第五話 魔王の挑発
プリムとの談話を終えたあと、アルドは食事を取るために自室を出た。
深層に戻ってきたルシフェルは、アルドが食事を取っている最中にやってきて、テーブルを挟んで彼の向かい側に座った。
力を使う時以外は隠蔽しているのか、彼女の背中に翼はない。貴族の令嬢のようでいて、決して人間の世界にはない材質の衣服を着た彼女は、プリムに赤葡萄酒を注がせると、金属の杯をアルドに向かって掲げてみせた。アルドはそれに応え、ルシフェルは機嫌よく微笑み、杯に唇をつける。
「んっ……ふぅ。結界を破るために『破界陣』を織りあげていたけど、ようやく三分の一といったところだね。まだもう少し時間がかかりそうだ」
「俺にも何かできることはあるか?」
「ふふっ……勤勉だね。まだ目覚めたばかりなんだから、休むことを考えた方がいいよ。元気なのはいいけど、魔力はこれから幾らでも必要になる。まずマーリンの結界を破るための魔力が必要だし、君自身を強くするためにも必要不可欠だ」
ルシフェルは杯をテーブルに置く。酒に酔うということが彼女にもあるのか、その頬はほのかに赤らんでいる。
ぴったりと身体に貼り付くような、柔らかく薄い布地の服を着ている彼女を前にして、アルドは初めは目のやり場に困ったが、その心情をルシフェルに気取られている気がして、表向きは冷静を保つように努めた。
(なんて身体をしてるんだ……それを惜しみなく見せてるのは、俺を安全な相手だと思っているからか。俺が半魔になって、自制が効かなくなってることを知らないのか)
アルドの葛藤を知らず、ルシフェルは改めて彼を見る。意志の強い瞳をしているが、アルドを見る目にはどこか優しさがあり、慈しむような感情すら垣間見える。
「君は、三日間の間ずっと眠り続けていたんだよ。目覚めて良かった」
「三日……それにしては、身体が鈍ってないな。魔力は満ち足りないが……」
「結界を破る準備をする合間に、ボクが君を温めていたからね。毒で死滅した体が再生するには、それだけの苦痛を伴う。最初は、見ていられないくらいに苦しんでいたよ」
「見ていられない、か。魔王にしては、人間みたいなことを言うんだな。今の俺の方が、よっぽど魔族らしいんじゃないか」
ルシフェルはアルドの挑発するような言葉にも気分を害さず、ただ微笑む。
「ボクは君を生かすことにした。だから、君の苦しみにも責任を感じていたんだ」
「アルド様、ルシフェル様は自ら肌を触れ合わせ、貴方様の身体を温めたのですよ」
「……それは、礼を言えばいいのか?」
目の前にいる彼女が、あのベッドで裸になって自分に寄り添っていた。その光景を想像するだけで、アルドの身体は熱くなり、魔の力に目覚めたがゆえの獣性が刺激される。
戦っていた時から、既に感じていたことだった。彼女はただ敵として憎悪の対象に見るには、あまりにも美しく、女としての魅力にあふれていた。
その服を大きく張り詰めさせた乳房。大きく切れ込んだ胸元から覗く艶やかな谷間に、アルドの視線は吸い込まれそうになる。
「照れているのかい? ボクを女として意識しているということかな」
「俺を挑発してるのか? やめておいた方がいいぞ」
「ボクを力づくでどうにかするっていうのかい? 君にはできないはずだよ。女を抱いたこともないから、手が震えてしまうだろうね」
「……それは、女に興味がないっていうことと同じじゃないぞ」
「そうであってくれないと困るよ。ボクやプリムにとって、同格と見られる男に会えたんだからね。魔族の男性には、ボクたちが興味を持つような存在はいないんだ」
プリムの様子を見れば、それは初めから分かっていたことだった。魔族同士で魔力を混ぜ合わせ、より大きな力を生み出す。それを自分だけでなく、プリム自身も望んで、焦がれているようにアルドには思えた。
それで強くなれるということは、あまりに都合が良すぎるように思える。そう思うくらいには、アルドは人間であったころの価値観を残していた。
「……王国に裏切られた俺を、憐れんででもいるのか?」
「くすっ……そうだね。都合よく利用されて、捨てられて、暗い地の底で朽ちていくなんて。今のままでは、君はただの負け犬だ。死んで祖国を救った英雄なんかじゃない、ただの敗残者だよ」
「っ……!」
挑発だと分かっていながら、アルドはそれでも激昂しかける。
しかしルシフェルが自分の命を救った恩人であるという事実が、アルドの怒りを押しとどめる。
「……幾らでも言え。その敗残者を味方に引き入れたのは、おまえだ」
アルドは目の前の肉料理を口に運び始める。その姿を見てルシフェルは微笑み、グラスを手に取ると、葡萄酒を口にしてから言った。
「魔物の肉を食べることには抵抗がないようだね。魔人となった今は食事は必須ではないけれど、身体が万全になるまでは十分に摂取するといい。プリムに申し付ければ、幾らでも調理の工夫はしてくれるだろう」
アルドにとって、プリムの出した食事は、皮肉にも人間だった頃には味わえないほどの美味に感じられた。その滋養が体の中で代謝し、魔力に変わっていく実感がある。
「そして、君も聞いていると思うけど……魔族は人間にはない方法で、魔力を練ることができる」
――それは、ルシフェルも同じではないのか。アルドはそう問い返しそうになり、言葉を飲み込んだ。
プリムとは違い、ルシフェルには簡単に女としての彼女を求めてはならないと思わせる何かがあった。
アルドの視線を受けて、プリムは顔を赤らめつつも、主への奉仕を務める。空になった杯に半分ほど葡萄酒を注ぎ足すと、ルシフェルはその血のような色をした表面を見つめつつ言った。
「アルド……君には結界を破るために魔力を練り上げることを、主に頼みたい。ボクは自分で魔力を大量に作ることには長けていなくてね」
「……一人で魔力を生み出すより、別の方法を使ったほうが効率はいいのか?」
「それはそうだね。一人の相手よりも、多くの相手と『魔力練成』を行ったほうが効率は良くなる。効率なんていう、無粋なものは無しにするべきことだけれど……」
「ルシフェル様、それでは……わ、私が……」
プリムが控えめに進言する。ルシフェルはすぐには答えなかった。
黙ってアルドを見つめると、彼女は熱っぽくなった瞳を細める。その意図するところはアルドには分からなかったが、プリムは察していた。
(ルシフェル様は、アルド様に興味を持っておられるとおっしゃった。そうでなければ、裸になって彼を温めたりなどはしない……自分より強い相手に、特別な感情を持たれている)
「プリム、人の心を決めつけるものじゃないよ」
「っ……も、申し訳ありません」
「……アルド、悪魔大公はほかに三人いる。地上にひとり出てしまっているけど、残りの二人は迷宮にいる。プリムは君の傍付きにするけれど、他の二人とも連携して、魔王軍をより強くしてほしい。彼女たちのうちの一人には、君の持っていた剣を預けてある。明日になったら、七階にいる彼女を訪問して、返してもらうといい」
「俺の剣を……? 預かってどうしようというんだ?」
「忌まわしい神の洗礼を受けた剣よりも、君にふさわしい剣があるということさ。魔人将アルドどの」
魔人将――その耳慣れない呼称を、アルドは頭の中で何度か繰り返す。
半人半魔の自分にふさわしいその呼び名を、アルドはルシフェルから授かった地位の証明だと感じる。
(魔力を蓄え、新たな剣を手に入れ、軍を強化する。地上に出たとき、王国を一日でも早く奪取するために――そして、二度とマーリンに後れを取らないために)
目標は定まった。この場に姿を現さない悪魔大公二人が何をしているのかは気になったが、アルドには薄々と想像がついていた。
プリムのようにアルドに忠誠を示す者もいれば、新参をすぐに認めない者もいるということだ。それは猛者が集う場所では、どこでも同じことだった。剣の腕一つで生きてきた彼にとっては。