必要なもの
その音が、今日は僕に涙を流させた。
吐き気のするほど狂気的に白いこの空間に僕は放り込まれた。眩しい、眩しい。その白が僕を殺してくれるのなら、僕はそれに身を任すけれど、それは僕を苦しめるだけ苦しめて、苦しめる以上のことは何一つしてくれない。
美衣が小さく「やあ」と言った。そんな夢をみたような気がした。
「約束なんて脆いものだね」美衣の声だけを聞く。「なんて言葉、すごく陳腐だね、ね」
涙で前が見えなかった。
「どうして、『二人の時間』なんか……」
「神様なんかじゃ、ないんだろうね。『二人の時間』の管理人は。そうだよね、神様がそんな雑用じみたことやらないよね。きっと、天使の端くれみたいなのが担当なんだよね。だからの、だからだよ」
だから、必要以上に意地悪なんだね。彼女は笑った。
放って置いてくれればいいのにね。彼女は笑った。
きっと、退屈な仕事の暇つぶしなんだね。彼女は笑った。
慣れないお仕事お疲れさま。彼女の涙が音を立てた。
彼女がこれほどに大きな声で泣いているのを初めて見た。
もう、会わない。
その約束をした、あの時、彼女は一粒の涙も零さなかったはずなのに。
「今のさっきだよ」
「……さっきの今だよ」
過去というものが過ぎ去って消えてしまうものでないのだとしたら、僕たちはどうやって、そこに見える傷を見ないふりできるのだろう。そこに溜まった過去が、僕に、絶対的な不幸を指し示しているのだとしても、僕は、過去を消えたものとして扱えないのだとしたら、それは、とても残酷なことだ。
「オー・ヘンリーを読んでいる君が好きだった」
「え……?」
「ディケンズを読んでいる君が好きだった。マーク・トウェインを読んでいる君が好きだった。サン=テグジュペリを読んでいる君が好きだった。宮沢賢治を読んでいる君が好きだった。君は僕の嫌いな本ばかりを読んでいた。そんな君がたまらなく好きだった」
何か言葉を発するたびに、不思議と、涙は引いていった。
そしてその言葉は自分の心とはまるで関係のない、何か別の生き物のようにうごめいて宙を飛んだ。
「納豆も、フォイエルバッハの絵も、ロメロの映画も、紅茶のにおいも、君の好きなものは全部、僕の嫌いなものだった」
「……そう、そうだったね。逆も同じ、だったけどね」
「君は列車の線路を叩く音が嫌いだった。眩しい夏の朝が嫌いだった。コーヒーの香りが嫌いだった。全部、僕の好きなものだった」
「私たち、あんなに近くにいたのに、いろんなものがさかさまだった」
「でも、ほんのいくつかだけ重なった、好き、があった」
美衣が、小さく息を漏らした。
「ペンギンと『二人の時間』」
僕たちの声が重なった。
「涙の数だけ強くなれる、だなんて本当かな? だとしたら、私たち、やっと、やっと強くなれたよ」
「今まで、僕たち、弱かったんだ」
「うん、そう、知らなかったでしょ? 私も」
何も置かれていない真っ白なテーブルの淋しさ。何もないことが悲しいことだなんて、今まできっと見ないふりをしてきた。僕たちは無理やりに空いた場所を埋めてきた。ガラクタも宝物もより分けもせずに放っていた。空いた場所に寂しさを押し込んだって、要らないものが積まれていくだけだって言うのに、そんなこと、分かっているのに分からなかった。
「ねえ、知ってる?」
「何を?」
「ペンギンって北極にはいないんだよ」
「知ってるよ」
君の話していたことは、なんだって覚えている、どんな顔で、どんな手の動かし方で、どんな香りを漂わせながら、どんな色の言葉を君が真っ白な空間に飛ばしたか、僕は、きっと、覚えている限りのすべてにおいて、僕はなんだって覚えている。
「それってね、昔も昔。まあ昔って言ったって二、三百年くらい前の話だけど、そんな時間、数字的にはどうだって、私たち平成人にとっては結局もって十把一絡げに昔でしょ。だから、そんなくらいの大昔、まだ北極にペンギンがいた頃、私たち人間が、美味しい美味しい、って言ったかどうかは知らないけれど、とにかくたっくさんのペンギンたちを、食べたり捨てたり殺したり、そうやっている間にいつの間にかいなくなっちゃったんだよ」
「ああ、」
「ねえ、もしさ、私たちが北極にいた最期の二羽のペンギンだったとしてだよ。その時、自分たちとは違う何か大きな影の塊が、ぐわあ、と私たちに向かってギラギラと鈍く輝く鋭い鉄を振り上げて、えい、っと振り下ろしてくる、その時に、私たちは一体何を考えるんだろうね」
真っ白な氷の上に、真っ赤な血が染みをつくる。鉄臭さ。悲鳴が上がるのだろうか。それとも、やけに静かな最期なのだろうか。遠くまで透き通った空。吸い込まれるほどに青い海の上。そこにぷっかり浮かんだ氷で、二羽のペンギンは、鳴く。
「その時だよ、多分」美衣が言った。「二羽が、ようやく一羽になれるのって、多分、そういう時なんだと思う。分かるかな? 私の言うこと」
分かんないよ。
「そっか、」
そうだよ。
ようやく美衣が少しだけ笑った。
「言葉なんてさ、心の作り出した虚像でしかないわけでさ、つまりはつまり、『嘘』なんだよね。心と言葉にはさ、致命的な距離があってさ、心の伝えたいことを言葉は表現できないわけ。だって、そうでしょう? 心は間違いなく私のものだけど、言葉は私の作ったものじゃないんだから」
大切なものは、何一つ、言葉なんかじゃ伝えられないけれど、言葉で伝えられないものを他の何かで伝えられるほど僕たちは器用でない。
「ここはね現実の時間からすべてを引き剥がした場所なんだよ、けどね、けど、私たち二人以外に残ったものが一つだけあるの、それが、それがね、言葉だよ。何が残った? そう、言葉」
途端、阿呆な大学生が程ほど以上の度数の酒をぐいと一息に飲んだ時のように、世界が、僕が、目を回した。ぱんぱんに膨らんだ水風船にいくつもの針を突き刺して引き抜いてみる。そんな感じで涙があふれる。
「死のう」僕の心。「死のう」僕の言葉。
それは心の作り出した虚像に過ぎないとしても、僕は、今、彼女に伝えるすべてのことを、この信頼のおけない、心に当たる光の裏返しに頼ること。それしか出来ない。
「ユウ、死にたいの?」
「死にたい……」
「死んじゃおうか?」
「死んじゃおう……」
「思うんだ、私。もしも私たちが最期の二羽のペンギンなんだとしたら、私はね、多分、もう一羽のペンギンとの素晴らしい未来への希望を抱いて、冷たい水の中に沈んでいくんだろうって。もう一羽の可哀想なコと、一緒にね、どこまでもどこまでも沈んでいくの」
「死ぬことなんか、本来怖いことじゃないんだ」
「ええ、そうよ。死ぬことは救いなんだから。北極に自分だけ残されて、寂しく鳴いている常冬の夜と比べれば」
「いや、違うよ」僕は言った。「死ぬことは、絶対的に、救いなんだ」
美衣は、そんな僕に、くすり、と微笑んだ。
途端、真っ白な世界が、その、輝きを増した。
「銃」
今までで、一番楽しそうに、真っ白な世界を管理する誰かさんに向かって、美衣は言う。アイスコーヒーを置くのと同じように、それ、は無造作に、いつの間にか、突然に、現れる。
美衣はそれを持ち上げて、想像していたよりも随分と重たいことに驚いて、笑って、僕に向かって「心配な事を心配しないで」と言った。「人生なんて上がったら下がる階段と同じようなものなんだから」
「キュッキュキュのキュだ」
「なやみはない、んだよ」
「ねえ、言いたいことがあるんだ君に」
「なあに?」
「僕はね、君が僕の隣で笑っている時の姿よりも、君が別の誰かの横で苦しんでいる姿の方が、安心するんだ。僕は、そう、そういう人間なんだよ」
僕の言葉。
「私だって、ユウと同じだよ。別の誰かのせいで苦しんでいる貴方のことは嫌いだけど、だけど、私は貴方のことを、私のことで、何より、苦しめたい。つまりはつまり、そういうこと」
美衣の言葉。
「面倒くさいね、君と私って」
ああ、本当に。
「私たちはね、枷をはめられてから自由を求めるんじゃないの。自由を知っているからこそ不自由になるのを恐れるんでしょう? それと同じ、孤独だから交わろうと思うんじゃなくって、貴方と、ユウと、こうやって親しくなれば、なるだけ、その度に、私は孤独を知るの。そう、そうよ、そういうもの」
「だからか」
「そう、だから、バイバイだよ。アスタ・ラ・ビスタ。私と貴方、ここ以外の時間では、もう、さよなら」
「でもここは『二人の時間』だ」
「だから」
「そう、だから――」
銃口を頭に突きつける。自分の。頬が熱くなる。自分でも驚くくらいに顔が赤く染まる。世界の温度が急激に高まる。
「エッチをすれば、それで、満足なのかな? 一つになれたと錯覚して、それで、いいのかな? 性器通しが繋がって一つになった様に見えるだけで、それでもそれは、決して一個にはなれない、人間の悲しさの裏返しなんだよ、ね。きっと」
美衣の体温を感じる。
「ここでなら、普通の私でいられるのに、ね。男も女もなくて、だって二人だもん、二人っきりなんだもん。性別も、世間も、社会も、他人も、全部、ぜーんぶ、なくってさ。ここにいるのは私と貴方。ユウとミイだけなんだよ。あはは、面白いね。YOUアンドMEだよ。ねえ?」
美衣が僕を、優しく抱きとめる。
「ここでだったら、なんだって言えるよ。私は、貴方に。ユウ、ねえ、ユウ? 好きだよ。ほんと。大好きだよ。ほんと。愛してるよ。ホントに、心からの本当。私は、私は貴方のことを、何より大事に思っているんだよ。小学生の頃臨海学校で拾った綺麗な小石よりも、中学校の修学旅行で買った木刀よりも、高校の時初めて自分ひとりで作ったマフラーよりも、私の大好きなすべてのものより、ユウのことが大事なんだよ。でも、でもね、そんなこと、言えないよ。言えないよ。ねえ、言えないんだよ。ここ以外では。『二人の時間』じゃなきゃ、こんなこと、言えないよ。悲しいよ」
美衣の震えを僕が抱きしめる。
「眩しさの向こうに大切なものがあるのか、それとも手前にそれがあるのか。私たちには分かりようがないんだよ。だって眩しいんだもん。どっちも、どっちで、どっちにしたって、それは、とってもとっても眩しいんだもん。見えないよ」
美衣が――。
「二人ぼっちなんだよ。あくまでここでは二人ぼっち。『二人の時間』はさ、私たちを二人にするだけでさ、決して、一つにはしてくれないんだよ、ねえ」
ユウ、と、ミイ。
彼女は笑った。
「お互いの誕生日を知らなくってさ、それでも『はい、いつかの日の、君の誕生日、おめでとう、君、おめでとう、私』なあんて言ってさ、くるくるに包装したプレゼントを渡せる、そんな関係だったら、私たち、良かったのにね。その場でそれを開けなくてさ、じゃあね、って言った後に、ガラス窓の向こう側に、君が包装を解く、そんな姿を見るの、それってさ、きっと、ほんとに、きっと、素敵じゃない?」
僕は引き金をひいた。
からん、と乾いた音が響いた。
「あ、忘れてた」
美衣の声。
「ここでは言わないと、何にも伝わらないんだったね」
全くもって。
「意地悪な『時間』だね、ホント」
笑った。
「銃弾」
言うと、ころん、とそれが床に転がった。
僕たちは、嘘、の世界に生きていた。あまりにも嘘に慣れすぎた。嘘と本当、その二つしかないんだとあまりにも純粋に信じていた。ここ以外の『時間』には、嘘でも本当でもない、何か、があったというその事実を忘れていた。
本当みたいな嘘と嘘みたいな本当と、嘘の嘘と本当の本当。
「じゃあね、ユウ。アスタ・ラ・ビスタ。今まで楽しかったよ」
もはや僕にはその言葉の色は見えなかった。
「僕もだよ」
美衣は、いひひ、と歯を見せて笑った。




