対等でありたいから
それを再び目にすることになったのは、私が陸上部に入部届けを提出した翌日の事だった。
グラウンドの400mトラックを軽く流しながら走る男子生徒。入学式の日に見かけたコバルトブルー。
正直、辟易していた。登校する度に不可思議な現象に惑わされることに。でもそれを「こういうものだ」って受け入れてしまっている自分もいる。慣れと諦め。あと、いちいち驚くのも疲れるんだよね。人は適応していく生き物だし。あとは、
「キャーっ!!粟生くーん!こっち向いてーっ」
「ちょっと、そこどいてよ!見えないじゃない」
「「頑張ってー!粟生くーん!!」」
グラウンドと校舎を隔てるフェンスにしがみついて黄色い声をあげる女子生徒たち。そんなものを実際に目にすると、それはもうシュールで笑えた。
漫画かよ!ってね。その内コールとか始まるの?ちょっとわくわく。
私はここ数日で、この非日常な光景を普通に楽しめるようになっていたのだ。
とは言っても自分に関係のない分には、であって。決して、そう決して自分が対象外であることが前提で。外野から眺めるのが面白いなーっていう意味でね?
「キャー!!柳瀬さん格好いい!素敵抱いて!」
「ちょっと何言ってんのよあんた。そんな下品な言葉を柳瀬さんに向けるなんて何を考えているの!?」
「「キャー!!頑張ってー!!」」
「うおぉぉぉぉぉ!!柳瀬さん美しい!!!踏んでくれぇぇぇぇ!」
……なんでだよ!流れ弾ばんばんこっち来てますけど!?しかも野太い声のドM混ざってるよね。こっちのほうが危険度高くない?
あ、やばい。
ぼふり、と背中からマットに落ちた後カラーンと棒が足元に降ってくる。落ちたじゃんか…。
仰向けで両手を大きく広げたまま目を閉じた。ため息一つ。
「うるさー…。」「うるせー。」
頭付近から発せられた低い声とセリフがばっちり被った。その声の出処を確認もせずに、人の群がるフェンスを親指でくい、と指す。
「あんたの責任でしょ。あれ全部引き取って」
「はぁ?明らかにお前の名前も出てたし。しかも俺ん時あんな野太い声混じってねーよ」
私は寝転んだまま、こちらを見下ろすジャージ姿の男を睨めつけた。
勢いつけて体を起こして、地面の上にしっかりと立つ。それでもまだ見下されるほど、相手は身長が高い。私だって167あるのに、こいつがでかすぎるのだ。
「粟生、あんた身長何センチあるの?見下されてる感が半端無いんだけど」
「182位。別にそんな高くねぇだろ」
「……世の中の小人系男子にひれ伏して謝れ」
「いや、お前の言い方のほうが相当ヒデェと思うけど」
「じゃあ謝らなくていいから、あそこの女子の群れにその仏頂面やめて笑顔振りまいてきて」
「ぜってー嫌。気持ちわりぃ」
うえぇ、と端正な顔を崩して横目でフェンスの向こうを見やるこの男。切れ長い一重の瞳に通った鼻筋、薄い唇、小さな頭。和風イケメンである。しかもスポーツ特待生。コバルトブルー(仮)で本来の色はわからないけれど、サラサラの短髪を風に遊ばせてムッスリと仏頂面で立っているだけで絵になっている。
「そのスペック腹立つわ」
「は?鏡見てから出直してこいよ」
「その見た目!育ちのいいボンボン風なのに!無駄に世の女性の期待を裏切ってんじゃねー!」
「お前にだけは言われたくない、絶対に」
クールだ、そこが素敵だとかなんとか言われているようだけれど、単なるムッツリだと思う。そしてこいつとは口論になるから、嫌なのだ。
「おーい、粟生と柳瀬ー。ドリンク配るからこっち来てー」
じりじりと睨み合っていたところにマネージャーから声がかかる。はーい、と答えて不毛なやりとりを打ち切った。
「粟生 成です。中学でも短距離やってました。宜しくお願いします」
入部届を出した翌日。部員の先輩たちの前で挨拶を、と言われてミーティングルームに集まった顔ぶれの中にひときわ目立つ青いのが居た。スポーツ特待生なんて殆ど初日に入部してしまっていたし、週の後半に差し掛かる中途半端な時期に入部届を出したのは、なんという偶然(?)かこいつと私の2人だけだった。
育ちの良さそうな品のある佇まいと、整った顔立ちに「こいつもできすぎくんタイプかな」と勝手に検討つけて、粟生に引き続き立ち上がって口を開いた。
「柳瀬 夕です。棒高跳びは始めて1年ぐらいです。まだまだ未熟な「あ、」え?」
「あんた、栄大付属の「はぁ!?ばっ、何人の話の途中で割り込んできてんの!?」
「いや、見たことある顔だなと思って」
「…っ、ふざけんなっ!」
完全に頭に血が上っていた。いきなり思い出したくない話題ワースト1を今現在の不安要素ナンバー1に当たるであろう青々しい目障りな奴の口から聞きたくなかったから。振り上げた手をそのまま鋭く粟生の顔に叩きつけた。シーンと静まり返る室内。
「……何いきなり殴ってんの?」
「……。」
聞きたくないこと、言おうとしたから。そんな幼稚な言葉が頭に浮かんだけれど、それがどんな理由になるだろう。はたから見れば、ただ話に割り込まれて、それだけで憤慨したようにも見えるだろう。
あぁ、最低。自分が、最っ低。
俯いて、こちらが勝手に殴ったくせにじんじん痛む手を握りしめた。
「ごめん、なさい」
「あ?」
「中学のことは、関係ない。だから言わないで」
「……。」
「殴る必要なんか、なかった。本当に、ごめんなさい…っ」
こめかみが熱く疼いて、鼻の奥がつんと痛みだして、私はそこから一直線に出口の扉を抜けて走った。走った。時間にして5秒位は。背後から思い切り腕を引かれて、背中が大きなものにぶつかる。それでももがいて、暴れて肘を包み込む大きくて力強い手から逃げようとした。
「悪かった。だから逃げんな」
「はなし…っ!」
「俺が悪かった。考えなしに口を開くのは悪い癖だって言われてんだ。だからお前はもう、逃げんじゃねえ」
涙腺が猛烈にやばくて、噛み締めた唇から鉄の味がした。
「俺がこいつの言われたくないことべらべら喋りそうになった所為でこうなったんで、見逃してください」
そう言って、唖然としたままことの行く末を見送っていた先輩たちに粟生は深々と頭を下げたのだ。
「粟生、パス!」
「…!お、なにこれくれんの」
「おごって差し上げます」
ふふん、と顎を逸らしてみせた私に仏頂面の粟生が破顔する。
「もらってやるわ」
500mlのペットボトルを揺らしてベンチに座るそいつの横に人2人分開けて並ぶ。あの初日のグダグダ事件のあとから、何故か先輩たちからは粟生とセットで扱われるようになってしまった。危険物は制御役とまとめとけってことだろうか。…そこは、本当に何の言い訳もできないのだけど。
こんな真面目そうな外見して口の悪いやつだけれど、その実私があの日突然切れたことを未だに気に病んでいるぐらいには人がいい。始めがはじめなだけに今更態度を繕う必要もなくて、毎回子供の口げんかみたいな遣り取りを交わしては、先輩や他の部員たちをハラハラとさせてしまっている、らしい。
「ごめん」
「は?なにが」
「もう、大丈夫だよ。気ぃ使って近くにいてくれようとしなくても。ありがとう」
「……お前って、そういう考え方しかできねぇの?石頭」
「は?」
ボトルの蓋を開けてゴクゴクと勢い良く飲み干してから、呆れたようにため息を吐いて横目で睨まれた。
「俺が気ぃ使って、自分が面倒な思いしてやりたくもないことするお人好しとでも思ってんの?」
「うん」
「…ばーーーーーーか!」
「……いはいはらはらしへ」(痛いから離して)
だって、完全に100%私が悪かったあの時でさえ、自分の頭を下げるようないいやつである。迷いなく頷けば、不機嫌そうに眉間にしわを寄せて、思い切り頬をひっぱられた。
「そんなこといちいち女々しく考えねぇよ!黙ってろ!」
「……。」
ぱっと離された頬がじんじんする。
「俺は悪いと思ったことでしか謝らねぇし、したくねぇことはしない。絶対だ。それを変に曲解される方が面倒くせぇ」
「粟生ってちょっと」
「あん?」
「私の兄さんに似てる」
「え?はー…いきなり何の話してんだよ」
そこまで口悪くないけど。優しいくせに、見せたがらないところが似てる。
「一緒にいて楽しいから、対等になりたい。だから、謝らせて欲しい。ごめんなさい」
「……もう、逃げんなよ」
「うん」
何から、とは聞かなかった。粟生は知っているんだ。情けなくて臆病で、逃げ出した私を。
逃げないし、負けない。それでいい。