第十八話 膝枕
ルシフェルは使い魔として召喚した鴉の魔物『ルシファークロウ』の目を通して、迷宮深層の魔王の間に滞在しながら、アルドがシエナを従わせるまでの一部始終を把握していた。
二人が戦っていた八階から、アルドは転移魔法を使って十階に移動する。すると、アルドの部屋に向かうまでの途中の廊下に、ルシフェルが待っていた。
彼女はアルドの斜め後ろに控え、従順についてくるシエナを見て、くすっと笑った。
「聖騎士を従属させたんだね。君の初めての眷属にするのかな?」
「そのつもりだ。俺自身の正式な眷属を作るのは初めてだが……」
「彼女が身も心も君に委ねたあと、彼女に君の血を飲ませることで、眷属の契約魔法を使う条件が整う。あとは、君がどうしたいかだ。彼女を魔に堕としたいのなら、迷わず眷属に変えるべきだね」
「神聖気を使う聖騎士のままで、魔王軍に加えるわけにもいかない。シエナなら、俺の眷属となれば魔の力を問題なく使えるだろう」
アルドがシエナを振り返ると、彼女はとろんとした瞳でアルドを見つめ、そして微笑む。
「すべてはご主人様の意のままに。何なりとお申し付けください」
「支配眼を使ってしまえば、もう調教も何もないね。君の言うことに、絶対服従するわけだから」
ルシフェルが近づいても、シエナは微笑んでいるままだ。鞘に納めた宝剣を携えていても、魔王に敵意を向けることはない。
「最初から服従させようとしたわけじゃないがな。俺も剣士として、今のシエナと剣を合わせてみたいという気持ちがあった」
「君にとっては、先ほどの戦いは戯れでしかなかったわけだ。彼女は君を殺す気で闘っていたのにね」
「遊んでたわけじゃない。もし俺が神聖気を捨てていたら、勝負はわからなかったかもな」
ルシフェルの横を通り過ぎて歩いていく。彼女が一瞬何か言いたげにしたことに気づき、アルドは立ち止まる。
「……どうした? ルシフェル」
「いや……何でもないよ。夕食の時間に君たちが来なかったら、プリムに事情は伝えておくよ」
「ああ、頼む。そこまで長引かせるつもりはないがな」
「そうかな……君は彼女に、悪魔大公たちとは違う特別な魅力を感じている。溺れてしまったりはしないだろうね?」
復讐の対象であるリガント、その娘であるシエナ。彼女に罪はなく、裏切りの心配もないとアルドは見ていた。
アルドの左眼に魅入られ、シエナはマーリンの催眠から解放された。しかし『支配眼』の作用は、シエナに魔物への敵意を刷り込む催眠とは違う効果を及ぼしている。
紅潮した頬、アルドを見つめる瞳。彼女は初めて剣を合わせたあと、アルドに文を送った時よりも、恋慕を明らかに深めていた。
「あくまで、従属を深めるだけだ。必要以上にシエナを特別視することはない」
「……そうだといいけど。魔人将としての務めを忘れないようにね」
忘れるわけがない。そう口にすることはせずに、アルドは苦笑し、自室にシエナを招き入れた。
重々しい音を立てて扉が閉ざされたあと、ルシフェルは壁に背を預けて、別れたばかりのアルドの顔を思い浮かべながらつぶやいた。
「闘っている間、あんなにうれしそうな顔をしておいて……かつて求婚した相手を抱くことが、特別じゃないわけがないじゃないか」
ただ拗ねているだけだと分かっている。これほど気にしているのは、嫉妬しているからだ。
ほかの悪魔大公たちと湯殿で過ごしている間も、ルシフェルはアルドに対して関心のないそぶりを見せながら、魔法を使ってアルドたちの様子を見て、そのたびに胸を焦がしていた。
そんな彼女の前に、三人の悪魔大公が現れる。プリム、アラクネ、エキドナ――彼女たちは、ルシフェルの感情を慮るように、何も言わずにいた。
「……魔王がこんな悩みを抱えているなんて、笑い種だと思うかい?」
「いいえ。わたくしも、アルド様とほかの方が睦まじくされている間は、お仕事が手につかなくなりますので……」
プリムが正直に答えると、ルシフェルは苦笑する。そして、心中で自分に言い聞かせた。
(魔王だというのに、部下に心配をさせてはいけないね……)
「きっとあの子は……シエナは、アルドにとって特別な眷属になる。これからは、今までと少し状況が変わってくるかもしれないね」
「どのような女性が現れても、アルド様が最も大切にされているのは、魔王様……貴女です」
「ボクたちは契約で結ばれているだけだよ。それ以上でも、それ以下でもない」
ルシフェルはアルドの部屋を離れ、歩き出す。
そうしなければ悪魔大公たちと共に、いつまでもアルドの部屋の物音に耳を澄ませてしまいそうだった。
◆◇◆
アルドの私室は、多くの淫魔を同時に相手にするために使う寝所とは別にある。
壁に剣が掛けられているが、その他の装備と衣服などは収納するための部屋が別個に用意されている。外に私室に置いてあるものは、ルシフェルから借りた書物に目を通すための机と燭台、そして休むためのベッドだけだった。
ベッドに腰掛けると、シエナはアルドの目の前までやってくる。そして、彼女は主人に懐く子犬のように、顔を赤らめてアルドを見つめている。
「……ここが、アルド様のお部屋……」
シエナは支配眼の影響下にあるのだが、感情を抑制されているわけではないので、年相応の少女のように控えめな好奇心を示し、部屋を見回す。
鎧の下に来ている黒い肌着しか身に着けていないので、体のラインがはっきりと主張されており、アルドは少なからず目を惹かれる。
(……やはり、剣を振るうには発育しすぎているな。こんな大きな胸をしていて、俺と戦ったのか。大したものだ)
くびれた腰に、すらりと伸びる美しい脚。しかしそれよりアルドが目を見張ったのは、アルドが初めて見るほど豊かな胸をしたルシフェルと同等か、それ以上に張り詰めた胸だった。
シエナはアルドの視線に気づいているのかいないのか、恥じらいつつも身体を隠そうとはせず、憧れるようにうっとりと見つめてくる。
「……私を、アルド様の眷属にされるとおっしゃっていましたが……それは、これからしていただけるのですか……?」
「ああ。シエナに、俺の血を飲んでもらうか……魔力を与えることで、シエナの神聖気を魔煌気に変える。魔族になるわけじゃないが、扱う力の種類を変えるんだ」
「そう……なのですね。アルド様がお望みなら……私は、どんなことでも受け入れます」
シエナはそう言って、アルドに近づいてくる。しかし今まで男性と接することの少なかったシエナは、それ以上どうしていいのかというように戸惑っていた。
「あっ……」
アルドはシエナを抱き寄せる。シエナは最初だけ身体を強張らせたが、次第に力を抜いて、アルドの胸に頬を寄せた。
「……俺はもう、王国には戻らないが。ずっと、シエナのことは気がかりだった」
「私も……どうしてでしょう、つい少し前まで、アルド様のことを忘れて……アルド様は、魔物になってしまったと思い込んでいたんです。そんなこと、あるわけがないのに」
「俺はもう、人間じゃない。半人半魔だ」
「はい……分かっています。それでも、アルド様はアルド様です。戦っているうちに、それを確かめられて……アルド様が、私の頭の霧を払ってくれたんです」
シエナが支配眼の影響を受けていなければ、聖騎士でなくなること、魔人将となったアルドの眷属となることには抵抗があるはずだった。
支配眼の力で、シエナには迷いが一切ない。だが、マーリンの催眠を念入りに解いておきたいとアルドは思った。マーリンはそれだけ油断がならない相手だと思えた。
「……これから、俺の魔力をシエナの身体に入れる。このベッドに寝そべってくれ」
「は、はい……分かりました。服は、そのままでよいのでしょうか」
「小手と脚甲は外したほうがいいな……そうだ、それでいい」
シエナは小手を外し、脚甲を脱いでベッドに乗る。四つん這いになった後姿を無防備に見せるシエナを見て、アルドは彼女がこれほど自分の魅力に無頓着だとは、と思わずにいられなかった。
寝そべったシエナの傍らで、アルドは右手を伸ばす。そして肌着の上から、彼女のお腹に手を添えた。
「……魔力を流し込む。最初は違和感があるだろうが、すぐに終わるからな」
「んっ……く……」
アルドの魔力が、シエナの体の中に流れ込んでいく――その過程が、二人にとっての契約を意味していた。
ルシフェルがアルドに口づけ、黒い翼を与えた時と同じように。
シエナが今までとは違う新たな力を手に入れ――本当の意味で、魔の力に染まる。
魔力を注ぐ儀式が終わると、シエナは全身にしっとりと汗をかいていた。
「……凄い……アルド様は、こんな力を使いこなしていたのですね……」
「シエナもすぐにできるようになるさ。宝剣も、魔剣に作り替えてもらうとしよう。これから、俺の副官として働いてもらうからな」
「はい。お役に立てるよう、努力いたします……」
シエナは身体を起こし、アルドに近づく。
彼女が何を求めているのか、その瞳を見ればアルドにはよくわかった。『奉仕することを求めている』のだ。
「……まずは膝枕でもしてもらうか。少しずつ教えてやろう、俺が喜ぶことを」
「っ……はい。アルド様がよろしければ……」
アルドはベッドの上に座るシエナの膝に、頭を預ける。仰向けになると、シエナの大きく前にせり出した胸で、視界が遮られてしまう。
「も、申し訳ありません……剣の修行ばかりしていたのに、こんなになってしまって」
「……いいと思うぞ。全く、俺は嫌いじゃない」
「……恐れ入ります。アルド様にそう言っていただけるなら、大きいのも悪いことではないと思えます」
いずれは、シエナをこの腕に抱くことになるだろう。今からそうしても、彼女は恐らくアルドを受け入れる。
しかし手に入れたものを愛でることも、アルドは嫌いではなかった。シエナの柔らかい膝の感触を味わいながら、アルドはこれも勝利の褒美の一環だと思い、至福の時間に浸るのだった。