銀狼の咆哮
「グオォォォォーーーーーン!!」
突如現れた白銀の獣……。
奴は嘶きを上げると、その四つの足の内の左足を持ち上げると、前方に下ろした。ずしん……。という振動が伝わってきて、俺の腕の中にいたティリアが恐る恐る瞳を開くと、小さく悲鳴を上げた。
「なに……あれ……」
「わかんねぇ。急に出てきたな。おい、記憶屋。無事か!?」
俺は丸まっていた記憶屋に声をかけると、彼女はのっそりと起き上がると大丈夫だと言うように、手を振る。しかし、次の瞬間。あの獣が目に入ったのだろう。「なんぞあれ!?」と声を上げた。
「とりあえず……ここは危険だ。じきに騎士団が来る。それまでなるべく遠くに……」
自分で驚く程、冷静な判断だったと思う。しかし、次に聞こえた悲鳴に俺の思考は停止した。
「う、うわあああぁぁぁぁぁ!!」
獣が、食っていた――人を。
それだけでも衝撃的な映像だ。俺はその光景をティリアに見せまいと彼女の目を手で覆った。
「に……、兄様?」
「大丈夫だ。大丈夫……」
大丈夫なもんか、次は自分かもしれないんだぞ。
俺は悔しげに歯ぎしりしながら、獣を見上げる。すると獣は不自然なことにその大きさだというのに、人を丸呑みせず、一部を齧ると、その人間には興味を失ったように……次の人間に向かっていくのだ。
ずしん……ずしん……。
とうとう獣が動き出した。俺は背後に居る記憶屋の方にティリアを押した。
「記憶屋、ティリアを連れて逃げてくれ!」
「それはいいけどさ……常連兄妹の兄の方はどうすんの?」
心配そうに尋ねる記憶屋に俺は「大丈夫だ」と呟き肩に手を置いた。
「なーに。俺は騎士団みたいに戦える訳じゃない。でもな、怪我した人を見捨てるほど落ちぶれちゃいない!」
「兄様!? 無茶です! そんなこと!」
「無茶かどうかは……やってみなきゃわかんないだろ? だから俺は……俺達はあの村を出て、今ここに居る」
「ですが兄様……私は……」
「心配してくれて嬉しいよ……ティリア」
ティリアのフードはもうとっくに取れていた俺はその美しい銀髪の頭に手を乗せ、わしゃわしゃとかき混ぜる。
「頼めるか? 記憶屋」
「はぁ……やれやれ。常連の頼みとなっちゃ断れないね。行こう、ティーちゃん」
「そんな! 記憶屋さん! 兄様を止めてください!!」
ティリアが今まで聞いたことのない大きな声を出す。その瞳には涙が浮かんでいた。俺は大切な妹にそんな顔をさせているのだと分かり、心が痛む。しかし、今ここで逃げ出すのは嫌だった。
すると、記憶屋がティリアの肩に両手を乗せ目線を合わせる。
「ティーちゃん。男の子には譲れない時っていうのがあるの。分かってあげて。――常連兄」
そして次に、俺に目線を寄越した。
「……生きて、帰ってくるんだよ? こんな可愛い妹ちゃんを、一人にしちゃいけない」
「当然っ!!」
頷いて、言ってやる。当然だ。俺は妹を、決して一人にはしない!
そして俺は怪我人がいる方へ走って行った。
「兄様……兄様ぁぁーーー!」
獣の足音が響く中……俺は一人目の怪我人を見つけた。こうしている間にも一人……また一人と噛まれていった。やはり、丸呑みされる人間はおらず、一度噛むと次の人間へ向かう。あれはなんだ? どう考えても不自然だ。
しかし、今は考えても分からない。俺は怪我人の男をを抱き起こすと、声を掛ける。
「おい! 大丈夫か!?」
「う……あぁ……」
良かった。まだ死んでない。俺は胸に耳を当て、心拍を聞く。弱い。もしかしたら危険かもしれない。
怪我は、脇腹に噛み傷が一つ。かなり出血していた。
まずは……止血か? だけど……脇腹の止血なんてどうやって……。
そう考えていると、ずしん……! と一際大きな足音が聞こえた。
「え?」
振り向くと……そこには白銀の獣が居た。
その濁った瞳は……俺を見据えている。
これは……やべぇ!!
俺は即座に怪我人の手を肩に回すとなるべく目立たない所まで連れて行った。その間に攻撃されなかったのは僥倖と言える。しかし、まだ獣は俺を見ている。真っ直ぐに。
「……!」
動いた。
前左足が動く。その大きさには見合わない俊敏さだ。その大きな鉤爪にやられたらひとたまりもないだろう。俺は側面へ紙一重で躱す。転がるようにして避けたので、背中で受身を取るも、いかんせん戦闘経験なんてないもので上手くいかない。
だが、うかうかしている暇なんてない。受身から態勢を立て直すと、次のヤツの動きに集中した。どうやら、立て続けには攻撃してこないらしい。空白の時間があった。その時間を俺は逃げに使うことにした。住宅がひしめく方とは逆の方向へ逃げることにする。
「はぁ……はぁ……」
しかし、さすが四本足の獣。足の速さでは適わない。追いつかれ……また爪が振り下ろされる。今度は、回避がちょっと間に合わなかった。背中に爪の先端の感触と鈍い痛みを感じながら、必死に逃げる。
「くそ……何か一つでも武器でももっとけりゃ良かった……」
しかし村でもここでも戦う必要なんてなかったから、そんな物持ってない。この平和な世界じゃ武器なんて必要ないのだ。
「騎士団だー! 騎士団が来たぞー!!」
そろそろ逃げるのにも限界を感じてきた頃……そんな声が聞こえてくる。
よかった。騎士団が間に合ったのだ。
騎士団の屯所は中央にあるが、勿論。あるのはそこだけじゃない。
この巨大都市のメルトゥスにはありとあらゆる場所に騎士団の屯所がある。
今回はここから一番近い屯所から騎士団がやってきたのだろう。銀の鎧を纏った集団が現れた。
「騎士団だ! そこの少年、無事か!?」
「え、ええ……なんとか」
こうなったら俺はもう用済みだ本職の人達に任せよう。
その場を離れようとした……その瞬間。
「うああああああぁぁぁぁぁ!」
騎士団の一人が、食われていた。
「嘘だろ……?」
騎士団が剣を抜き、果敢に獣に挑むが……ダメだ。ほとんど威力がない。
傷一つも与えられていないのだ!
「クソ……! なんだ、こいつは!」
「剣が通らないぞ!」
そして……一人、また一人と噛まれていく……。
無慈悲で、残酷なその光景に……俺は成す術もなく……立ち尽くして居た。
そしてものの数分後……
――騎士団が全滅した。
「グルル……」
そして再び、俺と獣の視線が混じりあった。