爽やかスポーツ少年
ゆきは本を読んでいた。
隣に人が静かに座る気配がした。
帰ってきたのか、ゆきはそう思ったが違和感を感じた。大人し過ぎるのである。
貧乏ゆすりをしたり、そわそわしたりする様子がない。
ゆきは本から顔を上げて、隣に座った人をみた。
そして、体をのけぞらした。驚いたのである。
爽やかな笑顔を浮かべている男。それがゆきをかなり近い距離で凝視していたのだ。
ゆきは彼に見覚えがある。銀行強盗立てこもり事件の人質の一人、そして警察署で話かけてきた一人でもある。日焼けした爽やかなスポーツ少年っぽい同じ年くらいの男、だ。
「驚かせてごめん。やっと会えた」
彼は爽やかな満面の笑みをゆきに向ける。短く切ってある黒髪、太くすきず細すぎない意思の強そうな一直線の眉、その下にある奥二重の瞳は綺麗なアーモンドの形をしている。鼻も高すぎず低すぎないが鼻筋がスッと通っていて、その下の口は大きめなために笑った際に爽やかな笑顔を見せることができる。
肌は日焼けで適度に黒くしていて、細身で高身長な体は鍛えられている為にTシャツを着ていても筋肉がついているのがわかる。マスコミには、○○王子と名付けられそうな見た目をしている。
「ゆき、ずっと会いたかったんだ」
何も答えないゆきに、彼は困ったように笑う。
“そばを離れちゃダメ”
銀行強盗立てこもり事件の後にそういった彼。それはゆきがよく知っている人物が言っていた言葉だ。
記憶の中の彼と、ゆきの目の前の彼は、身長も体の大きさも変わっていたが、顔立ちは変わらない。
ゆきはその言葉をよく言っていたスポーツ少年のことを思い出そうとしていた。
ゆきは中学生になった。
周りは知らない子ばっかりのゆき。
クラスの様々な係を決めなければならない時、ゆきは余りものの飼育係をすることになった。鶏がいる飼育小屋には入るのを女子が嫌がったからだ。
飼育係のもう一人は時期の外れたインフルエンザで休んでいた男子だった。その男子がスポーツ少年である。
休んでいたスポーツ少年は、それは明るくてクラスのムードメーカーになった。彼は先生にも気に入られていて、クラスメイトにも笑いをもたらしてくれる、そんな子だった。ゆきにも時々笑いを提供してくれた。
さらに彼は水泳をやっていて、全国大会にいけるレベルの、いわゆる期待の新人だ。ゆきにはないものを持っていて、今までみてきていた男子とも違う、スポーツ少年にゆきは尊敬の意味で憧れていた。
ゆきは、なんの取り柄もない、強いていうなら勉強を頑張っていて成績がなかなか良かったくらいの地味な女子だ。
多分、何もしなければ接点のなかった二人だが、飼育係にて交流を深めることとなる。
放課後の当番である飼育小屋の片付け。
ゆきとスポーツ少年は一緒に飼育小屋に入ろうとしていた。
「部活に行ってきて、いいよ?わたし一人で出来るから」
ゆきが控えめに微笑んで言うと、スポーツ少年は爽やかな笑顔で言い返す。
「俺の仕事でもあるからちゃんとやるよ。あ、箒取ってくるから、先に入ってて」
そう言われた、ゆきが先に鶏小屋に足を踏み入れた。その瞬間、ゆきはとんでもない出来事を体験する。
鶏の集団ギャングがゆきに一斉に攻撃をしたのだ。
抵抗できないし、怖いし、でゆきはうずくまり、されるがままだ。
ゆきの悲鳴を聞いて、スポーツ少年が入ってきて、救出しようと近づくと鶏ギャングは逃げた。
これだけではない。毎回ゆきが一人になったら、それを見計らって、鶏ギャングがゆきを襲うのだ。しかし、スポーツ少年が来ると逃げる。
ゆきの、鶏に襲われてボロボロになった姿(鶏の羽を体につけて髪や制服も乱れて、涙目の姿)をみて、スポーツ少年は毎回、堪えきれずに笑う。
それを見て、ゆきはブスッとする。スポーツ少年は笑いながら謝る。
気がついたら、ゆき、と呼ばれるようになっていた。
「ゆきは俺のそばから離れちゃダメ、だね」
スポーツ少年は爽やかな笑顔で度々ゆきにそう言うようになった。
身に沁みたゆきと、スポーツ少年は飼育小屋にいる時は二人で一緒に行動するようになる。
飼育係は夏休みも当番制でこなくてはならない。
本当は一人でやってもいいのだが、ゆきの当番の時は、ゆきを心配してスポーツ少年も来てくれた。ゆきも代わりに、スポーツ少年の当番の時は手伝いに行くようにしていた。
蝉がミンミンとなる中で、スポーツ少年が話す面白い話に、ゆきは時折笑いをこぼしながらウンウンと相槌をうつ。
急に、話が切れて、沈黙になる。
どうしたのかな、とゆきがスポーツ少年の方を向けると今まで見たこともない、真剣な表情でゆきを見つめていた。
「俺、ゆきの事が好きなんだ。付き合ってほしい」
スポーツ少年に憧れていたゆきはドキドキしながら、顔を赤くして頷いた。
「わたしも、好き」
「ほんと!?やったー!!!」
飛び跳ねる勢いで喜ぶスポーツ少年に、ゆきは笑みをこぼす。そんなゆきをみて、スポーツ少年は、満面の笑みでいつもの言葉を言った。
「ゆきは俺のそばから離れちゃダメだからね」
それからは、平和でほのぼのした中学生カップルだった。彼の家にも時々行き、彼の家族とも仲良くなった。ゆきの兄とスポーツ少年の兄も同級生らしくて、可愛がってくれた。彼との初めてのキスは、彼の部屋で、お互いに顔を真っ赤にしながらドキドキとしていた記憶が残っている。
結婚したら、子供は・・という幸せな未来もお互いに語った。
そんな2人の幸せな未来は来ることなく、終わりを告げた。
それはゆき達が中学3年生になり、受験シーズンにさしかかろうとしていた時のこと。
ゆきのクラスが体育授業中に校庭で爆発が起きた。
近くにいたわけではなかったので誰も怪我はしなかった。
ゆきの近くにいたクラスの男子が爆発音に驚いて、つまづいてゆきの方に転んできた。
ゆきは支えることなく、男子生徒に押し倒されてしまう。
謝られて、ゆきも大丈夫、と答えた。
同じクラスであるスポーツ少年の安否を確認しようとキョロキョロした。
そうしたら、スポーツ少年は、今まで見たこともない冷たい表情でゆきを見ていた。
それからというもの、スポーツ少年はゆきに対して冷たくなった。
そして、ある放課後のこと。
ゆきは忘れ物を思い出して教室に戻ろうとした。
教室から男子数人の声が聞こえた。
「お前、ゆきちゃんと別れたのか?」
「別れてないよ」とスポーツ少年の声。
「けど、最近ゆきちゃんに冷たいじゃねぇか。あんなに仲良かったのに」
「・・・俺は元々、好きじゃなかった」
「ええ?あんなラブラブだったのに?演技派だな」
「ああ。・・からかってやろうと思ってさ」
「本当かよ、ひでぇ奴だな。けど確かにお前みたいな奴と付き合う女子は、ゆきちゃんみたいなタイプとは違うって前から思ってたんだよな。わっやば。塾の時間だ」
そうやって教室から出ようとする男子生徒一同にゆきは逃げよう、と思った。
しかし、スポーツ少年の言葉が、頭の中で反芻して、体が固まり、動くことができなかった。
そして男子生徒が教室の扉を開ける。
ゆきと、スポーツ少年の、目が合った。
ゆきは震える体に鞭をうって、その場を去った。
それからというもの、スポーツ少年を視界にいれないようにして学校生活を過ごす。
そして、父から来年の4月に転勤することを告げられて、新たな転勤先の地域にある高校の受験をする。
一緒に同じ高校に行こうね、とスポーツ少年と約束したことを思い出しながら。
無事に合格して、卒業と同時にゆきは引越した。
「ゆき、俺、あの時のことを謝りたくて」
スポーツ少年(といっても、すでに青年だが)の声で、ゆきは現実に意識を戻した。
「・・・いいよ、謝らなくて」
ゆきはそう言って、控えめに笑った。
「謝るのはだめ?じゃあ、俺の本心を言っていい?」
「本心?」
「ああ。俺、やっぱりずっとゆきが好きなんだ」
「もう・・・、いいよ。そういうの」
ゆきは目線を下げて、そう言った。
「ゆき!本当なんだ。俺は・・・」
「それより、何でいるの?」
「あ、ああ。水泳の大会があるんだ」
「相変わらず頑張ってるんだねぇ。尊敬しちゃうなぁ」
「ゆき、俺っ」
「あの時はなんであそこの銀行にいたの?」
「・・・スポーツ推薦で行った大学があの地域にあるんだ」
「へぇ。うちの大学はスポーツ推薦ないからなぁ。近くの大学かな」
「なぁ、ゆき」
「おばさんとおじさんとお兄さんは元気?」
「元気だよ・・・。ゆきに、みんな会いたがってるよ。今度、遊びに来なよ」
「遊びにいく理由がないからなぁ」苦笑するゆき。
「ゆき、聞いてくれ。本当に俺はゆきの事が好きなんだ。そばにいてほしい。ゆきは俺のそばにいなくちゃダメなんだ。俺がダメなんだ。今度は、絶対ゆきを守るから」
「ええと・・・」
「毎度ご乗車ありがとうございます。乗車券拝見させていただきまーす。はい、ありがとうございます。はい、ありがとうございます」
車掌が先頭から乗車券を確認してくる声が聞こえる。
「ほら、自分の席に戻らなきゃ」
ゆきがそういうとしぶしぶ席をたつスポーツ少年。
「ゆき、またね」
そう言って去った彼に、ゆきはホッと息をついて車掌に乗車券を見せる。
度重なる望んでない出会いに、疲労を隠せないゆき。
一人を思い出して、まさかな、と頭を振る。
そして、ゆきは目を閉じて、気がついたら寝ていた。
彼は落ち込みつつ、自分の席に座った。
ゆきのつれない態度を思い出して、ため息をついた。しかし、自業自得と言うものなのだ。再び再会できただけでも、幸運なのだろう。
ゆきとの中学生時代を思い出す。
彼はインフルエンザで新学期の初っ端から休んでしまった。
その時に押し付けられてしまったのが飼育係だ。そこで初めて、同じ飼育係のゆきと関わることとなる。
ゆきは大人しい性格の女子である。観察していてわかったが、聞き上手であり、控えめに笑う、男子に免疫がない女子だ。明るい女子が好きな男子もいるだろうが、このような優しくて落ち着いた雰囲気をもつ女子が好きな男子もいっぱいいるだろう。この子はもてそうだ、そんな事を彼は思っていた。
しかし、そんなゆきの違う一面を知ることとなる。
鶏ギャングに襲われてボロボロになり涙目のゆき。
笑った彼にブスッとした表情をしたゆき。
彼がいないと鶏に襲われるゆき。
彼の話を聞いて、花がほころぶように笑うゆき。
この子はそばにいてやらなきゃダメだ。
そんな気持ちに彼はなった。
そして、その気持ちは恋になった。
ある夏休み。
蝉がうるさくないている中、笑う彼女をみて、想いがあふれた。
そして、告白した。
真っ赤になる可愛いゆきが気持ちに応えてくれた。彼は天に舞い上がるような幸福さに身を包まれた。
それからの彼の世界は色付き始めた。全てが楽しくなったのだ。
ゆきは俺のそばにいなくちゃダメだ、彼はゆきといるたびにその言葉が頭を支配した。
ゆきは可愛くて大人しくて礼儀正しい子であった為に、彼の家族も歓迎した。
彼の部屋で、ゆきと初めてキスをしたときの喜び、興奮、幸せ、独占欲、色んな感情が入り混じったことを今でも覚えている。大切な思い出だ。
どうやったら、ゆきとずっと一緒にいられるか。家族に聞いたら、結婚したらいい、と冗談まじりで言われたが、彼はなるほど、と思った。そして、ゆきと結婚する約束までした。
この幸せがずっと続くと思っていたが、ある事件で、それは崩れた。
体育の授業で、校庭で爆発が起きたのだ。
ゆきは大丈夫か。ゆきを探していると、ゆきが男子生徒に押し倒されている姿を見た。
それを見た瞬間に彼の中に色んな思いが駆け巡った。
ゆきは俺のものだ
俺のそばにいろ
俺以外は見るな
俺以外に触れるな
ゆきを触れて見る男を全て消したい
俺以外を見るんなら
ゆきなんか
死 ん じ ま え
そんな黒い気持ちに心が支配された。
明るいはずである彼は、そんな気持ちを持った自分を肯定できなかった。
ゆきを殺してしまうかもしれない。
ゆきを見たら、またあの黒い気持ちが現れるかもしれない。
彼はゆきに冷たくした。
しかし、好きであるのは変わらなかったので決して別れたくはなかった。
そして、ある日教室で男友達とゆきについて会話をしていた。
冷たくしている理由を誤魔化すために、ゆきは好きではなかった、からかうために付き合った、と嘘をついたのだ。
そうしたら、ゆきに聞かれた。
それからというもの、ゆきに避けられていた。
避けられている時も、時折、黒い気持ちに支配されそうになる。
思春期の彼は、そんな自分をどうしたらいいのか分からなかった。
そして、ゆきと一緒に行くと約束していた高校に合格し、卒業式になった。
ゆきが違う土地に引っ越すという噂を聞く。
卒業式が終わり、彼は友人達に囲まれた。
しかし、ゆきに確認しなければならない。
友人達を振り切り、彼はゆきの家へと向かった。
しかし、そこはもぬけの殻だった。
それからというもの、明るい彼は変わらなかった。
しかし、水泳の指導者に言われた。
空元気だな、と。
そんなに、人生がつまらないか、とも。
つまらない。目標がない。
世界は彼の目ではモノクロに映る。
しかし、また色付き始めた。
彼の兄のおかげだ。
彼の兄とゆきの兄は仲が良く、定期的に連絡を取り合っていたのだ。
そんな兄の携帯に、高校の制服を着たゆきの兄とゆきが笑顔で写っている写メが送られてきたのだ。
それを兄に頼んで、転送してもらった。
暇さえあれば、写メの高校生のゆきを眺めて、高校生のゆきを想像する。そんな生活になった。
そして大学に進学する際に、兄に頼んでゆきの兄に、ゆきはどこの大学に進学するのか聞いてもらった。
ゆきの選んだ大学は残念なことにスポーツ推薦がなく、ゆきの大学からさほど離れていない大学に彼は入学した。
そしてゆきを探すが見つからない。
ある日、口座をつくるために銀行にいたら、偶然ゆきが入ってきた。
銀行強盗立てこもり事件に巻き込まれて、救出された後にようやくゆきと話すことができた。
ゆきは他の男にも話しかけられて逃げてしまい、それから探してもやっぱり見つからない。
彼が意気消沈しているところに、こうやってゆきと再会した。
他の男につかまる前になんとか、またゆきを取り戻さないといけない。
もう彼は、ゆきを傷つけるようなことはしない。あれは思春期でどうしたらいいのかわからなかった末の誤ち(あやまち)だ。
今ならわかる。ゆきと結婚して、自分のそばにいさせたら、大丈夫なのだ。
彼はーースポーツ少年は、ゆきの控えめに笑う姿を思いだしながら、爽やかに笑った。