プロローグ・2 黒き翼
「――おぉぉっ!」
魔窟の最深部、地下十層の玉座の間で、アルドは名剣シルヴァンティンを振るい、ルシフェルに斬りかかった。
高位の魔族は常に体の周りを魔力の防壁で覆っている。魔王ルシフェルは彼らとは比較にならないほどに強力な防壁を展開し、アルドの一撃を防いでいた――しかし。
「人間がそこまで強くなれるとは……神は何を考えている。自らに匹敵する力を、一介の人の子に与えて、それで僕を蔑んでいるつもりか……!」
「神だか何だか知らないが、俺はお前を倒す……魔王ルシフェルッ!」
ルシフェルは翼で姿勢を制御し、空中を自在に飛行している。人間には攻撃を当てることも難しいはずであるが、アルドはその常識を破り、魔法を使って空中を駆け、凄まじい威力の斬撃を繰り出し続けていた。
「くぅっ……!」
一撃ごとに後ろに押されながら、ルシフェルは魔力の供給源である翼に痛みを覚える。防壁がアルドの一撃で削られ、維持するために莫大な魔力を消耗しているのだ。
人間が魔力をそこまで練り上げ、ただの人の手で作り上げられた剣を、『神聖気』によって聖剣の領域に高めている。それだけではなく、アルドは空中飛行と同時に全身の筋力を魔力によって強化し、ルシフェルの反撃を封殺しながら連撃を繰り出していた。
「どうした! なぜ反撃しない! まだ力を残しているんだろう、魔王っ!」
「……好き勝手に言ってくれる……っ!」
まさにアルドは戦の申し子だった。ルシフェルはもとより戦いのみに特化した力を持つわけではなく、魔物を召喚して使役し、戦うとしても後方から天災に等しい威力の魔法を用いて、敵を薙ぎ払うのみだった。
それでも近接戦闘で人間に遅れを取るわけがないと思っていた。それが驕りであったことを示すように、黒い翼の一つが、防壁を維持するための魔力を消耗しすぎたことで消失する。
「――調子に乗るな、人間っ!」
「っ……!」
ルシフェルはさらに一つの翼を犠牲にして、防壁を強化し、何者の接近も許さない斥力の結界を作り出す。弾き飛ばされたアルドは空中で体勢を立て直すが、既にそのときには、ルシフェルはアルドを消し去るための魔法を詠唱し始めていた。
「魔王の名において命ずる。黒天翼よ、その力を滅びに変え、我が目に映るものを無に帰せ……!」
魔王の最大の魔法――それを目にして、アルドは初めて、肌が粟立つような感覚を覚える。
その魔法を受ければ死ぬという、理屈のない感覚。彼に判断の時間を与えず、ルシフェルがかざした手のひらの前に現れた黒い雷を纏う魔力の塊が、収縮し、展開し、膨大な大きさの魔法陣へと姿を変える。
「勇者だというなら、魔王を倒す者だというならば、退けてみるがいい……!」
「――上等だ。このまま倒しちゃ、張り合いがないと思ってたとこだ……来いよ。お前の全部を、俺の力でねじ伏せてやる」
挑発するアルドに向け、ルシフェルは滅びの魔法を放つ。かつて目の前に立ちふさがる敵を物理的に消し去るために使ってきた『天罰の雷』。それを一人の人間に放つことなど、ルシフェルには考えられないことだった。
一瞬で、自覚することすらなく、アルドは消滅する。ルシフェルは荒れ狂う黒と無色の力を、勇者に向けて解放しながら、その心に埋めることのできない虚無を感じていた。
こうして勇者は消え去り、ルシフェルは王国を滅ぼすために、魔窟から魔物を送り出し、地上を埋め尽くす。
それを、もしアルドが止められるのならば。
人間の力が、魔王を凌ぐと言うなら――それは、とても興味深いことだ。
しかしルシフェルは、一瞬でも興味を持った存在を、この手で滅ぼさなくてはならなかった。
「……耐えられるわけがない。人間の力で、生きていられるわけが……」
「――そいつはどうかな。俺にも、奥の手ってやつがあるんだぜ……!」
ルシフェルは聞こえてきた声に目を見開く。それは、確かに滅びの力に呑まれたはずのアルドのものだった。
荒れ狂う滅びの力。撒き散らされたそれは玉座の間を破壊し、天井、柱、床が削り取られる。
それほどの破壊を生む力を、正面から受け止めている――アルドの剣であるシルヴァンティンは人間の作った剣であるが、その束にはめ込まれた『エイジスの封珠』のみは、神がもたらしたとされる神器であった。
「おらぁぁぁぁぁっ!」
エイジスの封珠は、神が守護結界を作るために使う神器である。アルドの膨大な魔力を吸って作られた盾は、完全な防御力を持って魔王の最大魔法を防ぎきり、そして役目を終えて砕け散った。
(そうか……神はまだ人間に味方するのか。それとも、この人間だからこそ、一瞬でも神に近づけたのか)
短時間に三枚の翼を失ったルシフェルは、続けて魔法を放つことはできない。その絶対の隙をアルドは見逃さず、剣を構えたままで、彼女に肉薄する。
――ここで、終わる。
ルシフェルは迫り来る剣を、弱まった今の彼女の防壁では防ぎきれないと悟っていた。
あれほど憎んだ人間を代表する勇者に敗れるというのに、ルシフェルは抗うことなく死を受け入れていた。
神器の盾の存在があったとはいえ、一人で魔窟の深部を訪れ、戦いを挑んできた。体力も、魔力も、精神力も、何もかもを消耗した状態で、万全の状態だったルシフェルを追い詰めた。
それで負けて終わるのならば、受け入れられた。もしアルドが、王国の軍を捨て駒として力を温存して進んできたのならば、何としてでも道連れにしてやろうと思っただろう。
しかし覚悟を決めたというのに、勇者の剣はいつまでもルシフェルの身体を貫くことはなかった。