プロローグ・3 魔王の忠告
魔王の胸の前に差し出された刃。アルドの突きは心臓を貫くために繰り出されたことを示すように、ルシフェルの防壁を剣先が貫き、魔王の衣を大きく張り詰めさせた豊かな胸部が破り裂けて、乳房の谷間が露わになっていた。
「……なぜ、剣を止める?」
ルシフェルは問いかける。アルド――黒い髪を持つ、少し目つきが悪いながらも精悍な顔をした青年は、彼女を真っ直ぐに見返しながら答えた。
「あんたが、自分から諦めたからだ。俺に負けてもいいと思って、自分から防壁を弱めた。そんな相手を殺して喜んでたら、それこそ魔王みたいなもんだろ」
ルシフェルにとって、あまりに意外な答えだった。突きの余波で切り裂かれた魔王の衣の前がはだけて、彫刻よりも美しい、透き通るような白い肌が露わになる。
アルドはそれを見ようともしていなかった。しかし、女として関心を持たれていることを、ルシフェルは肌で感じ取っていた。
魔王となってから、いや、生まれてからこれまで、彼女は自らが女性であるということを強く意識することはなかった。その感覚を初めて教えられたことを、ルシフェルは不快だとは思わなかった。
「降伏するのなら、命までは取らない。外に出て暴れてる魔物たちを、この迷宮に引き上げさせてくれ」
「……僕は君に敗れて、生かされている。しかし、外に出した魔物たちは戻せない。僕の意志を離れ、王国騎士団に討たれるまでは、本能のままに破壊と略奪を繰り返すだろう」
「っ……あんた、魔王なのに魔物に言うことも聞かせられないのか?」
「それを憎いと思うのならば、ボクを殺すといい。君は、そうする権利がある」
ルシフェルは素手でアルドの剣の刃を握る。少女の姿に似つかわしくない『ボク』という呼称を聞けば、アルドにもルシフェルが自らの女性性を肯定していないということは想像がついた。
しかしその姿は他のどんな女性よりも男の関心を惹かずにいられないものだということが、アルドにはひどく皮肉に感じられた。
ルシフェルが刃を握る手に力が籠められ、鮮血が伝い落ちる。アルドは苦い顔をして、剣の鋭さを増す魔法を解いた。
「……剣を離せ。下に降りて話がしたい」
アルドの申し出を受け入れ、ルシフェルは剣から手を離す。そして二人は、玉座の前に降り立った。
まだ他にもルシフェルの側近は生き残っているが、彼女自らが遠ざけたために、女悪魔たちがこちらを遠くから見ているだけだった。彼女たちの姿も美しく、高位の悪魔はみな美しい姿をしているものなのかと、アルドは思わず考えてしまう。
アルドは魔王を討った暁には、聖騎士シエナを妻として迎えることを約束されていた。麗しいシエナを妻とすれば、これ以上なく満たされることは間違いないというのに、それでなお、美しいからといって他の女に目を惹かれてしまうことに、まだ若い彼は少なからず罪悪感を覚えていた。
金と名誉、そして女。そのためだけに戦ったわけではないという自負はある。苦しむ人々の姿を見て、魔王討つべしと決意したからこそ、生きて帰ることができないと言われた魔窟に独り潜ったのだ。
ルシフェルは手の傷を癒すことができるのに、滴る血を舐めただけで、癒しの魔法を使うことなく、アルドを見つめた。
その口の端がかすかに吊り上がる。アルドが訝しむと、ルシフェルはアルドに近づき、その宝石のように美しい瞳でアルドを見つめた。魅了の魔眼などの類ではないが、男の心を奪い、欲望の底に沈めようとするような、あまりにも魅惑的に過ぎる目だった。
「君は余りにも甘すぎる。勇者に必要な条件は、魔王を倒すことだけじゃないと良くわかったよ」
「……何だと?」
「僕の影響力が、地上に出た魔物たちに及ばなくなる理由を教えてあげよう。この魔窟の五階層まで、ヴィルトリア王国軍が侵入してきていることは気づいていたかい? リガント大将軍じきじきの命令で、王国きっての賢者と呼ばれるマーリンという女が入ってきている」
「それは……俺への援軍? 俺は単身で潜ってきたが、王国軍が入ってきてもおかしくは……」
アルドがありきたりな推論を述べる。それを聞いていたルシフェルは微笑んでいたが、ふぅ、と息をつくと、その瞳は違う色に変わった。
それは、憐憫。魔王を追い詰めた勇者に対するものとは思えない、可哀想だという感情。
「なぜ……そんな目で俺を見る。状況が分かってるのか? 俺は魔王を、あんたを追い詰めて、王国を救おうとしてるんだぞ」
「君はもっと人間を疑うべきだった。君が英雄になることを、諸手を挙げて喜ぶ人間が全てかどうかを、ちゃんと見極めてからここに来なければならなかった」
「何を……言って……」
強い意志と、絶対的な自信だけを宿していたアルドの瞳が揺れる。
彼の考えもまた、ルシフェルの言っている意味に行き当たったのだ。
自分が魔王討伐の功績を挙げることを、喜ばない者がいるとしたら。
魔王軍と戦って多くの被害を出しながらも大きな戦果を挙げられず、元々はただの一兵士だったアルドが最高の栄誉を得るところを、傍観しなければならない王国騎士団。
彼らがもし、アルドの手柄を奪うことを考えたとしたら――。
「そんな……俺は、国王陛下から魔王討伐に送り出されて、魔王を倒した暁には、シエナと……」
「剣士として最高の栄誉を得て、人生の伴侶も手に入れる。けれど、魔王討伐の功績を手に入れて権力を手にしたいと思っている者は多い。彼らが、君を陥れるかもしれないとは思わなかったのかい?」
「お、俺は……そんな……俺はただ、皆のために……国を救うために、ここに来たんだ。そうだ、お前の言ってることはでたらめだ。俺が陥れられるなんて、そんなことはありえない!」
アルドは気が付くと、ルシフェルに詰め寄り、その肩をつかんでいた。
細く華奢な肩。それを指が食い込むほどに掴んでいたことに気づき、アルドは自分から手を離す。
ルシフェルは彼を非難せず、憐れむような目を続けながら、右手を動かす。そして、アルドの後方の空間に、違う場所の風景を映し出した。
「……見てごらん。君が通り抜けてきた、地下五階層。そこから六階に通じる入り口が、どうなっているのかを」
アルドはしばらくの間、振り返れずにいた。
後ろを向けば、ルシフェルの術中にはまり、隙だらけの姿をさらすことになる。
「君は僕を殺さなかった。だから僕は、君に生かされているのと同じだ。後ろから刺したりはしないよ」
ルシフェルの言う通りにすれば、それは彼女に屈するということだ。
アルドの葛藤を知りながら、ルシフェルは挑発するような言葉をあえて投げかける。
「……怖いのかい? そんな臆病者に負けたと思うと、自分が情けなくなるよ」
「……勘違いするな。背中を向けても、どうってことはない……いつでも、俺はお前を……っ」
自分でも負け惜しみのように聞こえると分かっていた。アルドは振り向き、そしてそこに映し出された光景を見て、目を見開いた。
五階から六階まで降りてくる時に使った、螺旋状の大回廊が、膨大な量の土塊によって埋め尽くされていた。まるで地層をそのまま切り崩したかのように。
「馬鹿な……そんなことがあるわけがない! これは何かの間違いだ……魔王、お前の計略だ!」
「では、六階層まで行ってその目で確かめてみるといい。僕は本来なら転移の魔法で地上にいつでも出られるが、今は五階層より上に上がることはできない……賢者マーリンに、結界を張られてしまったからね。すでに地上に出ている使い魔から、情報を得ることはできるけれど」
「賢者が張ったのは、魔王を封じるための結界だ。俺がいることを知らずに……俺がもう、魔王を倒して脱出したと思い込んで……っ、そうだ、そうに決まってる。今からでも、俺がいることに気づけば、結界は一時的に解除される……!」
アルドは自分に都合の良い考えに縋る。しかしルシフェルは同意せず、目を逸らし、どこか遠くを見ていた。
「くそっ……!」
ルシフェルはアルドが駆け出していくのを、何も言わずに見送る。
追いかける必要など、初めから無かった。この迷宮をルシフェルとアルドを閉じ込める『檻』として、賢者マーリンは五階層全体に封印の結界を張り終えているのだ。
転移の魔法で外に出ようとしても、結界の効果で戻されてしまう。これほど高度な魔法を、エルフとはいえ一人の人物が使いこなした事実は、ルシフェルを少なからず驚かせていた。
剣においてアルドが魔王を凌ぐ力を持っているとすれば、マーリンは魔法において対抗しうる。マーリンの侵入を許したのは、アルドが単身で斬り込んできたためだ。
アルドの迎撃に力を費やし、迷宮の五階層までに配置していた魔物は倒され、マーリンたちを阻むものが存在しなくなっていた。
つまりアルドは、自らがこの魔窟に封じ込められる状況を、自ら作り出してしまったのだ。
「君は絶望して死を選ぶのか。それとも……」
ルシフェルは歩き始める。彼女は転移すればすぐに移動できる六階層へと、アルドの後から歩いて向かってみたいと感じた。
自分でも歩いたことのなかった階層を抜け、生き残った眷属たちの姿を確かめながら。