制約の中の自由人
跳べ!とかいける!とか考えながら跳ぶと、大抵体に力が入りすぎてしまって本来なら越せるはずの高さすら越せない事が多々ある。
だから、何も考えない。この瞬間は。駆け出すまでの短い時間。風を切って数秒間。眼前に迫るバーが自分よりはるかに高く、無理だ、怖い、そんなふうに感じても、ただ無心に地を蹴る。ふわり、空が見えて体がどこにも属さず自由になれる。背中をしなやかに曲げて反動つけるように両足を上げてラインを飛び越える。
どすん。痛くない、軽い衝撃と独特の香りの分厚いマットに落ちる。
棒の高さは170㎝。
ほら、翔べた。
夏に近づく生温く乾いた風が頬を柔らかく撫ぜていった。
「おぉ。そんな高けぇのも跳べるのか!すごいな柳瀬は」
「いやいや、初めて跳べたんですよ。褒めてください部長」
「はっはっはっ大したもんだなぁ!ハイジャンの方はインハイも今年はいけるんじゃないか?なぁ、川上」
「長瀬、あんたさっさと自分のところ戻ったら?さっきから幅跳びのところから視線が飛んでくるんだよ。邪魔」
男子陸上部部長の長瀬先輩は、部の父である。豪快で、なんか大きくて頼りがいがありそうな雰囲気で男臭いんだけど、どこか当たりが柔らかくて。こうして種目が違う私のところまで目を配ってくれる気遣いの人だ。それをあからさまにしない当たり、すごくいい先輩だと思う。
女子陸上部の部長は、川上先輩。言葉は辛辣なんだけど、この人も本当に周りをよく見てる。専門は長距離だから高飛びのところにわざわざ来てくれる必要なんてないんだけど、初日にやらかしてしまった私を気にしてか、こうして時々様子を見に来てくれたり、話しかけてくれたりする。多分、気にしなくてもいいですよ、とか言ったら怒られそうだからあえて言わないけれど。
この二人、どこかほわんとした長瀬先輩と、言葉はきついけれどしっかり者の川上先輩。
部公認のカップル、ってことになっているけれど
「自分のとこの後輩見ておきなよ。柳瀬は真面目だから、あんたに気にされなくてもやることはしっかりやるよ。あと、インハイは当然行ける」
「ははっ、すごい選手が近くに居たら気になるもんだろ?ま、そうだなぁ。うちの問題児は粟生の方か。アイツまた外走りに行って戻ってこないしな!」
「……笑い事じゃないでしょ、しっかりしなよ長瀬」
「あれはあれで、自分のガス抜きをしっかりしてるんだろうよ。俺がどうこう言うまでもないな!」
「……はぁ。あんたと話してると気抜けるから、練習戻る。じゃあ柳瀬、ほどほどに」
呆れたふうに肩をすくめた川上先輩はひらりと格好良く手をあげて背中を向けた。
「よーし、俺も戻るかな!無理はするなよ柳瀬」
クールに去っていった川上先輩の後を追うようにずしずしと歩き去っていく長瀬先輩。
「……いい先輩過ぎでしょ」
2人して頑張りすぎるな、って。わざわざそれを言いに来てくれたんだろう。胸の内が暖かくなってこそばゆい。ニヤける口元を隠すために、俯いて無駄にスパイクをいじってみた。
何本か跳んでみた後、シューズを履き替えて短距離の練習に混ざる。これが、きっつい。
ダッシュで100とか。まだいい。200、300は体力配分が上手く行かなくて、バテる。というか、そこまでの距離なら高飛びには関係ない気がするけれどごにょごにょ。
高飛び選手はひたすら跳んでいればいいかっていうと、そうじゃない。基礎体力とか、筋力トレーニングとか。持久力に、最後に乗っかってくるのが技術力。そうやって足し算して、掛け算して、重ねていったものが高さにつながる。ちょっと面白いよなぁ。ただ跳びたいだけじゃあ、だめなのだ。
「コーチ!粟生が戻ってきませーん」
「あぁ?もー…あいつは本当に……。お、柳瀬今から外周か?」
「あ、はい」
短距離の男子生徒が告げた言葉にコーチが溜息ついて、なぜかこちらに話しを振ってきた。いやなよかん。流れ落ちる汗を拭いつつ、返事をすると非常にいい笑顔を頂いた。
「ついでに、途中で粟生見つけたら拾ってきてくれ。お前の言うことならあいつも聞くだろ」
「えー…構いませんけど、見つかるか分かりませんよ?」
「見つかれば儲けもの!ぐらいに思っておくよ。頼むな」
うーと唸りながらドリンクを呷って、一息。断れないんだよなぁ。問題児2号としては。
「…わかりましたー。捕獲、頑張ってきます」
練習も終盤だ。適当に流しながら探すか。
景色が視界の端を流れていく。息は上がるけれど、もう殆どのメニューを消化した後だから体は十分温まっていてゆっくりと走る分には風が心地いいぐらいだ。春過ぎの日差しはまだ夏ほどギラついてないから、助かる。
そんで。どこ行きやがったのでしょうか。粟生くんは。
校舎の正門から出て、体育館、運動部棟。吹奏楽部の練習音が窓から漏れて聞こえてくる。陸上部とは反対に位置するグラウンドでは威勢のいい掛け声とともに野球部員達が走り回っている。ネットを隔てた反対側にソフト部。みんな頑張ってんなぁ。
たったっ、と地面を蹴って校舎の中から響く音に耳を傾ける。ここらは……南棟か。たしか、写真部とか新聞部とかー…あと調理部?とかもあるんだっけ。何やら甘い匂いが漂っていて、きゃあきゃあと楽しげな女子の声が聞こえてくる。街路樹を挟んで通学路として利用する生徒も多い道を走っていたら、いろいろな音やら匂いやら、空気やらが届いてくる。楽しくなってきて、すこし速度をあげて裏門の角を曲がった。
ここはー西棟か。別名、教員の住処。各教科担当の準備室、という名の私室が集まった棟だ。ちなみにここの1階に保健室があってー……。
まさか、保健室で休んでるとか。
ふと頭をよぎった疑念に駆ける足が重くなる。
そんな、まさかな?部活の最中に優雅に保健室でくつろいでいるなんて、そんなわけないよね?
……念のため、近く見ていくか。私は西棟の脇、保健室と外を繋ぐ外庭に足を向けた。
保健室には2箇所入口がある。外部活の生徒をかつぎ込みやすいようにガラス戸の入り口が外庭方面に一つ。もう一つは本館から通路を渡って正規の(?)出入口が1つだ。外庭、といっても囲われているわけではなくて、自然色豊かなこの学校の外周とおなじく、花壇と背の低い木々が何本かグリーンカーテンよろしく道路からの視線を隔てるように立ち並んでいるだけだ。
まさかなーそんな大胆なさぼりとかないよなー。でもあいつならやりそう。
浅く乱れた呼吸を正しながら、保健室脇の芝生と花壇、木々を眺めながら歩む。綺麗な学校だとは思っていたけど、本当に手入れが行き届いている。どこを見ても整っていて、枯れた花とか落ち葉なんかが散らばっていることもないのだ。冷静に考えるとすごいことだ。ここの用務員さんは、エージェントか何かだろうか。隙がない。
まだ春過ぎだから、落ち葉こそそんなに多くはないだろうけど、あの木だって。
あの木?
なんか、でかい実が付いているような……。
「……いやいやいや、人乗ってるじゃん」
木になる実ってなんだっけ、みかん?とか考えてまじまじと見たそれは明らかにそんな可愛らしい大きさのそれじゃなくて、身を丸めて葉と葉の間に埋まるように凭れた人影だった。
それが静かに鎮座してくれていれば、放ってさっさと通りすぎてしまおうと思えたのだ。そう、不安定にグラグラと揺れてさえ居なければなっ……!
わたしはその木の真下に駆け寄って、逡巡した。
どうしよう、声をかける?でも寝てるよね!?急に起こしたら更に不安定になる?いや、でもこのまま見守ってたらどのみち落ちるよね…!
ああ、もう!なんでこんな面倒な場面に出くわすんだよ!
「そこの人、木の上で寝てる人、落ちるから、落ちそうだから、っていうか絶対そのまま落ちたらヤバイことになるから起きて起きて!」
人影は動かない。けれど周りの枝達はのしかかるそれが邪魔なのだと言わんばかりに軋みを上げている。
どうする?受け止めるか!?いやいやいや普通に私の腕が大変なことになる。人を呼ぶ!?いや、呼びに行く前に落ちるな、あれは。
「もうっ!起きろって!言ってるでしょうがああああああああああああ!!!!おきろ!おきろ!早く落ちるからって!言ってんでしょうが!」
「んぅ…」
枝が揺れる。小さな声が人影から漏れた気がしたけれど、それはバキッという盛大な音にかき消された。
どさり。鈍い音。
「ひぃ」
思わず、引いた。
どしゃ、と人の体が硬い地面に落ちる音とともに打ち捨てられたような、あの、意識がない人が吐物を詰まらせないように取らせる姿勢みたいな、奇妙でかっこ悪いポーズのまま落ちてきた人は横たわった。いや、転がった。
せ、先生。保健の先生だ。いや、その前に生存確認?
「う……った。また、落ちた…」
あ、生きてる。あ、紫の人だ。同時に思った。
いたたた、と呟きながらしゃがみ込んで背中に手を当てているその人。なんか、見たことあるなと思いつつ高さを合わせて膝に手をついて声をかけてみた。
「あの、大丈夫ですか?頭とか打ってません?」
見たところ、ゴロゴロ転がった部分の、腕とか背中とか多少汚れている程度なんだけれど。そわそわと視線を移す。致命傷とか、なさそうなんだけど。と、しゃがみこんだその人がつい、と顔を上げて目があった。
「あ、見られてたの」
「え、はい。落ちそうだったので、声をかけたんですけど遅かったですね」
見事な落ちっぷりを思い返して思わず苦笑すると、ぶんぶんと首を横に振ってゆったりと笑いかけられた。
「よくあるし、慣れてるから大丈夫」
「は、はぁ……」
落ち慣れてるの?よくわからないけど、嫌な慣れである。
「保健の先生、呼んできましょうか。それとも、歩けますか?」
「んーん。まじで、慣れてるの。だからどこも怪我してないよ」
ほら、といって立ち上がって両腕を広げて見せてくれる。確かに、怪我はなさそうだし頭の方は打ってないのか汚れている様子もない。
「ありがとー。呼んでくれてた気はするんだけどさ、俺寝起き悪くてね。だめなんだ。心配させちゃったね」
いい子いい子、といって柔らかく頭を撫ぜられて、思ったより背の高い人なんだなと気がついた。うしゃうしゃと押される頭を上げて見えたネクタイの色は緑。2年生だ。ていうか。その手は今まで地面に転がっていた手だろう。そう言おうとして、そのひとの独特のまったりとした空気にぐっと言葉に詰まった。
「……危ないので、木の上は止めたほうがいいですよ。寝るにしても」
「そうだねー。次からはそうする」
「次があるんですね……」
「んー?見つかるとせんせーに色々手伝わされたりするからさ。場所探し、大変なの」
「ん。あ、あー。そうですね。手伝わされてましたね」
入学式の日。嫌そうな顔で教科書を配る人。あぁ、納得。スッキリした。なるほど、この人も「さぼり」なのか。と考えて、自分の目的を思い出した。
「あ、じゃあ私はそろそろ。人を探さないといけないので、失礼しますね」
「うん。ありがとうねー。ばいばい」
ちらちらと男子生徒にはあるまじき可愛らしい動作で手を振るその仕草に、目を向けて、もう一つ大切なことを忘れていたことに気がついた。
「私、1年の柳瀬 夕っていいます。先輩、あんまりさぼるのは良くないですよ」
いたずらっぽく、口角を釣り上げて手を振り返した。きょとん、と目を丸くしたその人はこくり、と幼い子がするみたいに大きく首を動かして頷いた。
「俺ね、椎葉 樹。またね、ゆうちゃん」
なぜか、これっきりという感じがしなくてはい、と返してわたしは保健室に向かうべく走りだした。