第三話 妖艶なる悪魔大公
再び目を覚ましたとき、アルドは見知らぬ部屋に寝かされていた。
頭痛も身体の痛みも消えている。感覚に異常はなく、目に少し違和感を感じるが、見ることに支障はない。仰向けになった彼の視線の先には、黒い滑らかな石で作られた部屋の天井があり、魔法の明かりで淡く照らされている。
身体を起こし、アルドは自分が寝ていた場所を確かめる。白い魔獣の骨で作られているが、木で作られたものと何ら変わりない、シーツの敷かれたベッドがそこにあった。
魔王軍といえど、寝具は人間のものとさほど変わりない。そしてベッドサイドには、赤い液体の注がれた、水晶の杯が置かれていた。
どうやら葡萄酒のようだと、アルドは液体の色を見て感じ取る。魔族ならば人間の生き血でも飲むのかと思っていたアルドだが、偏見を訂正しなければならないようだと考えていた。
そのとき、部屋の外に何者かがやってきて、金属の扉を軽く叩いたあとで中に入ってきた。地に響くような音を立てて開く扉の向こうに立っていたのは、赤い髪をした、羊のような角を持つ、侍女の身に着けるような服を着た女性だった。
「アルド様、お目覚めになりましたか」
「ああ。ルシフェルは?」
「魔王様は、結界を解くための準備をされています。もうしばらくすれば、この最下層に戻られるかと」
「……そうか。俺のことを看ていてくれたのは、あんたか?」
「はい。ルシフェル様の忠実なる下僕にして、悪魔大公のひとりを務めさせていただいております、プリムと申します」
柔らかそうな肩にかかる長さの髪に、左の瞳の下にある泣きぼくろ。その美貌はどこか触れがたいもののあるルシフェルとは、また質の異なるものだとアルドは思った。
(色気が前面に出ているというか……成熟した女悪魔はみんなこうなのか。悪魔大公というくらいだ、人間を誘惑して堕落させるような姿をしているというのは、納得がいくが……)
プリムはアルドの視線に気づいていたが、それを不快に思うそぶりは見せず、ただ彼の言葉を待つ。
魔王の力で癒され、ともに王国へ戦いを挑むのならば、悪魔大公であるプリムは同胞ということになる。アルドは警戒を解き、彼女に礼を示すことにした。
「俺の名は、アルド。アルド=ヴェインだ。あんたたち魔族にとっては、仇みたいなものだろうが……これからは、ともに戦わせてもらう」
アルドはこの魔窟に入ってから、数えきれないほどの魔物を屠ってきた。その事実が変わらない以上、プリムにとっては憎悪の対象であるはずだ。
そう考えたアルドだったが、プリムは苦笑して首を振った。
「アルド様が倒してきた魔物は、ルシフェル様が召喚した『魔界の住人』たちです。彼らはルシフェル様の力ある限り、媒介があれば、幾らでも蘇り、魂は魔界へと還ります。魔狼たちは、一時的にこの世界において受肉しただけの存在です」
「ゴブリンや、亜人型の魔物もか? 奴らは、人間の女性を利用して数を増やすぞ」
一介の兵士であったアルドが、王国最強の戦士を決める御前試合に出られたのは、彼がゴブリンに占領された村を単身で解放し、功績を挙げたからである。
そのとき村で見た光景は、今となっても凄惨であり、アルドの心に影を落とす――しかしこれからは、そのゴブリンたちもまた、王国に敵するうえでの戦力ということになる。
「受肉した存在が、繁殖できないというわけではありません。そのため、彼らのような者たちは、人間からの恨みを買うことが多いようですね」
「そうだな……だが、それは人間同士の戦争でも同じことか。敵国の兵士も、民にとってはゴブリンと何ら変わらないだろうな」
ヴィルトリア王国は隣接する二つの国と緊張状態にあり、国境で小競り合いが起きている。アルドを勇者として魔王討伐に向かわせたのは、魔王軍と戦うために全兵力を投入することができないという事情もあった。
魔王の迷宮に結界が張られたことで、魔王軍の王国への攻勢は停滞し、地上の魔物たちも排除されてしまう――その後敵国がどう動くかはわからないが、アルドはリガントを、そしてマーリンを、人間の国の手などで滅ぼさせてなるものかと思う。
「魔物にも生存戦略がそれぞれございます。ほかの種族を利用して数を増やすというのは、太古から有効な戦略でございますから」
「そうかもしれんが……それにしても、他人事みたいに言うんだな。ゴブリンやオークなんかを地上に出して人間を襲わせたのは、魔王軍なんじゃないのか?」
「尖兵のすることに細かく指示を出す王などはおりません。地上に出た魔物には、ただそれぞれの種族の得意な戦術を用いて、人間の領地を奪うようにとだけ命令されています」
美しい女性の姿をしているが、やはりプリムは魔族なのだとアルドは実感する。彼女にとって、魔物たちが人間を蹂躙しようと、それは残酷な行為ではない。本能に従う魔物たちを否定してはいないのだ。
(人間よりも、魔族は本能を優先するということか。それは、個々の肉体においても……)
アルドの考えを察したように、プリムは胸を持ち上げるように腕を組みながらくすっと微笑む。
「ふふっ……アルド様、順調に回復されているようですね」
「あまり抑制が効かないようだ。一人で部屋に入ってきたのは、いささか不用心だったな」
「っ……そ、それは……アルド様がお望みでしたら、お応えするようにと、ルシフェル様からは申し付けられておりますが……」
プリムは挑発するような態度を見せておきながら、アルドの瞳の奥にあるするどい獣性に気づくと、途端に乙女のようにうろたえる。
(……ルシフェルもそうだが、この迷宮の女悪魔は、あまり男とかかわってこなかったようだな。必要がなかったということか)
顔を赤らめてアルドの様子をうかがっているプリムを見て、アルドはいくらか毒気を抜かれ、目を閉じて言った。
「恩のある相手にいきなり手を出すほどじゃない。それは人間も魔族も変わらないだろう」
「……い、いえ。どちらかといえば……求めていただくほうが、今後のことを考えると……」
「あんたは悪魔大公なんだろう? だったら、俺より偉いんじゃないのか」
「そ、そんなっ、滅相もございません。悪魔大公は四人おりますが、全員がアルド様の下につかせていただくことになっております」
「……俺の立ち位置は、どういうことになってるんだ?」
ルシフェルを追い詰めたことで、魔王軍に降っても相応の地位を与えられるというのは想像がついたが、アルドはそれを一介の将というくらいで認識していた。だが、プリムの態度は全く違うことを示している。
「あなた様はルシフェル様と盟約を結ばれた、選ばれし者……あの方と並び立つ、魔王陛下第一の眷属です。ルシフェル様と同様に敬い、私たちルシフェル様の眷属は、あなた様の全ての命令に従い、お尽くしいたします」
「……魔王を倒そうとした人間を、すぐに敬えるというのか?」
「今は、ルシフェル様に仇なすというお考えはないと信じております。あの方と手をたずさえ、ともに王国に復讐すると誓ったのですから」
プリムは揺るぎない確信と、自分の主が信じた者への信頼を込めてアルドを見つめた。
彼らが、自分たちの配下となる――王国に復讐するための兵となる。アルドはかつて戦った魔族たちを従え、王国を奪う未来を想像する。
「……面白い。リガントが権勢を振るい、我が物顔で扱おうとしている国を、俺たちのものにしてやる。何もかも全てを、完璧な形で奪ってやろう」
「はい。ヴィルトリア王国は、魔の統べる国に生まれ変わる。我ら魔王軍の全員が、その時のためにあなた様の手足となりましょう」
プリムは床に膝を突き、アルドへの忠誠を示す。その信頼に応じ、将としての器を示すために、まず何をすべきか――かつての勇者は、今は魔王軍の将として、ヴィルトリアの王城を奪う未来を望んでいた。