第十九話 魔人将と副官
聖騎士シエナがアルドの調教によって、完全に魔に堕ちるまでには一ヶ月を要した。
魔人将アルドの眷属として彼に忠誠を誓った彼女は、その装備をアラクネによって作り替えられ、魔騎士としてのものに変えた。さらに魔煌気の力をアルドの指導によって引き出すことで、聖騎士であったときよりも強くなった。
金色の髪に黒いリボンを結び、宝石のような青い瞳は、支配眼の影響を離れ、アルドに自分の意志で従うようになったことで光を徐々に取り戻していった。
アルドは彼女を王国の領土を奪うための地上軍には加えず、自分の側近として近くに置くことにした。必然として、ルシフェル、そしてプリムよりも、シエナがアルドと共にいる時間は長くなった。
今も、アルドはシエナと共に迷宮三層の副司令部で、王国侵略を続ける魔王軍の指揮をしていた。
シエナが連れていた部下の騎士たちは、シエナの生死を確かめるために村に入ったところで、彼女の不在を確かめると、遺品として関係のない騎士の盾を持ち帰った。リガントに自分が死んだと伝えられると知っても、シエナはかつてアルドにも、騎士団は同じことをして亡き者にしようとしたのだから、自分も王国にとっては死んだ者として、魔王軍に加わりたいと言った。
――父がアルド様にした裏切りを知らず、あまつさえ賢者に操られてあなた様に剣を向けた私の愚かさを許し、傍に置いてくださって感謝します。あなたの眷属となることを誓い、少しでも償えるようにお尽くしします。
シエナは忠誠を誓う言葉と共に、アルドに宝剣ローゼングラムを捧げた。青かった刃は赤に変わり、神聖気に反応して力を発現させるのではなく、魔煌気に反応するようになった――アルドの剣と同じように、魔に堕ちたのだ。
そのルシフェルとは、アルドは言葉を交わす機会が少なくなっていた。彼女が部屋を訪れれば身体を重ねるが、シエナが付きっきりで従っていることもあり、その機会すらも失うことがある。
「アルド様……よろしいのですか? ルシフェル様と、このところ、あまりお話をされていないのでは……」
「数日に一度は顔を合わせている。ルシフェルは、今はあまり体の具合が良くないようだ。早く戦いを終わらせて、養生してもらいたいものだが……」
シエナは、ルシフェルとまだ数えるほどしか話したことはないが、彼女がアルドに並々ならぬ想いを抱いていることは、同じ女として感じ取っていた。
(アルド様も、お気づきになられているはず……けれど、魔王様に近づきすぎないようになさっている。本当は、お互いにこれ以上なく意識されているのに。かつて魔王と勇者であったからなのか、それとも……)
「シエナ……行き過ぎたことは考えるな。俺とルシフェルのことは、俺達の問題だ」
「あぅっ……は、はい……申し訳ありません……」
アルドは叱責したつもりでもないのに、シエナは身体を震わせて恐縮している。聖騎士として凛としている彼女だが、一度男性に心を許すと、その従順さは他に類を見ないほどだった。
魔王軍で三番目の強さを持つ、副将軍と呼べる地位にありながら、シエナはアルドに何をされても、されるがままになっている。
魔煌気を防壁としてまとうために、重い装甲を必要としない彼女は、身体のほとんどを覆わない、いわば水着のような装備をしていた。胸も三分の一ほどしか覆われておらず、脊柱と脇腹を固めるような金属具はついているものの、腹部は覆われておらず、紐の細いショーツを身に着けているだけのような、常にアルドの扇情を誘うような姿をしている。
同僚となったプリムたちが、アルドの気を惹くために様々な努力をしているため、シエナも彼女たちと交流するようになってから、その影響を受け始めていた。
(地上軍にティールが復帰してから、あまりに順調すぎて言うことがない。あとはマーリンだ……彼女さえ無力化すれば、リガントを守るものはもはやない)
復讐の成就の時は近づいている。自分を謀略に嵌め、蔑んだ男の姿を思い出すたび、地を這いずって苦汁を舐めた記憶が怒りを呼び覚ます。
「……シエナ」
アルドは気が付くと机の上で拳を握りしめていたが、その上から、シエナの両手が重ねられていた。
「王国への怒りは、お察しするに余りあります。しかし怒りを持ち続けることは、いくらアルド様といえど、お体に負担をかけます。どうか、本営であるこの迷宮にいる間は、少しでも心穏やかに……」
「……おまえを見ていると、別の意味で穏やかでなくなるがな」
「あっ……あ、アルド様……」
アルドは椅子を引き、シエナを引き寄せる。シエナはなすがままに、前に大きく突き出した胸をかばいながら、アルドの上に覆いかぶさった。
「……あっ……アルド様……」
きゅっと優しく手首を掴むと、アルドはシエナの手を外してしまう。身体が密着すると、シエナの顔が耳まできゅぅぅ、と赤く染まった。
「恥ずかしいか? だったら、明かりを暗くするか」
「い、今は、作戦中で……」
「地上侵攻が順調に進んでいる様子を見ながらというのも、存外に愉しそうだ」
アルドが冗談めかせて言うと、シエナは主をたしなめる気をなくして苦笑する。そして、愛おしくてならないというようにアルドの黒髪に指を通し、その首もとに口づけをした。
かつてアルドに御前試合で敗れた日から、こうなることを願っていたのかもしれないと思う。アルドから離れることを考えられなくなった今、シエナはアルドの復讐のための駒となることに、一切の迷いがなかった。
◆◇◆
シエナが戦死したという報を受けたあと、リガントは信じがたいという思いとともに、アルドが生きていてシエナと戦ったのだという最悪の考えを、胸の奥底に沈めて封じ込めた。
それは、決してあってはならないことだった。アルドが生きて、リガントの裏切りに気づき、魔王と与して王国を奪おうとしている――もしそうなってしまったとき、魔王や勇者に対抗する個人戦力を持たないリガントには、どうすることもできない。
リガントは魔王軍から領地を奪還するために攻撃部隊を編成していたが、シエナを失ったことで、現在の領地を防衛するためだけに兵力を使うことを余儀なくされた。しかし、かつて追い詰めたはずの四魔大公のひとり、ティールが魔王軍の戦列に戻ったことで、王国軍は統制の取れた魔王軍の亜人部隊に奇襲を受け、各地で敗走を繰り返した。
ヴィルトリア王国の西方、南方の国境では、隣国との小競り合いが起こり、緊張状態が続いている。もはや防戦一方となると分かっていても、リガントは今は耐えることが唯一の策だと国王を説き伏せた。そちらに兵力を割けば、魔王軍は一気に王都へと押し寄せる。
しかし王国軍が防衛に注力しても魔王軍の勢いは止まらず、ヴィルトリアの東部は、完全に魔王軍に奪われ、その支配下となった。
アルドは抵抗を放棄した町や村では虐殺を行わず、投降した者たちに対しては魔物たちによる略奪や陵辱などは禁止して、ただ人間たちを労働力とするだけに留め、王国の民が自ら魔王軍に降るように仕向けた。
――魔王軍に降れば、人の尊厳を奪われずに済む。物資の徴収、労働力の徴発にさえ応じれば、これまで通りの暮らしを続けていける。
その噂を、アルドは諜報部員として育成した中級以上の魔族たちによって、支配した村の隣の集落、さらにはまた隣へと広げていった。人間に寸分たがわぬ姿に魔法で偽装することのできる彼らは、重要なポストについている人間をさまざまな手で籠絡し、信頼を得て、戦うことなく魔王に帰順させていった。
その状況を、リガントが黙って見ていられるわけもない。彼は魔王軍が王国の中央に広がる平原まで勢力を伸ばしたところで、魔王軍をこれ以上進ませまいと、大軍を送り込んだ。
アルドは中央平原で魔王軍と対峙した。二万の敵軍に対し、魔王軍は三千――六分の一の兵力だったが、牛鬼一体で騎士を十人屠ることができるのだから、数の差は不利にはなりえなかった。
リガントは、中央平原の決戦が今後の命運を決めると確信しており、魔王軍の侵攻を騎兵たちでは止められないと予想すると、マーリンに献策を要請した。
王宮にあるリガントの私室を訪れたマーリンは、リガントの憔悴しきった顔を見ても表情一つ変えず、机の上に広げられた中央平原の両軍の布陣図を眺め、そしてこともなげに言った。
「騎兵と歩兵を使って敵を囲い込み、戦場の中心に敵の兵を固める。それができれば、敵を一網打尽にすることができる」
「兵の数は、確かに王国軍が勝っている。しかし、魔物の一体は、何人もの騎士の犠牲がなければ倒すことはできない。包囲などしても、長くは抑えこめないはずだ」
「ほんの少しだけでいい。そうすれば、私が超広範囲の破壊魔法を使って、ひとかたまりになった敵軍を叩くことができる。最大魔法を使えば、難しいことではない」
「我が騎士団を足止めに使い、魔法で諸共に魔王軍を叩くというのか……!?」
「兵士たちが戦いに特化した魔物と戦っても被害は大きくなる。敵が生き残って王都に攻め上がってくるよりは、方法を選ばずに一匹残らず掃討するべき」
「……かつて人間が、少数民であるエルフを虐げたことを恨みに思っているのか? 騎士団を捨て駒にするなど……」
「そんなことは関係ない。私の魔法が、魔王軍を凌いでいることを示したいだけ。それを確かめてもらうことが、今回力を貸す条件」
マーリンが自らの魔法に対する探究心のみで行動しているということは、リガントも知っているつもりでいた。
だが、二万の兵を犠牲にするという策ともいえない策に頼るしか、リガントにはすでに打つ手が残されていなかった。
賢者マーリンが、自軍の兵諸共に魔王軍に最大魔法を放って殲滅した――その事実を封殺しなければならないと、冷えてきた頭で考えながら、リガントは決断を下した。
「……戦いを終わらせるには犠牲が必要だ。私はおまえに何も指示していない。全ては、私のあずかり知らないところで起きることだ」
「それでいい。魔王軍を撃退したら、私はこの国を離れる。この国でするべき『実験』は、魔王軍の主戦力を滅ぼすことで終わる」
淡々と話し続けていたマーリンが、かすかに微笑みを浮かべる。リガントは内心で、やはり彼女は『魔女』なのだと思わずにはいられなかった。
そして、多くの犠牲を払う決断をした自分もまた、悪魔のようなものだ。リガントはそれでも、握った権力を手放すことなど考えられなかった。