Ⅱ-Ⅳ 《慟哭》
激しい雨音を聞きながら、ヘインズとリュカは互いに無言で向かい合っていた。温くなった紅茶をたまに啜っては、また食卓に目を伏せる。話さなければならないことはあるのだが、家を飛び出したアランの様子が気掛かりでそれでころではなかった。
気まずい時間に耐えていると、浴室からルミナスを背負ったサラが姿を現した。二人の様子を見て怪訝そうな表情を浮かべている。アランが外に出たことには気が付いていない様子だった。キッチンにでもいると思っているのだろう。彼女が弟を見て、
「どうしたんです、二人とも? ああ。それよりリュカ、神官様をベッドに運ぶの手伝ってくれない?」
「う、うん――」
そう言って立ち上がろうとしたリュカをヘインズが止める。
「俺がやるよ。世話かけっぱなしだしな」
では、とサラが寝室へと歩き出した。ヘインズはそれについていく。娘の安否を確認したかったのもあるが、迷惑を掛けて何もしないままだというのも落ち着かない。それにサラにはきちんと礼を言っておきたかった。
案内された寝室には、左右の壁に沿って二段ベッドが二組ずつあった。奥の壁には大きめの窓。いつもなら月の光が差し込むのだろう。
行動するには狭すぎるこの部屋は、まさしく横になるためだけにあるといえる。この部屋で彼らは毎晩語り合ったりするのだろうか。よそ者の自分たちが、そのような大切な場所を侵してしまうのは少し気が憚られた。
サラが右奥のベッドの前で立ち止まり、ヘインズに目配せする。彼は頷き、彼女の背からルミナスを抱き上げる。相変わらずその目が開かれる様子はない。疲れているだけだ、そう言い聞かせてルミナスを下のベッドに寝かせた。
「悪いな、ベッドまで借りちまって……」
「いいんですよ。神官様ですし、何より……まだこんな女の子なんですから」
サラはそう言ってルミナスの頬を撫でる。ヘインズはしばしその様子に見とれていたが、
「そうだ。ちゃんと礼を言わせてくれ。アランから聞いたんだが、ずっとこいつの心配してくれてたんだってな。俺の娘を助けてくれて、ありがとう」
「いえいえ、お礼ならお兄ちゃ――アランとリュカに言ってください。二人が森に行こうって言わなきゃ、きっと神官様方には……」
その台詞を聞いて、ヘインズはふふっと声を漏らして笑った。サラは不思議そうにこっちを見ている。弁解しなければアランの呼び方を笑ったと思われてしまう。
「いや、気を悪くしないでくれ。あの二人にも同じことを言われちまってな。よく似た兄弟だよ。……おっと、ちゃんと名乗ってなかったな。俺はヘインズ、神官騎士だ。こいつはルミナス。起きたらちゃんと紹介させるよ」
「サラです。よく似ている、ですか。ええ、村のみんなそう言うんですよ。よろしくお願いしますね」
頭を下げて笑顔を見せた彼女に、ヘインズも笑顔を返す。そして眠るルミナスに目を移し、ばつが悪そうに頭を掻いて願い出た。
「それで、な……。散々迷惑を掛けといて厚かましいってのは分かってるんだが……」
サラは続く言葉を察し、
「村にいる間は私たちのところに泊まっていってください。小さな家ですが、雨風は凌げます」
「悪い……。世話になるよ」
そしてサラは再びにっこりと笑いかけた。
リビングに戻ってもアランはまだ帰っていないようだった。食卓には先ほどと同じように、リュカが心配そうな表情を浮かべて座っていた。そわそわと落ち着かない様子だ。
少年がリビングに戻った二人に気付くと、空になったカップに紅茶を淹れるためにキッチンへと向かった。
サラはきょろきょろと部屋の中を見渡し、ようやくアランがいないことに気が付いたようだ。熱そうに三人分のカップを手に戻ったリュカに長男の所在を尋ねるが、彼は首を横に振って分からないと答えるばかりだった。外に出てアランの後を追うべきか、と話し合う二人の間にヘインズが割って入る。
「よそ者の俺が言うのもなんだが、それはやめといた方がいい。どこに行ったかもわからねえし、行き違いになっちまったら今度はアランがお前らを探しに出て行くかもしれん」
「それは、そうですが……」
彼の言葉を理解はできるのだが、リュカはいまいち腑に落ちない。
「まあ、この雨だしな。心配になるのはわかる。だが、感情を優先して冷静さを忘れちゃいけねえ。まあ他にも何人も仲間がいたいみたいだし大丈夫さ」
自分自身にも言い聞かせるようにそう告げた。もし今後ルミナスに危険が迫るような局面にあったとき、落ち着いて行動ができるように。二人はヘインズの言葉を聞き、なんとか感情を抑えて再び席についた。
ただ黙って座っているのも不毛だ。ヘインズはこの村を目指していた理由――旅をしている理由を二人に語る。もちろん、今の彼らに不安を煽るようなことを言うまい、と戦争の話は避けた。
そもそもの発端である夜の神の顕現という話に、懐疑的な目を向けられるものだと思っていたが、二人はそれを聞いてすんなりと納得した様子でいる。どうやら神官は既に村人たちに神が現れたことを伝え、それを信じさせたようだ。
神はこの村の神官にどのような命令を下したのだろうか。気にはなったが、ルミナスが目を覚ましてから教会に足を運ぶことにした。
おおよその要点を語り終えて、ヘインズが自身の過去について話していると、家の扉が力無く開かれた。それに続いて、アランが先ほどの男に肩を借りてとぼとぼと入ってきた。雨でずぶ濡れになっていることなど気にも留めていない。明らかに異質なその様子に、座っていた三人は思わず駆け寄った。
「お兄ちゃん、どうしたの!?」
サラの呼びかけに、アランはただ、ああ、とだけ答える。虚ろな瞳には何も映っていない。彼を支える男は、悲痛な顔でサラから目線を逸らした。彼女はそれを見逃がさない。
「ねえ、ドミニク! いったい何があったの!?」
ドミニクと呼ばれたその男は、しばらく無言の抵抗を続けていたが、サラとリュカの執拗な詰問にやがて観念して、二人を悲しげに見つめて口を開く。
「……親父さんと、お袋さんが、死んだ」
「え――?」
二度は言わない。言えるはずもない。ドミニクは二人から再び顔を逸らし、きつく瞼を閉じた。下唇から血が流れている。痛みで誤魔化して、必死で涙を堪えようとしているのだろう。彼のその様子を見てしまった二人は、それが冗談だという可能性を捨てざるを得なかった。
「う、そ……。嘘よ……っ!!」
両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちた。ヘインズはサラの肩に手を回し、ただ黙ってその泣き声を両の耳に受け止める。哀しみの感情を爆発させた嗚咽混じりの叫び。細い指の隙間から溢れて止まらない雫。泣き喚くサラの姿を見て、ドミニクもついに肩を震えさせて涙を零した。
涙を流す二人を、アランとリュカは見つめていた。兄は全ての気力を失い、ただただ無感情に。弟はなぜ二人がここまで悲しんでいるのか、まるで理解できていないかのように。言葉もなく、ひたすら視線を注いだ。彼らの日常は、俄雨の訪れのように唐突に崩壊してしまった。
ヘインズは近しい人の死に直面してしまった三人の若者たちに、言葉を紡ぐことができなかった。今日会ったばかりのよそ者の自分に、彼らの悲しみを分かってやることなどできない。そう痛感し、少しでも気持ちが落ち着くのを待つ。
――窓の外の雨はまだ止みそうになかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
木の屋根から雫がこぼれた。散らかった土に落ちては跳ねる。
ヘインズは明かりのない部屋の片隅にある、干し草の山の上に寝転んでいた。むせ返るような獣臭に加え、時折すぐ近くから聞こえるブルルという馬が鼻を鳴らす音。扉と呼べるものはない。雨が流れて、入り口近くには水溜りができている。馬小屋はおおよそ人が落ち着けるような環境ではなかった。
それでも、今あの場に自分がいては邪魔になるだけだろう。正直、居心地が悪かったというのもある。リュカの制止を丁重に断り、家から少し離れたところにあった馬小屋に逃げ込んでしまった。馬小屋で横になるのは久しぶりだったが、どうせすぐに慣れる。彼は体に触れる干し草に身を沈めながら物思いに耽った。
あの後、ようやく涙を止めたサラは吸い込まれるように寝室へと歩いて行った。眠れるかは別として、そっとしておいた方がいいだろう、とそれを止める者はいなかった。その場に残った四人はしばし沈黙していたが、リュカが外から帰ってきたアランとドミニクに風呂に入るように告げ、二人もまた重い足取りで浴室へと消えた。
リュカはヘインズに、騒がせてしまったことを謝罪し、すっかり冷めてしまった紅茶を淹れ直した。まるで何事もなかったかのように普通に接している少年が、ヘインズは気掛かりだった――。
「ああいうのが一番危ないんだ」
人間というのは余りにも衝撃的なことが起こると、自らの心を守るために一時的にその機能を停止する。それが死を受け入れられないといったり、実感が湧かない、といった原因の一つだ。
自警団時代の彼も、その仕事柄、少なからず死を見てきた。それは野盗であったり、時には同僚であったりもした。亡くなった同僚と特に親しかった男が、ちょうど今のリュカのようになっていた。だが葬儀でも涙を見せなかった彼が、何年も経った後、ふとした瞬間に突如として涙腺を決壊させたのだ。その時になるまで、彼は同僚の死を受け入れることができなかったのだろう。
「リュカにはそうなって欲しくねえな……」
そう呟いて寝返りを打つ。今日だけで心を揺さぶられることがいくつも起きて気持ちが落ち着かないが、体は疲れ果てていた。このまま眠ってしまおう、と目を閉じたとき、雨が地面を打つ音に紛れて足音が聞こえた。急ぎ走る気配はない。足音は馬小屋の前で止まった。小屋の中がランプの灯りで照らされる。
「――ヘインズさん、起きてるか?」
「ああ」
アランだった。小屋の中に入ることはなく、外套も羽織らずに立っている。せっかく風呂で体を温めたというのに、銀色の髪や衣服からは水滴が滴っていた。
ヘインズは体を起こし、中に入るようにと彼に声を掛ける。恩人をいつまでも濡れ鼠にしておく訳にはいけない。それに、わざわざこうして出向いたのだから何か話があるのだろう。アランはヘインズの前まで来ると、口を開いた。
「両親が、死んだ」
「……聞いたよ」
「親父とお袋はな、行商として王都に鉄鉱石を運ぶ仕事をしてたんだ」
死者に思いを馳せるように、ぽつりぽつりと穏やかな口調でそう続けた。ヘインズは黙って彼の話を聞く。
「俺たち兄弟が小さい頃は、親父だけが王都に……いや、この話はいいや。何ヶ月か前に、神官様が神託があったって俺たちに言ったんだ。今までよりももっと沢山の鉄鉱石を王都に届けるようにってさ。ほら、ここにいる馬も少ないだろ? みんな行商に出ちまってるんだ」
そう言ってランプを持った手を上げ、部屋中に届くように光をかざした。ヘインズはそのときになって初めて、一頭一頭を囲う馬房に比べて馬の数が極端に少ないことに気が付いた。ランプも持たずに馬小屋に飛び込んだから、ということもあるが、入ったときにはじっくりと小屋の中を観察する心の余裕などなかったのだ。
採鉱の村の人々は基本的に、鉱山で鉄鉱石を掘り出す者とその掘り出した鉄鉱石を王都に運ぶ者とに役割が分かれていた。アランの両親も行商に出たのだろう。だが、神託があったと言われて簡単に信じられるはずもない。ヘインズの中に湧いた疑問に答えるように、
「この村じゃ神官様の言うことは絶対だ。それにあの神官様は嘘や冗談を言うような人じゃない。それに沢山の鉱石を運べば、その分だけ稼ぎになる。たとえ嘘だったとしても、俺たちに不利益になるようなことなんてない。そう思ってたんだ」
「思ってた、ってのは……」
アランは淡々と続ける。
「考えが浅はかだったよ。さっき出てったのはな、行商に出た人たちが野盗に襲われたって報せが入ったからだよ。なんとか逃げ延びて帰ってきた奴に話を聞きに行ったんだ。……全滅だとさ」
数ヶ月前を境に、鉄鉱石を運ぶ行商の馬車が増えた。野盗はそれに目を付けたのだろう。軽量化していたかは定かではないが、例えそうであっても、一列に並んだ馬車を襲うのは容易に違いない。自分たちにとって不都合なことを話すかもしれない村人たちがどうなったかは、想像に難くなかった。
そこまで話すとアランは口を閉じてしまった。両のこぶしを固く握り、その腕が小刻みに震えだした。先ほどまで絶望に囚われていたとはとても思えないほどの怒気を体中から放ち、ただ佇んでいる。
ヘインズは彼の様子を見て、一つ疑問が生まれた。それを確認するようにアランに尋ねる。
「……その話をするためだけに、わざわざ俺のところに来たわけじゃないんだろ?」
アランは荒れた鼻息を抑えることもせず、低い声で言う。
「あんたの昔の話をリュカから聞いた」
「自警団にいたって話か」
「あんたの腕を見込んで頼みが――」
「何だ?」
ヘインズは彼の言葉に被せるように問う。その目元を鋭くし、無言で牽制する。その先の言葉を紡いでも良いのかをよく考えろ、中途半端な覚悟で口にしていい言葉ではない、と。
アランはそれを物ともせずに、目をまっすぐ見つめて言う。
「――あいつらを、野盗どもを殺す力を貸してくれ」
予想が的中してしまった。できれば外れて欲しかったが、仕方がない。ヘインズは溜息を吐いて目を閉じる。
アランはできるだけ強い言葉を選んだ。怒りに駆られているとはいえ、強い意志の込もった言葉だ。だが、その願いを聞き届けてもよいものだろうか。まだ若い彼に、人を殺すという業を背負わせてもいいのだろうか。
復讐は何も生まない、死んだ人がそれを望んでるはずがない、なんてただの綺麗ごとだ。そんな言葉は体よく泣き寝入りしろ、と言っているだけにすぎない。それで納得できるのなら、初めからそんなことを思いつくこともないだろう。
――もしルミナスが殺されるようなことがあれば、俺だって同じように復讐を考える。その先に何も残らないとしても、自分の家族の命を奪った奴がのうのうと生きているという事実をきっと許せねえ。
アランを止めるという考えは、ヘインズの頭から消えていた。断ってしまえば、彼は恐らく一人でも実行に移すだろう。狩人を名乗った彼の扱う武器は恐らく弓矢だ。距離を詰められてしまえば、あっさりとその命を散らしてしまうことになる。それは避けたかった。
彼が旅に同行するとなれば、当然ルミナスもそれを見てしまうということだ。魔物や動物を相手にするのとは違う、人殺しの瞬間を。戦争が起こる以上は、遅かれ早かれ人の命を奪う場面を嫌でも目にすることになる。だが今ではない。今の彼女にその光景を見せるのは余りにも酷だ。――やはりルミナスは置いて行くしかない。
頭を働かせていると、彼の復讐を正当化する理由も浮かんだ。王都に運ぶ鉄鉱石は戦争に向けた装備の材料だろう。その流通が途絶えては、国にとっても大きな損失になってしまう。神の意向に沿うならば、ここで野盗を討つのは必要なことだ。
「わかった。力を貸そう」
ヘインズの答えを聞いて、アランは邪悪な笑みを浮かべる。
「だが、条件がある」
「あいつらを殺せるならなんでも聞くよ。言ってくれ」
「お前が死なないことだ」
きょとんとした。彼が予想していたものとかけ離れた条件に、先ほどの狂気に満ちたものとは違った笑みがこぼれる。どうやら少しは平静を取り戻したようだ。ヘインズは安堵の息をついた。
「了解したよ」
「それじゃ、計画を立てるぞ――」
アランが言うには、行商はいつも早くに出掛けるそうだ。出発は二日後の朝に決めた。野盗を誘い出すために、彼らも行商の振りをして各々に馬車を出すことにした。武装していては警戒される可能性があるため、それぞれ武器は足元に隠し、ヘインズは鎧ではなく村人と同じ格好をする。
当然だが荷台に鉄鉱石は載せない。馬の負担を軽くすることも大切だ。あくまでそう見せるために干し草を木箱に詰め、上から布を被せて誤魔化す。
アランは基本的な魔法は使えるが、戦いに向いたものはどれも使えないようだ。ならば常に周囲を警戒し、野盗が姿を見せ次第、矢を射させる。接近されたらヘインズが応戦し、アランは援護射撃に専念する。万が一のことを考えて、彼にも近接武器を一つ用意するように告げた。
「一応、魔法で結界を張るようにしておく。内側からなら簡単に壊れるから敵を見つけても俺に知らせる必要はない。それが合図になるからな」
そこまで説明し、ヘインズは顔を曇らせた。襲ってくる野盗がその組織に属する全員だとは考えられない。残った野盗を殲滅できなければ、その報復にこの村が襲われてしまうだろう。たった二人で、何人とも知れない数を相手にするのは可能だろうか。アランは狩人であるとしても、人を標的とした戦いに関しては素人だ。
その懸念を彼に伝えると、彼は腰に手を当てて言う。
「全員ぶっ殺してやればいい……って言いたいところだけど、失敗したら俺の命だけじゃ済まないんだよな。わかったよ。明日、みんなに事情を話そう」
怒りに身を任せるだけではなく、冷静な判断ができている。流石に慎重さが必要な狩人を生業としているだけはある、とヘインズは目の前の青年に心の中で賛辞を贈った。
「あんたに頼んでよかったよ。……断られると思ってた。そうなっても一人でやるつもりだった」
「だろうな。俺も昔、仲間を亡くしてる。気持ちはわかるとは言わんが、受けた恩は返したい」
「そうか……。ありがとう、ヘインズさん」
そう言って手を差し出した。その手の平を強く握る。決して死なせはしない。そう気持ちを込めた――。
アランは家に泊まればいいと言ったが、ヘインズはまたもそれを断った。青年は彼が遠慮する意図を悟ると馬小屋を後にした。雨の中を走り去る背中を見て、安心したようにそのまま干し草の上に倒れ込む。
ルミナスは大丈夫だろうか。サラは、リュカは、ドミニクはどうだろう。
頭に彼女たちの顔が浮かんだが、やがて襲いくる睡魔に逆らえず、彼の長い一日は終わりを迎えた。




