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ふたりぼっち

 目を覚ますと、そこには、美衣がいた。


「やあ、」美衣はパジャマ姿で真っ白な机の上に頬杖をついていた。やけにおどけた調子で美衣は言う。「良い寝顔だったよ。ぐっすりって感じだった」


「……そうか」


 どうやら僕は眠ったまま『二人の時間』に入ってしまったようだ。真っ白な床から起き上ると、骨が小気味よく鳴った。口元に残った涎の後を拭う。随分長い時間、ここにいるようだった。


「起こしてくれても良かったのに」


「あまりに気持ちよさそうに寝てたから、の優しみ」美衣は手元の本をめくった。「それに、勉強中だったしね、私」


 彼女は普段しない眼鏡をかけていた。机の上には英単語帖。右手に赤ボールペンを握り、それを時折、くるり、と指だけで回した。


 ことん、と音を立てて、美衣は外した眼鏡を机の上に置いた。疲れの色を帯びた彼女の瞳はそれでも尚美しい。美衣は、まだ焦点のあっていないその瞳をぎゅっと細めて、にへら、と笑った。


「はい、ホットミルク。コーヒー飲むとあっちに戻った時、寝れなくなっちゃうもんね」


「熱い飲み物は嫌いさ」


「熱くなんかないよ」


「僕は猫舌なんだ」


「猫!」美衣は大げさに声を上げた。「私、猫、好き!」


 美衣の所持品は確かに、猫のイラストの描かれたものでいっぱいだった。彼女のパジャマにもワンポイントで猫のイラストがプリントされている。


「私、猫が好きなの。けどね、猫を犬と比べて云々言う愛猫家は大っ嫌い。だって猫は相対的にじゃなくって、絶対的に可愛いんだもん、でしょう?」


「僕は犬が絶対的に嫌いだ。何故ならペンギンを食べるから」


 僕の言葉に美衣は一瞬ぽかんとした後、ああ、と頷いた。


「タロジロね」くくく、と彼女の引き笑い。「それは仕方ないよ。私だって、腹ペコで他に何にもなかったら、そりゃあ、どんなものだって食べるわ。虫以外なら、ね」


「それが北極に一羽残されたペンギンでも?」


「たとえ、そうでも、だよ」


 美衣は僕に、ほら、飲んで、と言って、再び眼鏡をかけた。彼女の視線が英単語帖に落とされたのを見てから、僕はミルクを一息に飲み込んだ。それは生温かくて、やけに甘ったるかった。口に入りきらずに零れた雫は、この白い空間の床に吸い込まれるように落ちて、そして消えた。

 彼女の髪に枝毛を探す。彼女の耳もとにほくろを見つける。彼女の爪の長さを確認する。彼女の呼吸に耳を澄ます。


「私ね、この『二人の時間』でね、キミの寝顔を見てだよ、思ったんだ」しばらくしてから美衣は英単語帖を閉じた。「やっぱ、ユウはちゃんと寝てるんだねって。ずるいなあ、って。私なんか、模試でギリギリの点だったから、もう、寝ている暇なんかなくって。やっぱり昔からコツコツ勉強している人は違うなって、あ、皮肉じゃないよ、純粋に、そう、すごいな、って」


「寝ないと、次の日がつらいだろう」


「寝たって、寝なくたって、どっちにしたってつらいよ。今は何したってつらいんだから、そういう時だから。だから平気だよ。今日の頑張りが、未来の私の力になるんだ、なんて安っぽい歌謡曲みたいなフレーズを唱えながら、盲目的に勉強勉強!」


 いひひ、と歯を見せる彼女の頬には、えくぼが出来ていた。彼女の吐く息に白さが混じった。美衣の目の下の茶色がかった影。

 僕は、それらが、堪らなく悲しかった。

 おもちゃのカンヅメにはたくさんのお宝が入っている。それを一個一個大切に味わう。いくつめかのキャラメルが口の中で溶けた時、カンヅメの底に、見えたもの。

 そういう悲しみ。

 彼女の纏った悲しさの空気に吸い込まれるようにして、僕は気が付くと、彼女の目の下の隈に唇を押し付けていた。


「……え、何、どうしたの?」


 耳元を彼女の声がくすぐった。


「ああ、……うん、何でもない」


「……そっか」


「うん、そう」


 知らず知らずのうちに飲み込んだものが、腹の中で水気にさらされ膨らみ始めた、そんな感じで体がぐっと重くなる。

 アイスコーヒー、ミルク入り、ガムシロ抜き。

 僕は宙に向かってそれを唱え、出てきた物で、喉を潤す。


「ああ、飲んじゃった。寝れないね。もう」


「眠くなる必要なんてないさ。好きなんだ。アイスコーヒー」


「私は、嫌い」


 彼女の嫌いなものは、全部が全部、僕の好きなものなんだ。


「ペンギン」美衣のその声は水面に石を投げ込んだ時のそれに似ていた。「無事にさ、東京行けたらさ、あ、無事ってのは『私が』無事に大学合格したら、ってことね、そしたらさ、ペンギン見に行こうよ」


「動物園のペンギンは一羽じゃないよ、きっと」


「じゃあ二羽?」


「もっと」


「そっか」


「そうだよ」


「ならさ、一羽だけ、誘拐しようか。ぐっと捕まえてさ、ばっ、と帰るの」


「いいね」


「いいでしょ。じゃあ、決まり」


 ぐらぐらと揺れるヤジロベエをわざと倒すように力を入れる。そんな風な気持ちで僕は「決まりだ」と頷いた。

 ペンギンが一匹、寂しそうに鳴いた。


「ねえ、首、絞めてみて」


 そう、美衣に言われた瞬間、まるで眼球の裏を、ぺろり、とその真っ赤な舌で舐められたかのような、快感がとめどなく溢れた。

 僕は喉の奥から何の意味もない「え、」という一音節を引き出した。


「私の首を絞めてみてよ」


 眼鏡をはずした彼女は真っ直ぐに僕のことを見つめていた。


「ずっと、ずっと、気になってたんだよね。ここでさ、『二人の時間』で死んだならば、どうなっちゃうんだろう、って。怖いもの見たさ、的な感じ」


 死体だけがもとの場所に帰るのかな? とまるで笑い話でもするかのような調子で美衣は言った。


「ここには法律もないでしょ? 警察もいないでしょ? コラッ、って叱るうるさい大人もいない。元の時間に戻ってさ、私がばったり死んでいてもさ、ユウが殺したなんて分かんないわけでさ、それはそれって完全犯罪。ああ、面白い。ねえ、面白い?」


「冗談を――」


「冗談なんかじゃないよ。少なくとも、『二人の時間』の中では、私って、ほら、真面目だよ」


 真面目の反対は卑怯だ。そした僕は卑怯だ。

 コーヒーは苦いものだ。そして世界は苦いものだ。僕は、少なくとも苦みの混ざったアイスコーヒーよりは、そして、この世界よりは、彼女の方が好きだった。


 だから、


 彼女の首元に手を伸ばした。


「『二人の時間』は一週間より長い」


「そう? うふふ、そうかも」


 子供の頃、まだ生も死も知らない僕が、母親の切ってくれた爪のついた小さな手で、一生懸命作った粘土細工。それをいたずらに親指で潰す。ぎゅっと、差し込まれるそれはどこまでもどこまでも深く沈んでいって、精通前の小学生に自慰行為以上の快感を与えてくれた。

 美衣の肌に、指が触れた瞬間、僕は、あの頃の気持ちを思い出していた。

 間違いなく、僕は興奮していた

 がたん、と彼女が椅子ごと後ろにひっくり返った。いや、僕が、彼女を押し倒したのだ。白い背景に浮かぶ美衣の姿。美しさとはこういうものだ。今の僕は美衣の作った影法師でさえも愛せると思う。

 テーブルが倒れた。続けてグラスの割れる音。退屈なほどに白い床にミルク入りのコーヒー色をしたシミが出来る。跳ねた水滴が彼女の頬を濡らした。僕はすぐそこに口をつけた。

 肉欲ではない。もっと別の感情。例えばゾンビが、仲間を求めて人間にかじりつく時の、その時の感情と似た、暴力的な思いが、たとえそれが性欲の根源だとしても、今感じているこれは、おそらく、きっと、違うものだと確信して、僕は彼女の肌に、そっと、歯を添えた。


「痛ぃ」美衣の声が震えた。「痛いね」


 美衣はやめてとは言わなかった。僕は美衣の首筋に深く深い接吻をした。

 その時の彼女は見たことのない表情をしていた。十年近い彼女との関係の中で、こんな色の彼女を見ることは、決してなかった。

 悲しみでもない、怒りでもない。木に引っ掛かった風船を取ってあげた時の子供の顔と、自分の子供を階段から突き落とした時の親の顔。その半分ずつを都合よく混ぜた、そんな表情。


「いいよ、」彼女は笑った。「さあ、早く」


 眩しさにカタチがあるのだとしたら、きっとそれは、美衣のカタチをしているのだろう、と思った。眩しさにニオイがあるのだとしたら、きっとそれは、美衣の使うシャンプーとおんなじ匂いをしているのだろう、と思った。

 このまま真夏の中のアイスクリームのように溶けてしまいたいと心から思った。たとえ今ここで、美衣を、オカシタ、としても、僕たちは決して一つにはなれない。肌と肌を重ね合っても、おそらく、それ以上に重なりたいと望むだろう。僕と美衣が溶けて、そして混ざり合って、ぐちょぐちょに。そうした時に、初めて、僕たちは一つになれるはずだ。


 やけに、うるさい鼻息が、自分のものであるとは、しばらく気付かなかった。


 幸せ、って残酷だよね。


 いつだったか。彼女の漏らした言葉を思い出した。

 私、絶対的なもの以外、全部、全部嫌い。

 彼女は、そう言って、絶対的に可愛い、猫を抱いていた。


 さあ、首を絞めよう。


 美衣の喉がわずかに揺れる。細い首筋。真っ白な肌。彼女の唾液が、その喉を通って、胃へと流れ込む、その音を聴く。

 あたたかさを僕は包む。

 力を入れると、その部分が赤く染まる。まるで塗り絵を楽しむ幼稚園児の様に、僕はその赤色を気に入る。


 美衣の口から、小さく、息が漏れた。


 乱暴さに、優しさを込めて。君への想いに、暴力を混ぜて。愛撫をするかのように、力を入れて。世界への憎しみを、愛に変える。


 夢野久作の『瓶詰地獄』を読んだ。二人っきりの空間にしまい込まれた兄と妹。彼と、そして彼女が、その場所で一体どんな顔をしていたのか、それは瓶に詰められた数枚の手紙からしか想像することが出来ない。しかし、二人だけの空間で、彼らは、そこ以外の常識などから浮遊して、愛し合った、のだろう。

 そんな彼らも、思ったのだろうか。愛する人の顔を歪めたい、とそう、思ったのだろうか。

 僕は、今、美衣が笑う姿よりも、苦しむ姿の方を、遥かに、欲していた。




 僕たちは、間違いなくこの瞬間、二人だった。




 僕は彼女から指を離した。


 彼女の咳き込む音を遠く、遠くに聞いた。


 乾いた音だ。


 割れたグラスの破片を集めた。美衣の英単語帳がコーヒーの色に染まっていた。『二人の時間』はまだ続いていた。空気が薄く感じられた。腕時計は止まっていた。心臓の音は高かった。手先は不自然に冷たかった。僕は汗をかいていた。美衣の髪は乱れていた。僕はそれにすら興奮していた。幸せが相対的なことなんか知っていた。ペンギンの鳴き声を実際に聞いたことなんてなかった。僕は美衣が好きだった。僕は美衣を愛していた。声が一つも響かなかった。胸の中は熱かった。このままずっと『二人の時間』ならば良いと思った。こんなもの早く終われとも思った。残酷なものを遠く欲していた。それを手に入れる勇気なんてないことも知っていた。世界なんて滅んでしまえと思っていた。滅びないことなんか、子供のころから知っていた。死にたいと呟いた。殺したいと、誰かが言った。美衣に、殺されたい。美衣を、殺したい。出来ることなら僕の手で。


「……ばか」


 美衣の声。「ばぁか」


 始まりが突然ならば、終わりも至極あっさりとしていた。

 へたくそなガラス職人の作品を、菜箸で軽く叩いたような、つまらない、音。

 僕のしていた腕時計が、僕の意志とは全くの無関係に、動き始めた。


「……ユウと一緒に東京へ行けるように、頑張るね」


 彼女が何時言った言葉なのか、耳に残ったそれを、僕は知らない。

 そして、僕は彼女の言葉に、何と返したのだろう。どんな顔で返事をしたのだろう。

 僕は、僕のことさえ、もう、見えない。


※※※


 アメ横の見下ろす喫茶店に二人でいた。パンダの置物がどのテーブルにも置いてあった。そのパンダの尻尾が真っ白に塗られているのを見て、僕たちはパンダの間抜けさ、について言い合って笑って、そんな時に『二人の時間』がやって来た。


 結局、コーヒーと紅茶を飲んで、お喋りするだけ。なんて、そんなことを言ってまた笑った。


「パンダ」


 美衣が冗談を言うように、冗談を言って。その冗談で僕は冗談めいて笑う。

 何をしても、『僕』は、少なくとも僕は幸せだった。

 美衣がいれば、たとえ世界が白と黒の二つに塗り分けられたとしても、それはそれとして笑って済ませることが出来るだろう。そんな具合でもうひと笑い。


 ペンギンが、ぎゅう、とどこかで鳴くまでは。

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