とある高校生の恋愛事情3
栞を挟んだ本を長机の端っこにおいて立ち上がった冶田くんは、まっすぐ私の方に向かって歩いてきた。高校生男子にしては小柄な彼と、女子高生にしては背の高い私が並べば目線はそう変わらないはずなのに、その迷いない足取りと存外近くに揺れるサラサラとした白髪に目を奪われて、間抜けにもするりと差し出された物を受け取ることもせずにただ彼の挙動を目で追っていた。
「これなんか、案外お勧めですよ。読みやすい割に内容もしっかりあって」
その言葉に導かれるままに、ついと差し出されたハードカバーに目を落として、条件反射で受け取って、いつもそうするように背表紙に書かれたあらすじに目を通す。
あ、あら?
「恋愛、小説?」
まさか、である。
純文学をお勧めされる予感がひしひしとしていただけに、それは私を驚かせるに十分な威力を持っていた。短い文章でまとめられたあらすじを読む限り、それはありふれた現代恋愛ものであるらしい。
「……なにか、ご不満でもお有りですか」
ぽかんと間抜けに口を開いて表紙と背表紙をくるりくるりと眺め回す私に、苛立たしげな険を含んだ声がかかる。
「え?いや、こういうの読むんだなぁってちょっと…意外?」
「森鴎外やら夏目漱石を薦められるとでも思いましたか」
ぎくり。まさに、想像していた内容を指摘されて、曖昧にへらりと笑って誤魔化そうと試みた。こういうときに笑っちゃうのって日本人の悲しい性だね!てへぺろ!
「読みますよ、恋愛小説。似合わないことは百も承知ですが」
そんな不機嫌そうにしなくても、別に趣向を否定するつもりなんてないのに。
表情筋は碌に使わないくせに、目は口ほどに物を言う、を実践しているような人だ。尖らせた目線がぶすぶすと突き刺さって痛いんですが。私が発する言葉を警戒するみたいに、身を強張らせた彼になるだけ柔らかく聞こえる言葉を選んで返す。
「そっか。いいよね、本って。何処にもいけなくても何に成れなくても色んな物を見て、感じられるでしょ。」
本を読んでいる間は、自分は何にでもなれるし、どこへでも行けるって思える。自分が無力な子供で、学生で、大して賢くなくて、不自由であることも忘れて。
「なんて言うと、さすがに引かれちゃうか」
茶化すみたいにおどけた声で苦笑い。痛い人だなって思われちゃうかな。それでも、構わないけれど。
「…いえ」
ちらりと本から目線を上げると、冶田くんは何かを考えこむみたいに顔をうつむかせていた。
手持ち無沙汰になって、その本の初めの数ページを開いてみた。静かな空間に紙をめくる小さな音だけが転がる。それが心地よくて、独特の空気に呑まれたまま、私は考えなしに口を開いた。
「またおすすめの本、教えてくれるかな」
「……ええ、僕の担当の日に来てくれるのなら。」
あーそう、だね。う、うーん。なんて返事にもならない濁し方をした私は、その一瞬で自分の不用意かつ軽はずみな発言を呪った。
なんだ、その、それっぽい台詞は。
「その本が読み終わる頃までに、選んでおきます」
彼にしては珍しい、柔らかい声音に、表情の薄い顔の中で瞳だけが楽しげに揺れていた。
甘さもへったくれもなく、背中にじっとりと嫌な汗をかいているこの現状。
な、流されていますよね……っていやいや!ダメでしょ。気をしっかり持つんだ。本来の目的を思いだせ!
脳内で小さな私がしゃー!!って叫んで張り手を食らわしてくれるのを、甘んじて受け止める。
「じゃあまずは、この本を読み始める前に私の悩みの種を引っこ抜いてくれると助かるかなぁ」
「……善処します」
絶対だよ、と真顔で更に念を押してしぶしぶと言った風に発せられたはい、という彼の言質を得た。とりあえず、目的は果たした。はずである。
そのまま例の本の貸出手続きをしてもらって、空腹を訴える胃袋さんを満たすべく図書室を出たんだ。
購買はもう無理だろうなぁ。学食行くにしても時間がなぁ。なんて遠い目をして現実逃避してみたところでやらかしてしまった感は拭えない。
何仲良くなってんの?ほのぼのおすすめの本とか、約束まで取り付けちゃんてんの!
昼食を終えた生徒がチラホラと行き交う廊下の途中でしゃがみ込んで蹲ってわああああああ!!!ってしたい衝動を必死で抑えこんだ。いや逆に?それぐらい変人であったほうが、こんな複雑な感情を抱かなくてもすむのかもしれない。危険な方向へ流れていく思考の端で、きゅる、とすかすかの胃が不満気に鳴いた。
「……そうだ、ご飯を食べよう」
もう、学食でぼっち食いでもいい。購買の、人気のない売れ残りシリーズなやつでもいい。なんでもいいからお腹を満たせば、この床を転げまわって奇声を発したくなるような、やり場のない感情をどうにかできると思ったんだ。
冶田くんにおすすめされた恋愛小説は、不器用な男の子が綺麗な女の人に恋をするところから始まる。恋愛小説で、男の子が主人公っていうところが珍しくも面白い。
主人公の男の子は、もう、読んでるこっちがもどかしくなるぐらいに不器用で、肝心なところでいつも1歩が踏み出せないでいる。
その女の人、っていうのが先生なんだけど(こんな内容を学校図書で…?というツッコミはいれたほうがいいのか)男の子の手を引いて笑うんだ。
「君はそうやって怖気づいて見ないふりしているけど、いつだって世界は君が飛び込んでくるのを待ってるんだよ」
「君がいないと、色のつかない世界なんだ。ちゃんと目を開いて見なきゃダメなんだから」
そう言って、柔らかく笑う彼女が、眩しい世界へ連れ出してくれようとする強い彼女が、どうしようもなく眩しくって焦がれて止まない。そんなお話だった。




