Ⅰ-Ⅰ 《神官と騎士》
暗い夜の海を彼女は眺めていた。
月に照らされた水面はきらきらと揺れる。その光を受けた彼方の水平線は、空と海との境界を作り上げている。少し目線をずらせば月の光が射すことのない、境界が曖昧になる点を見つけた。まるで飲み込まれそうな一面の黒に少し身震いする。
ルミナス=アルカディアは銀色の長い髪を潮風に揺らし、赤い瞳を閉じてその場に寝そべった。
漣の音が聞こえる。潮の香りが鼻をくすぐる。こうしていると小さな悩みの一つや二つなど、どうでもよくなってくる。嫌なことや面倒なことを全て洗い流してくれるような、そんな静かな時間がルミナスは好きだった。
「やっぱり、心地良い」
「なーにが心地良い……だ! このかっこつけサボり魔!」
いつものように野太い声に静寂が破られた。せっかくの大切な時間が今日も台無しにされてしまった。
目を開くと大柄の髭男が、麻のワンピースを着て横たわる彼女を呆れ顔で見下ろしていた。銀色の鎧をその身に纏い、月の紋様が刺繍された青い外套を肩から羽織っている。ルミナスは青い宝石の髪飾りを月の光に煌めかせ、うんざりだと言わんばかりに溜息を吐いて、
「またですか。いい加減にしてくださいよ」
「こっちのセリフだバカ野郎。さっさと街に戻るぞ、このバカ娘」
人のことをバカバカと……と内心毒づいて渋々立ち上がり、ヘインズ=ゴーガンの背に歩きだした。彼女を見つけるなり罵倒の声を響かせた彼は、神官に仕える騎士だ。十六年前、街の教会に捨てられていた赤ん坊のルミナスを引き取って以来、共に暮らし、その面倒を見てきた。
ルミナスは親代わりともいえる彼に悪態を吐いて小走り気味に隣に並ぶ。
「歩くのが速すぎるんですよ、ヘインズさん」
「お前の歩幅が小さすぎるんだよ。それといつも言ってるが、俺を"さん"付けで呼ぶのはやめろ。敬語もだ。昔みたいに……」
「いつも言ってますが、年上に敬意を払うのは当然のことじゃないですか。やめませんよ」
ヘインズの言葉に嫌味混じりの答えを返す。昔は彼を父さん、と呼んでいた。もちろん口調も今のようなものではなかった。喧嘩したり笑い合ったりの普通の親子の関係を築いていた。しかし、ある時点をもってその日常は一変してしまった。
試すような笑顔を浮かべた彼女に、ヘインズは少し困ったように言葉を返す。
「年上って言っても俺はお前の親なんだぞ。どこの世界に実の親を"さん"付けで呼んだり敬語で話す娘がいるんだよ」
「きっと探せば沢山いますよ。特に王都ならすぐに見つかりそうです」
にっこりと笑って、いつものように彼の説得を躱した。彼もすっかり諦めた様子で話題を変える。街の自警団が近くの森で魔物を見かけただとか、あの仕立て屋の息子がついに店を継いだだとかいう他愛のない世間話だ。ルミナスも彼の話に笑顔を浮かべ、会話に花を咲かせた。
しばらく歩くと煌々と夜空を照らすように光が見えてきた。二人が生まれ育った街の明かりだ。近付く度にルミナスがげんなりとした表情を浮かべる。
「ああ……街が見えてきてしまった! また現実に戻らなきゃいけない時間がきてしまったぁ……!」
大げさに頭を抱え、この世の終わりだと言わんばかりに嘆くルミナスに呆れつつヘインズは、
「お前は毎度毎度違った切り口で絶望するから飽きねえなぁ。さ、お前がただの町娘でいられる時間はおしまいだ。覚悟決めて戻りな」
「はあ……。毎度毎度のことだけど、ほんっとこの瞬間が嫌になりますよ……。はい! じゃああっち向いててくださいね!」
観念したルミナスは息を深く吸い込み、左手を胸に当てて、
――ノクトゥールに捧ぐ。
この国を作り上げたとされる神への祈りを口にしたルミナスの左手から黒い光が溢れた。月のない夜空の色にもよく似たその光は、ぽつりぽつりと彼女の体に纏わりつく。次第に光は広がり、やがて彼女の姿を隠すように全身を包み込んだ。
衣擦れのような音が聞こえて数秒、彼女を覆った黒い光が段々と薄れ、空へと溶けるように消えてしまった。ふう、と息を吐いて、背中を見せているヘインズに声をかける。
「はい、お待たせしました。もうこっち向いていいですよ」
「まったく……。どうせ見えねえんだからどこ見てても同じだろ」
「私は人に着替えを見せる趣味はありませんので」
彼がルミナスを再び見たとき、彼女はもはや今まで着ていた麻のワンピースに身を包んでなどいなかった。濃紺のローブをその小さな体に纏っている。左足の付け根に当たる部分には、ヘインズと同じく月の紋様が刺繍されている。彼女の銀色の長い髪には、着替える前と同じ髪飾りが輝いた。
「別にガキの着替えなんざ見たって何も嬉しかねえよ。さっさと行くぞ。だいたい、なんでいつも街の外に出るときは着替えてるんだよ」
「ガキじゃないですよーだ。勿論、いたいけな少女が暴漢に襲われそうになっても動きやすいように! あと単純にこのローブはかわいくないからです!」
長い溜息を一つ。誰がこんなガキ襲うんだ、という言葉を飲み込んで街へ通じる道へと歩みを進めた。ルミナスは突然歩き出したヘインズに置いていかれまいと、ぴょこぴょことその背を追う。
街への道を照らす月の輝き。零れ落ちそうなほどの星の光。夜空に響くのは二人の靴音だけだった。喧騒を離れた静かな時間はもうすぐ終わる。街に近付く度に二人の影は濃く、長く伸びていく。街の門を目の前にして、ヘインズは口を開いた。
「ほら、アルカディアの街だ」
――アルカディア。ルミナスの姓と同じ名を持つ街。この国にある数々の街、その教会の神官は街の名を姓にすることになっていた。ルミナス=アルカディアはこの街の神官だ。日々、この国を作り上げた神に祈りを捧げ、街の人々の依頼を受けることが彼女の仕事だった。
門の内側から活気のある声が聞こえてくる。行き交う人々の姿は夜もお構いなしに明るい。先ほどまでの静けさとは打って変わって、様々な音に溢れている。この街の、この国の人々はルミナスやヘインズと同じく銀色の髪に赤い瞳をしている。太陽の光を浴びることがないため、色素が薄いのだ。
そう、この国では太陽の光が射すことがない。かつて、夜の神と昼の神の争いの末に、世界は夜の国と昼の国に分断されてしまった。――ノクトゥーア。それがこの国の名だ。各地の神官が祈りを捧げる夜の神、ノクトゥールの作り出した夜の国だ。
ルミナスは街の喧騒にも負けないような声で、
「――ただいまです!」
さっきまで嫌がっていた彼女とは裏腹に、その表情は月の光のように輝いていた。