第十一話 妖姫愛でる黒馬
九階層の半分は魔獣の巣となっている。魔獣の中で最大の戦力は竜だが、そのうちの一体はアルドが侵入してきたときに斬られ、その魂は魔界へと還っていた。
「地上に一体竜が出ておりますが、迷宮に残る最後の一体は、再度地上に侵攻する際に何なりとお使いくださいませ」
青い髪を持つ悪魔大公・エキドナは、アルドの訪問に快く応じた。彼女はアラクネとは親友であり、彼女の態度次第でアルドに従うかどうかを決めることにしていたのだ。
「戦力をここまで残しておいて、王国軍をあれほど苦しめたのか。こんなことを聞くのもなんだが、ルシフェルには王国を本気で滅ぼす気があったのか?」
「……それは、またいつかルシフェル様から直接聞くこともありましょう。一つ言えることは、魔族と人間は相容れるものではないということです」
人間は魔物を見れば、自らの暮らす領域を脅かす存在として排除にかかる。
それをアルドも当然のことだと思っていたが、魔物の立場に立ってみれば、人間から一方的な虐殺を受けていることも同じだと思い当たった。
魔物が先か、人間が先か。どちらなのかは分からないが、生存競争に勝つためには、ふたつの勢力は相容れないものを排斥しなくてはならなかった。
「……魔物に、人語を解する知能があればな。いや、人間は魔物の見た目だけで、恐れて忌み嫌うに決まっているか」
「さようでございます。人間は魔物を嫌悪しますが、私のように人間の姿をした魔族を捕らえれば、人でないという理由で虐げ、人の姿をしていることをいいことに欲望のままに扱うでしょう。魔物も人間も、戦の中で求めることには変わりがないのです」
「それはそうだろうな。ゴブリンの雌に人間は興味を持たないが、だからこそ残虐なことができる。残らず殺されるという意味では、魔物が人間に負けた時の方が凄惨だろう」
リガントはゴブリンに占領された村を救うのではなく、焼き払った。それができたのは、魔物を捕虜にするつもりがなかったからだ。
占領された村人が受ける非道を思えば、ゴブリンが憎悪の対象となるのも無理はないが、彼らは本能に従って生きているだけだ。
「……勇者だったときには、ゴブリンを斬ることに感慨など覚えなかったが。そんな俺こそ、ゴブリンたちにとっては悪鬼のように見えていたのかもな」
「わたくしも、あなた様のお姿を遠くから見たとき、自らが死ぬときの姿を想像しました。王国にとっては勇者と呼ばれていたのでしょうが、私にとっては……『死神』でございました」
エキドナは白い頬をさらに少し青ざめさせて、腕を組んで言う。プリムも同じようにして胸を持ち上げることがあったが、エキドナの胸は彼女に劣らぬほど豊かで、ゆったりとした布に包まれた柔らかそうな乳房が、その形を明確に主張する。
「魔族に恐れられてこその勇者といえるが、今も怯えられているようなら……」
「い、いえ。今は……魔王様からの仰せに、わたくしも異存はございません。お呼びつけいただければ、夜ごとでもアルド様の寝所に参ります」
「そうか。それなら、是非頼みたいが……俺が身体を預けるに足りる男か、確かめなくてもいいのか? 悪魔大公なら、相手を選ぶ権利はあるだろう」
アルドに問われて、エキドナは口元を隠してふっと笑った。袖の広がった珍しい形の服を着ていて、その姿はアルドは見たことがないが、まるで夜会に出る貴族の女性のようだと思った。
「では……私が魂をこめて育てたあの馬を乗りこなせましたら、お仕えすべき相手として認めるというのは、いかがでしょうか」
エキドナは言って、遠くの草が生えたところを歩いていた一匹の馬を、笛を吹いて呼び寄せた。
その馬体は、アルドが乗っていた馬よりも二回りほども大きく、体はなめらかな黒毛で覆われていた。ふさふさとした尻尾は鞭のように激しく振られ、アルドを前にして興奮していることが見て取れる。
紫色の宝石のような瞳。アルドは少し距離を置いて相対しながら、その瞳に深い知性が宿っていることを理解した。
「この馬は……魔法が使えるのか?」
「見ただけでお気づきになられるとは……いかにもこの馬は、暗夜の妖馬と呼ばれ、魔界においては竜に次ぐ力を持つと見られております」
馬はブルル、と鼻を鳴らす。そして上半身を持ち上げると、高らかにいなないた。
蹄を地面に突くと、ズシンという振動がアルドの足元にまで伝わってくる。見上げるほどの体躯を持つ巨馬を前にして、アルドは拳を震わせていた。
恐れているのではない、アルドは喜んでいた。地上では決して巡り合うことのできない、強い馬と出会えたことに。
「エキドナ、少し離れてもらおう。馬と話させてほしい」
「馬と……アルド様、この馬と心を通じられるというのですか? 彼女はナイトメアの中でも、最も気性が荒く、姉妹のように育った私にしか……」
「牝馬か。牡馬も圧倒しそうな威圧感を持っているというのに……魔王軍は女傑が多いな」
「っ……アルド様、そのように不用意に近づいては……っ」
エキドナは信じがたい光景を見た――世話役とエキドナ以外は近づくことを許してこなかったナイトメアが、近づいてくるアルドをただ見つめて、微動だにせずにいる。
アルドは左の髪を払い、魔眼でナイトメアを見る――すると、アルドの頭の中に、直接黒馬のものとおぼしき、妙齢を迎えた女性のような声が響いてきた。
『その目は……魔王の力を与えられた者の中でも、選ばれし者だけが手に入れるという魔眼。人間の勇者が手に入れるとは、皮肉な話ぞ』
「俺よりも遥かに永い時間を生きてきたらしいな。若造で済まんが、おまえの背に乗せてくれるか」
ブルル、とナイトメアが息を吐く。その瞳が妖しく輝く――そして、次の瞬間だった。
ナイトメアが前足を繰り出してアルドを蹴ろうとする。しかしその時には、アルドはナイトメアの身体を駆け上がり、すでにその背に跨っていた。
『なんと……我の蹴りが当たらぬとは』
「跨らせてもらったが、まだ俺を試す気はあるか?」
『……ふん。これ以上醜態を晒しては、そこのエキドナに顔向けできなくなるわ』
「ということは、認めてもらえたわけだな。エキドナ、この馬を俺にくれるか」
『くれるとは、物のような扱いをしてくれる……まあ良い。そなたほど、我が背を任せるに足る者もおらぬ。外に出たら、暴れさせてくれるのだろうな?』
約束する、という答えの代わりに、アルドは黒馬の首を撫で、柔らかいたてがみを手で梳く。されるがままになっているナイトメアを見て、エキドナは安堵と呆れが混じったような吐息をついた。
「はぁ……破天荒なお方。ですが、こんな方だからこそ、魔王様に見初められたのでしょうね……」
「見初められたというのは、ちょっと違うが……武人として手を組んだだけだ」
「ふふっ……そうでしたわね。アルド様は純粋でおいでになる。ルシフェル様も、そこが良いと思っておいでなのでしょうね」
何かからわれている気がするが、アルドは気分は害さなかった。どのみち、寝所ではアルドが攻め手に回るのだから、今は好きに言わせておいてもいい。
それよりも、ナイトメアが駆けさせてくれとねだるので、アルドはまだ鞍もつけずに、器用にナイトメアの胴体を両足で挟むようにして身体を浮かせ、彼女を走らせた。