第六話 真夜中の訪問
アルドは食事を摂り終えたあと、自室に戻る前に湯を浴びた。
地下迷宮の十層には水源があり、それは地熱によって温められて温水となっていた。それを引いて作り出された天然の湯殿には、人間に近い姿をした魔王の側近たちの憩いの場となっていると、プリムが教えてくれた。
ここで『練成』もできるとプリムは言ったが、アルドはまだ求めなかった。
ルシフェルに言われたことが、今も引っかかっている。
都合よく利用された敗残者。そう言われたままで女を求めることは、魔力を生むためというよりも、慰めを求めているように思えてならなかった。
それはつまらない意地だと分かっていた。生まれ変わって代謝を増し、精力も比べ物にならぬほど強くなった肉体は、本能から生ずる欲求を常に訴え続けてくる。
いずれ手を出すのなら、今自制したところで、何かが変わるわけでもない。
考えながら、アルドは自室に戻り、ベッドに座る。魔族として変化し、勇者であった時よりもさらに強靭となった肉体は、それだけ維持に魔力を必要とする。
食事だけでも魔力は補給され、満たされてはいないとはいえ、飢餓は感じない。アルドは明日から一日も無駄にすることなく、自身と魔王軍を強化することを考えながら、褥に身を預け、眠りに落ちた。
◆◇◆
アルドは旅に出る前のことを夢に見ていた。
王国の武術大会。その準決勝で、アルドはシエナと剣を合わせた。
シエナはアルドが聖騎士しか使えないはずの『神聖気』を使えることに驚きながら、負けん気の強い瞳を彼に向け、裂帛の剣を繰り出してアルドと渡り合った。
だが、アルドの技量はシエナを明らかに上回っていた。一つ年上の男性であるアルドは、十七歳の少女剣士であるシエナを体格で圧倒していたが、父の配下の騎士たちを圧倒してきたシエナには、その敗北は信じがたいものだったという。
アルドにとって、シエナとの試合は驚きの連続だった。聖騎士シエナの剣と神聖気を扱う才能が群を抜いていると知ってはいたが、彼女はアルドがこれまで会ったどんな女性よりも美しく、戦う姿は戦女神のように魅力的だった。
アルドは試合を終えたあともシエナとの再会を望んだが、不純な動機で再び聖騎士と会うことはできないと諦めていた――だが、魔王と戦う勇者と認められるために、国王に謁見する前日に、思いがけない出来事が起こった。シエナが侍女に頼み、アルドに手紙を届けさせたのである。
その内容を見て、アルドはシエナと互いに同じ印象を抱いていたのだと知った。
『アルド=ヴェイン殿、あなたほど強い剣士を私は知りません。私が王国最強なのだという驕りを、あなたは見事に打ち砕いてくれました。そのことを悔しく思うよりも、むしろ嬉しいと思っているのです。それは、あなたのことを尊敬しているからです。異性に対して尊敬という感情を抱くのは、お父様以外では初めてです。魔王を無事討伐し、王都に帰られた暁には、もう一度お会いしたく存じます』
その手紙を受け取ったアルドは、魔王討伐の旅に出る前にシエナと会い、彼女に結婚を申し込んだ。一目惚れと言ってもいい、周囲のことなど見えていない、まさに猪突猛進と言ってもいい行動だった。
シエナはアルドの突然の求婚に戸惑いながらも、それを受け入れた。彼女の手紙は、アルドへの好意を伝えるものだったのである。
彼女が結婚の申し込みを受けたときにはにかんだ笑顔を、アルドは今でも忘れることができていなかった。
その彼女がマーリンに操られ、心を無くして父親の駒となっているのだということを思うと、胸を掻き毟るほど苦しさを覚える。
しかしアルドは今、一人の部屋でルシフェルのことを考えずにはいられなかった。
謀略に落ちた自分を救い、手を組み、共に復讐を成そうという同志。魔人となった今は、忠誠を誓うべき魔王でもある。
それ以上に彼女は、アルドにとって、これ以上なく魅力的な『女』でもあった。
(俺はルシフェルを殺そうとしたんだぞ? そんな相手に命を助けてもらって、女としても見るなんて……)
人間の倫理を失ったと思っていた自分が、まるで感情の制御の仕方を知らない少年のように葛藤している。
――馬鹿げている。葛藤することも、気遣う必要もない。
魔王はアルドの力を利用するために蘇生させた。ならば、アルドも魔王に遠慮をすることはない。
しかしルシフェルに、本当の意味で自分を認めさせたいという思いがある。そうすれば、敗残者と罵ったことが真意であるのか、そうでないのかを確かめられる気がした。
◆◇◆
どれほどの間眠っていたのか、判別はつかなかった。短かったようで、長い夢を見ていたようでもある。
迷宮の底では時間を知る術がない。しかし、そんなことは瑣末な問題だった。アルドは身体を起こし、ルシフェルに会いに行こうと考える。結界を一秒でも早く破らなくてはならない。そのために協力できるのなら、アルドはどんなことでもするつもりでいた。
「……いや。まだ、休んでいた方がいいね」
ベッドから降りようとしたとき、扉が開いて、ルシフェルが姿を見せた。
彼女は寝室で着るものなのか、それとも魔族としての装いなのか、夕食の席とは違う、肌の露出の多い扇情的な装いをしていた。
ただ歩くだけでもその大きな胸が上下に揺れる。しかし魔力で形状を保っているのか、理想的な曲線を描いたままでいる。
胸の頂を覆い隠す黒の交差した布から、ふとすれば違う色の部分が見えてしまいそうだ。側近が女の悪魔ばかりで、羞恥を覚える必要が無いのか――そんなことはない。この迷宮には、人間の姿こそしていないが、山羊頭の男の淫魔も、高位の男性悪魔もいる。
「ボクを女として見ているのに、触れてはいけないとも思っている。ボクは、もう君の身体の全てに触れたのにね」
「俺は蘇生するまでは、死人みたいなものだったんだろう。気味が悪くなかったか」
「ふふっ……やけに自分を卑下するんだね。やはり王国の聖剣技の使い手は、女人禁制だというのは本当だったのか」
「……本気で強くなりたいなら、我欲を断つべきだ。俺も、そう思っていただけのことだ」
人間であったころは、欲望を抑え込んで求道者となることで、他者を超越することができるということを考えもした。
それが、どれだけ滑稽であったのか。人間としての本質的な欲求を否定せずとも、本能のままに振る舞う方が、生物として強いに決まっている。魔族の力を手に入れた今は、それが当然のことだと思える。
その今でも、アルドはルシフェルに対して、侵してはならない距離を感じていた。
だがアルドが引いた境界線を、ルシフェルは自分から踏み越えていく。アルドは彼女の瞳の色がわずかに変わることに気づいたが、その時には遅く、つややかな唇から、決定的な言葉が放たれる。
「女の味も知らずに死ぬところだったなんてね。アルド=ヴェイン、最強にして人類の捨て駒であり、童貞のまま一生を終える。まるで喜劇のようじゃないか」
「――っ!」
怒りをわざと煽ろうとしていることを理解しながらも、今度は抑えきれず、アルドは立ち上がってルシフェルに詰め寄る。
しかし、どんな毒舌を口にしていても、彼女は美しい。そしてアルドは、女に手を上げたことが一度もなかった。
ここまで攻撃的に接してくる女性と相対したことがない。これから手を組む間柄だというのに、アルドはルシフェルがなぜこうまで毒を吐くのか、理解できずにいた。
魔族の象徴である巻角を傾け、ルシフェルは自らの胸に手を当てて、毒の上にさらに毒を重ねる。
「……女を抱く勇気もない男に、殺されなくてよかったよ。そんなことになったら、屈辱以外の何物でもない」
ただ魔王を倒すための強さを求め、鍛錬の日々を送っていたアルドには、女性と関わる機会がほとんどなかった。
シエナと結ばれるまで、処女と童貞のままでも構わない。そんな、絵に描いたような夢を見ていたからだ。
「夢見がちだね。最初に心に決めた相手でなければ、そんなに興奮していても手を出すことができないなんて。この臆病者」
「――臆病なものか。女など、どこに恐れる必要がある」
「っ……!」
アルドはルシフェルの腕を引くと、後ろにあるベッドへと押し倒し、組み敷いた。
アルドはかつて自分が誰かを愛したとき、どんなふうにその相手を抱くのだろうかと夢想したことを思い出す。
優しくしようと思っていたはずだった。しかし今、アルドは出会って間もなく、真意すらも汲み取れていない美しい魔族の女を相手に、欲望をぶつけようとしている。
その迷いすらも意味を無くすほど、アルドに迫られたままでいるルシフェルの表情は、アルドにとってかき抱きたいほど魅力的に見えた。
(なぜ抵抗しない? さんざんなことを言っておいて……)
「……こ、こんなくらい……何てこと、ないよ……」
「……とても、平気なようには見えないがな。結局、俺をどうしたいんだ」
ルシフェルから離れて身体を起こすには、途方もないほどの自制が必要だった。
抗われていたら力でねじ伏せていただろうかと自問して、アルドは毒気を抜かれる。自分を救った相手に恩義を返すどころか噛みついていては、弱った獲物を集団で襲う魔狼にすら劣る。
ベッドの上で覆いかぶさったまま、アルドはルシフェルと向き合う。宝石のような輝きを放つ瞳が、泣いているのではなく潤んでいる。
「……王国に残してきたシエナに、君はまだ心を残している」
「それが、許せないっていうことか? だから俺を挑発するのか……それじゃ……」
嫉妬しているようなものだ、と口にする前に、ルシフェルはきっとアルドを睨んだ。
その気の強い瞳すら、愛らしく思える。今は魔王ではなく、彼女はアルドにとって確かに、一人の女性として映っていた。