その剣はこの国の物じゃない。――それ以上は、わからない」
不気味な風が、頬を伝う冷や汗を撫でた。
「この国の物じゃないって、どういうことだ。どうしてそれがわかる?」
状況が飲み込めないヘインズが疑問の声を上げる。眉間に皺を寄せ、睨むようにヘインズが腰に携えた剣を見て、先ほどレナルドは告げた。その剣はノクトゥーアの物ではない、と。
幾度と記憶の糸を辿ってみても、ヘインズにはノクトゥーアを出たという記憶が見つからない。では、なぜそれがここに存在している? 何処でこれを手に入れた? ……思い出せない。
隣に立っているノエルの視線が剣とレナルドを交互に行き来するのが見える。恐れとも不安とも分からぬ感情を抱いた瞳だ。その視線がレナルドに向いて止まり、ヘインズの問いへの答えを催促している。
神官の目が黒い剣の主に移る。咎めるかのような眼光に思わず後ずさってしまった。その赤い瞳がヘインズを責めたてる。それはノクトゥーアに存在してはいけない物だ、なんという愚かしいことをしてくれたのだ、と。ヘインズはその眼差しに耐えながら。投げかけた問いに対する答えを待った。
ゆっくりと一つ瞬きしてレナルドが口を開く。
「その剣に書いてあった金文字……。ノクトゥーアの文字じゃない。恐らくそれは昼の国から持ち込まれた剣だろう」
その言葉を聞いてヘインズは剣の柄を睨みつける。
――どうしてそんな物を俺が。こんな剣のせいでルミナスは……。
そう恨み事を心の中で呟いたところで、はっと思い出したように後ろを振り返ると、ルミナスが全く何の話をしているのかわからない、といった表情を浮かべて立っている。
その細い肩を再度掴んで揺さぶった。
「お前、本当に何も覚えてないのか!? いったいどうしちまったんだ!?」
「わあわあ! 酔う! 酔っちゃいます! 覚えてないって何のことですか! さっきから話が全然見えませんよ!」
悲痛の叫びを上げたルミナスを離してやると、頭をふらふらさせて目を回している。やはり彼女は何も覚えていないようだ。
つい先ほどのことだ。この剣をどこで手に入れたかを思い出そうとし、鞘から引き抜いた。その瞬間、隣に立っていたルミナスが何かに取り付かれたかのように、突如として笑い声を上げたのだ。いや、実際に憑かれたのだろう。剣を収めろ、と叫ぶレナルドの声に従うと、彼女は笑うのを止めて呆然と立ち尽くすのみとなった。何度も呼び掛けてようやく意識が戻ったかと思えば、何事もなかったかのように振る舞ってみせた。
――この剣は危険だ。
最善は別の武器を用意して、この剣をエクレティオの教会で厳重に保管して貰うことだろう。もし万が一、売りに出しでもしたら何処の誰とも知れない者がアレを呼び起こしてしまうことになり兼ねない。
ふらつく頭を両手で押さえている彼女をちらりと見て、隣に立つもう一人の騎士の様子を伺う。額に汗を流してはいるものの、こうする他ない、とヘインズを見てこくりと頷き同意を表した。
「レナルドさん、頼みがある。押し付けるような真似をすることになるが、この剣を教会で預かってほしい」
腰に刺した剣を差し出してレナルドに請う。
「……わかった。それが彼女にとっても一番だろうからね。僕とノエルが責任を持って預からせて貰うよ。代わりの武器もこちらで用意しようか?」
「いや、散々迷惑かけといてそこまで世話になれねえ。自分の相棒は自分で探すさ。悪いが、その剣のことよろしく頼む。ノエルさんも、巻き込んじまって悪いな」
「いえ……。私は神官様の意思に沿うだけです」
おおよそ話が付いた様子を察して、ようやくルミナスが会話に参加する。
「ヘインズさん、その剣、手放しちゃうんですね」
「ああ……。まあ、そうだな」
鞘から抜かれさえしなければひとまず彼女には何も起こらない。今はレナルドの手の中だ。彼に限って間違いなどあり得ないだろう。
問題は真実を彼女に伝えるかどうかだ。口には出さなかったが、互いの顔を見る限りルミナスを除く三人の共通認識は出来上がっているようだった。このまま彼女には黙っていた方がいいだろう。無駄に不安を煽るような素振りを見せまい、とヘインズが続ける。
「あの剣じゃ全然手に馴染まないみたいでな。ノエルさんにもギリギリで勝てたくらいだ」
「ギリギリとはご挨拶ですね。どうです? このまま再戦でも……と言いたいところですが、先ほど殴られてまだ本調子ではないようです」
だな、と相槌を打って笑顔を作ってみせる。このやり取りを見て、ルミナスは試合のことを思い出したようだ。
「そうだ。エクレティオさん、どうしましょう? このまま試合、ですか……?」
今度は自分が戦うのだ、と認識して徐々に表情に不安の影が出てきている。レナルドはそんな彼女の不安を拭うように優しく微笑んで言う。
「いや、今日はやめておこう。明日の団体戦もあるし、ゴーガンの武器を買わなくちゃね。それに初戦闘は一人じゃない方が君も安心だろう?」
「はい……。じゃあ、早速買いに行きましょう! お店が閉まっちゃいます!」
「ごめんね、アルカディア。僕とノエルはちょっと急用ができたんだ。武器の調達はゴーガンと二人で行くといい」
それを聞いてルミナスは、そうなんですか、と残念そうな顔をして、
「じゃあ、ここでまた明日ですね。エクレティオさん、今日は演説お疲れ様でした! ノエルさんもお大事に! ではヘインズさん、行きましょう!」
「お、おう。……悪い、その剣のことは任せた。また明日、よろしく頼むぜ」
戦わずに済んだという安堵からか、ようやく彼女に笑顔が戻ったようだ。二人に労いの言葉をかけて、ヘインズの腕を引っ張りながら彼女は教会を後にした。
教会から街の中心区までの道中、あの黒い剣と豹変したルミナスのことがヘインズの頭に過ぎっていた。赤ん坊の彼女を拾ったのは間違いなくヘインズだ。どうして昼の国にあった剣が、ノクトゥーアどころかアルカディア周辺からも出たことのないルミナスに影響を及ぼしたのか。彼女は紛れもないノクトゥーア人だ。それは髪と目の色ではっきり分かる。
……これ以上考えても仕方がない。怖い顔をしていては、折角笑顔になったルミナスをまた不安にさせてしまうだろう。そう判断して無理やりにでも別のことを考えることにした。
新しい武器は当然決まっている。槍や斧などの武器の使い方を知らないという訳ではないが、今後も旅が続くことを考えれば、邪魔になりすぎない手ごろな大きさの剣が妥当だろう。本当なら鍛冶屋で特注するべきなのだが、それでは何日掛かるのか分かったものではない。
「ねえ、ヘインズさん」
「ん?」
「この街を出たら、次はどこを目指せばいいんでしょう? やっぱりあの山の麓の村でしょうか?」
エクレティオの街に入る前の丘で地図を確認したときに、山の麓に村があることを知ったのだろう。彼女がそう尋ねてきた。
「そうだな。ここから一番近いし、それ以外の村や街はもう山を越えた先にしかねえからなあ」
「山越えかあ……。相当きつそうですね……」
ルミナスがガクッと肩を落とす。
「いや、そうでもないぜ。少なくとも登山はせずに済むだろう。その村の近くに洞窟があってな、山の向こう側と繋がってんだよ」
「登らなくていいんですね!? あ、でも山からの景色は見たいかも……」
むーん、と腕組みをして唸る彼女にヘインズは優しく微笑んだ。
――こいつは俺の娘だ。あんな剣の好きにさせてたまるか。万が一アレが出たとしても、俺が絶対になんとかしてみせる。心の中でそう固く誓った。