第十七話 魔眼のもたらすもの
シエナとアルドの周囲の景色が変化し、次の瞬間には、四方を岩壁に囲まれた広大な部屋――迷宮の中に転移していた。
転移させられたことに動じることもなく、シエナはアルドに再び剣を向ける。
「早速始めるか。そんな目をして、聖騎士の力は十分に使えるのか?」
「私を侮辱するな。偽りの姿で人を惑わす魔物などに遅れはとらない」
「ならば俺の力が偽りかどうか、味わってみるか?」
シエナは答えず、隙のない構えのままでアルドと対峙する。そして戦いの火蓋を切ったのは、アルドからだった。
「――おぉぉっ!」
魔力に覆われた黒い魔剣を振りかざし、アルドは正面からシエナに打ち下ろす。シエナは神聖気に覆われた宝剣で受け止めるが、その一撃の重さに歯を食いしばった。
「くぅっ……!」
「よく受け止めたな……人間だった俺の剣よりも、よほど重いだろうに……!」
「……アルドではない……アルドではない魔物の剣など、私には通じないっ!」
シエナは気合いと共に、宝剣でアルドの剣を押し返し、すかさずアルドの胸を狙って突き込もうとする。だがアルドは後ろに飛び、魔剣でシエナの剣の軌道をずらしたあと、がら空きになったシエナの胸に剣をすべらせた。
「っ……!?」
アルドの剣はただ撫でるようにシエナの鎧の上をすべっただけのはずが、祝福された銀の鎧が立ち割られ、シエナは具足と小手を残して、鎧の下に来ていた布鎧のみの姿にされる。
装甲の胸の部分が広く作られていたことから、シエナの胸が相応に豊かであることはアルドも想像していた――だが、その想像を遥かに超え、ルシフェルにも匹敵するほどの大きな乳房が、布鎧だけでは抑えきれず、その形をありありと主張している。
「……女だからと手心を加えるつもりか。なぜ深く斬りつけなかった」
「殺すにはもったいないからな。お前の力は、魔王軍のために使ってもらいたい」
「――戯言をっ!」
シエナは鎧を破壊されたにも関わらず、アルドの魔剣を恐れずに間合いを詰め、宝剣による連撃を繰り出す。
アルドは余裕の微笑みを浮かべたままで、シエナの剣を確実に弾き、いなす。その拍子に、シエナは踏み込んだ勢いで前にのめる――それをあろうことか、アルドは正面から受け止めてみせた。
「――侮辱するなと言ったはずだっ!」
シエナは小手を付けた手で、神聖気に覆われた拳を繰り出す。だがそれを、アルドはこともなく素手で受け止めた。
「お前の力は、誰よりも俺がよく知っている。だが、俺も迷宮に居る間、遊んでいたわけじゃない。さあ、聖騎士の奥義を撃ってこい。それでなければ、俺にかすり傷もつけることはできないぞ」
「っ……遊んでいるつもりか。いいだろう、一撃で闇に還してやる……!」
シエナは掴まれた手を振り払い、アルドに蹴りを繰り出して牽制すると、後ろに飛んで宝剣の刃に手を添え、呪文を詠唱する――それは、宝剣の力を開放するための儀式だった。
「宝剣ローゼングラムよ、邪悪なる者の盾を貫け!」
ローゼングラムに秘められた力とは、魔族が常に展開している魔力防壁を一時的に完全に無効化するというものだった。
宝剣の放つ青い光が強まり、アルドのまとった防壁を消し去ろうとする。それと同時に斬りかかったとき、シエナにとってまたとない好機が訪れる。
万全の態勢でシエナの剣を打ち返していたアルドが、シエナの裂帛の打ち込みを受け流したあとに僅かに体を開き、隙を作ったのだ。
「やぁぁぁぁっ!」
シエナは勝利を確信し、アルドの胸をめがけて突きを繰り出す。
魔族となったアルドの防壁は、ローゼングラムの秘めた力で完全に無効化される。剣は容易にアルドの胸を貫き、心臓を穿つ――そのはずだった。
シエナの突きを前にしたアルドの口元に笑みが浮かぶ。その瞳を見て、シエナは気づく――彼はシエナと違い、殺意を込めて剣を振るっていたのではない。
最初から彼は楽しんでいた。シエナとの戦いを心から楽しみ、彼女が会心の一撃を繰り出してくる瞬間を待ち望んでいたのだ。
「……俺が神聖気を捨てたと、いつ言った?」
「っ……!」
アルドの身体を、シエナが放つ神聖気と同じ色の魔力防壁が包んでいる。
シエナの突きが防壁に阻まれ、突き通すことができずに止まる。アルドは凶悪な笑顔に変わると、その剣を腕ひとつで打ち払う――手首だけを覆う金属の防具が、止まっているシエナの宝剣を簡単に弾き飛ばし、彼女の体勢が大きく崩れる。
次の瞬間に、斬られる。魔物を滅ぼすまで死ぬまで戦うようにと暗示を受けていても、本能の恐怖が一瞬だけそれを上回った。
アルドはシエナの瞳に、確かに無念の色を見た。それまで何も映していないかのように見えたシエナの暗い瞳に、確かにアルドの姿が映っていた。
それを見たアルドは、反射的に反撃を試みる自らの肉体を御して、無防備となったシエナに正面から組み付いた。
「……神聖気ではない……偽物のアルドが使えるわけがない……っ!」
シエナはアルドの腕の中でもがくと、彼を突き飛ばし、再び拳を繰り出す。
しかしアルドには、シエナの体術は通じない。彼は剣を持っていない手で、シエナの拳を防ぎ、その手首をつかむ。
「くぅっ……放せっ、放せぇぇっっ!」
「俺は半人半魔というやつでな。人間の時にできたことが、魔族の力を得てできなくなったわけじゃない」
「戯言を言うな……魔物が神聖気を使うことなどできるものか!」
「宝剣に頼りすぎたな。力を削られようと、俺を剣技で凌ごうとしていれば、その方がまだ目はあった。だが、もう遅い」
アルドはシエナの抵抗をものともせず、彼女がもう一方の腕で繰り出した攻撃も受け止めて、身動きを封じ込める。
「……殺せ……私を殺すためにここに呼んだのだろう。早く殺せ……!」
「勝利者には、敗北者を自由にする権利がある。そうだろう?」
シエナは宝剣の力を解放したことで消耗している。今ならば、マーリンのかけた催眠を魔眼の力で上書きすることは容易だった。
アルドはシエナの手を掴んだままで、髪に隠れた左眼――魔眼で、シエナの姿を正面から捉える。
ビクン、と光のない瞳をしたシエナの身体が震える。それを見ながらアルドは魔眼が効果を成したことに満足を覚えつつ、シエナの頬に触れながら語りかけた。
「……シエナ。俺はアルド=ヴェインだ。今なら認められるだろう?」
「……はい……貴方様は、アルド=ヴェイン……」
「そうだ。そして、もう俺は勇者ではない……ルシフェルと共に王国を奪う、魔物たちを率いる者。魔人将だ」
アルドの左目に魔法陣の紋様が浮かびあがり、それを見つめるうちに、シエナの瞳は次第に目の前の男への従属を示し始める。
魔眼の力のひとつ『支配眼』。それを受けたシエナは、もはや抵抗の意志なく、アルドが手を離しても立ち尽くし、彼をじっと見つめ続けていた。
「シエナ=ファラニース。もっと強くなりたいか? ならば俺のように、魔の力を与えよう」
「アルド様……はい……私は、魔の力を……偉大な力を求めています……」
ただ一度見つめただけで、どこまでも深く堕ちる。
アルドはかつてシエナと剣を交えた武術大会の舞台で、対峙したときのことを思い出す――あの日からずっと、シエナを手に入れたいと思っていた。
しかし今は、リガントの許しを得てシエナを手に入れることなどに全く価値を感じない。王国からシエナを奪い、自らの眷属とすることに、アルドはこれ以上ない満足を覚えていた。
「ああ……アルド様……生きていてくださったのですね……」
アルドの前に膝をつき、その足元に縋りついて、シエナはこともあろうに彼の靴に口づけをした。
アルドは屈みこむと、愛すべき従僕の金色の髪と、その頬に触れた。シエナはアルドの手を両手で包み込むように握り、そして微笑む。
可憐な花にして王国を守る盾であった聖騎士は、こうして魔人将の手に落ちた。