想い込めの再契約
「あの……ご主人さま?」
控えめなミュウの言葉にハッと我に返った。胸元にレースがたっぷりとあしらわれているネグリジェという、彼女らしからぬ姿に思考を奪われていたようだ。ついでに言えば、彼女から香る花の匂い。恐らく、香水を使っているのだろう。そしてこのYes/Noマクラ。いや、裏面にもYesと書かれているためYes/Yesマクラだろうか。
だれかの入れ知恵によるものである可能性は、とてつもなく高い。
「マリン……いや、リューナとミラヤもか? あいつら……」
「ご、ご主人さま?」
「あ、ああ。悪い、ちょっと意識飛んでた。えっと、取りあえず入ってもらえるか?」
「は、はいっ……!」
いつまでも廊下に立たせているのも可哀そうなので、真っ赤な顔をしたミュウを自分の部屋へと招き入れた。彼女が扉を潜ると同時にバッとドアの外に顔を出し廊下を確認する。すると向こうの方で数名の人物が壁の影に隠れているのが発見出来た。視認できただけで三名。ユゥミィ、ミラヤ、ユリトエスだ。ユゥミィの首に水色の宝石が光っていたのも見逃さなかった。
明日の追及で待っていろと心の中で誓っておく。
「えー、取りあえず椅子……は、ちょっと散らかってるから、そこのベッドにでも座ってもらえる?」
「は、はいっ……!」
椅子の上にも散乱したガラスビンに気付き慌てて掃除をしだす。しかし余計に汚くなっているようにしか見えず、結局諦めた。
先ほどまで座っていた椅子を引っ張ってきて、ベッドに座るミュウと対面する形で座る。
「それでミュウは……」
「は、はいっ……!」
「……いや、まだなにも言ってないんだけど」
はいとしか言わないミュウの姿に訝しみながら彼女に視線を送る。ミュウは余程恥ずかしいのか、ギュッと枕を抱いて上目遣いでこちらを見ていた。
どうもこのままだと埒が明かなそうだ。少し強引かもしれないが、話を続けるしかないだろう。
「ミュウはなにか用があってここに来たんだろう? それがなにか、聞いてもいいか?」
「ひゃ、ひゃい」
努めて優しく声を掛け、驚きと羞恥に染まる表情を見学する。コロコロと変わる彼女の姿を可愛く思いながら、言葉を待つ。必死に声を上げようとしているのか、口がパクパクと動いている。
「あ、あの……契約を、その……」
「契約?」
「は、はい……ディーラさんとの契約を見て、その……」
そう言うとそっと右手を差し出した。彼女の右の手の甲にはユクレステの契約紋が描かれているはずである。しかし、
「……薄くなってる? あれ、もうだっけ?」
星と花びらの紋章が消えかけていたのである。
確かに、ユクレステの魔力では半年程経てばこのようになってしまうが、ミュウに魔法をかけてからはまだ二ヶ月も経っていないはずである。
だがそう言えば、とその時のことを思い出した。
「あ、そっか。あの時はリューナの杖を使ってなかったんだっけ。それに壊れかけてたし……」
ミュウと初めて出会った時、愛用のリューナの杖は盗賊達に盗まれていた。そのため、貰った杖での契約となったのだ。
確かに、それならばこれだけ早く効果が切れかかっていると言うのには頷ける。
「じゃあミュウの話って契約魔法のかけ直しのことだったのか。ごめんな、気付かなくて。それじゃあ右手をちょっとこっちに……」
慌ててリューナの杖を手に取り、謝りながらも立ち上がる。
「あ、あの、ご主人さま……!」
だがそれを止めるような形でミュウの声が響いた。驚いたように目を見開き、ユクレステは彼女の方を向く。
「え、えと……お願い、してもいいでしょうか?」
「お願い?」
顔を真っ赤にしたまま、ミュウは自身の右手に光る紋章をなぞった。
「わたしの、紋章の場所……変えたいんです」
「場所を? それは別に構わないけど……なんでまた?」
勇気を振り絞って行った言葉にユリトは疑問を感じた。別段紋章を刻む場所に制限はない。肌であれば、大体どこでも描けるのだ。手の甲であることにも特に不都合はないはずだ。
ではなぜそんなことを言うのか。それは、今までユクレステの仲間達が描いた紋章の場所だ。
「マリンさんは、ご主人さまと心を共に出来るように、って言っていました……」
胸に紋章を描いたのは不生の人魚姫。
彼女の場合、口から出まかせなのだと思うが……。
「ユゥミィさんは、一目でご主人さまの仲間だと知らせたいからだと……」
頬に紋章を描いたのは騎士志願のダークエルフ。
彼女は少し目立ちたがり屋だからじゃないだろうか。
「ディーラさんも、ちゃんと考えて場所を指定していました……」
右足太ももに紋章を描いたのは、戦闘狂の悪魔族。
彼女は、確かに色々と考えてはいたが……まず念頭に置いたのは戦いのことだった。
だがそのだれもが自分で一番主との絆を表せる場所に紋章を刻んだと言う事。それなのに、自分はどうだったろうかと思案する。
契約の時も、主との絆のことも分からずに、ただ流されるままに刻まれた右手の紋章。それが嫌だとは言わない。けれども、もっと相応しい場所があったのではないかと、そう考えてしまったのだ。
「だから、ご主人さま……」
「えっ……?」
ベッドから降りると同時にスルスルとリボンを解き始める。止める間もなく行われた行為にしばし唖然とし、我に返った時には既にミュウの綺麗な肌が晒されていた。下半身の下着だけは穿いていたようで、純白の色が透き通るような肌色と相まって言葉に出来ない可憐さを醸し出している。
「え、ちょ、ミュウさん!? な、なにやって……!?」
ユクレステの声にビクリと反応し、せめてもと胸を手で隠しながら真っ赤な顔を向けた。
「お願い、します……ご主人さま……」
潤む瞳でジッと見つめるミュウ。その姿に今度はユクレステの方が顔を赤くしてしまう。
一体なにをお願いするのか、そもそもなぜ脱いだのか。上手く働かない頭で必死にこの場を打開する方法を考える。
そうこうしている内にミュウが一歩を踏み込み、ユクレステを見上げる形でジッと見つめる。
「ご主人、さま……」
「は、はいぃい!?」
既に色々と限界な少年は可笑しな声と共に直立した。
以前だれかに言った言葉を訂正する。確かにこれは、興奮してしまうかもしれない。いや、ノーマルな人ならば興奮なんかしないのかもしれないが、如何せんユクレステは魔物相手に羞恥心を覚えるアブノーマルさんだ。もしかしたら例外に入るのかもしれない。
とは言えそんなことは今のユクレステにとってなんの解決にもならない。ゴクリと唾を呑み込み、ミュウと視線を合わせる。
「お願い、します……わたしの、あの……」
「い、いや待つんだミュウ! 確かに俺はおまえのことを大切な仲間だと思ってる! でもこういうのは流石に早過ぎると思うんだがどうだろうか――」
「ここに、契約魔法を描いてくれますか……?」
「……へっ?」
そう言って差した彼女の指の先は、胸の真ん中辺りを示していた。
なおも赤い顔のまま、ミュウは恥ずかしそうに声を続ける。
「ご主人さまとお話していると、ここが温かくなります。マリンさんと一緒にお風呂に入ったり、ユゥミィさんとお菓子を食べて、ディーラさんに稽古をつけてもらった時も。アランさんやセレシアさん、ミラヤお姉ちゃんにユリトさん達と一緒にいても、ここがポカポカするんです。きっとこれが幸せなんだって、そう思えるんです」
未だ顔は赤くても、その言葉はハッキリとしたものだった。ミュウの一生懸命な声を聞いていると昂っていた心が落ち着きを取り戻していく。
ユクレステは、真剣な表情で彼女の言葉を待った。
「わたしは、この気持ちを忘れたくありません。幸せなんだって、心の底から思う気持ちを手放したくないんです。だから――」
一度言葉を切り、スゥ、と息を吸い込む。恥じらいの視線を決意のそれに変え、両手の平を胸に乗せた。
「――ここに。ご主人さまや皆さんの気持ちを、温かな胸に抱きたいんです。だから、ご主人さま。どうかわたしに……ミュウのこの胸に、ご主人さま達の絆を、刻んで下さい」
恥じらっていてもその瞳は逸らさない。同様に視線を受け取るユクレステも、真正面から彼女の思いを受け止める。
彼女の思いも、考えも、それらを受け取りながらふと思う。初めて出会った頃に比べ、よくもここまで自分を持てたものだと。
なればこそ、ユクレステは笑って頷いた。
「分かった。ミュウの思いと、俺達の思い。ちゃんとそこに、残してあげるよ」
「……っ、はいっ!」
嬉しそうな笑顔に、こちらも自然と口元が緩んでしまう。
「それじゃあ、ミュウ。そのままベッドに横になってもらえるか?」
「分かりました」
自分のベッドにほぼ裸の少女が横になっているというシチュエーションに少しばかり緊張しないでもないが、今の彼女に対してそんな下世話な発想を持つのは失礼というものだろう。ユクレステは自分の脳内を洗い流し、リューナの杖を手にしベッドに腰を下ろした。
仰向けになったミュウがチラリと横を向くと、そこにはユクレステが座っている。
「それじゃあ、悪いけどちょっと手を退けてもらっていいかな?」
「は、はい……」
ギシ、とユクレステの左手がベッドを押し込み、自身の体を支える。右手に持った杖を弄りながらミュウに指示を出した。主の言葉に従って、まるで気をつけをするように、手の平を太ももの側面に張り付けた。
仄かな膨らみかけの胸が露わになり、一瞬ミュウの意識が飛んだ。あまりに恥ずかしいのだ。先ほどからドキドキと心臓が悲鳴を上げている。
自分から脱いだ訳だが、正直失敗したとすら思い始めていた。せめて、普段のパジャマならばボタンを開けるだけで済んだのに。この時ばかりはノリノリでこのネグリジェを進めたミラヤを恨めしく思う。
「ご、ご主人さま……」
「ん、任せろ」
ホッとするような笑みを浮かべ、ユクレステは杖の先をミュウの胸に近づける。触れるか触れないかという所で杖を止め、小さな声で呪文を囁いた。
「んっ……」
すると杖先に十センチ程の魔法陣が浮かび上がり、徐々に形を変えていく。
「ふぁ……」
温かな心地が胸に流れ込んでくる。他者の魔力が、己に浸透する感覚。普通ならば異物にしか感じないそれが、己の主なのだと理解するだけでやけに温かなものへと変貌する。
「は、あぅ……んん――!」
心と体が喜びを感じているような、そんな不思議な感覚を受けながらミュウは熱い吐息を吐き出した。
「よし、これで完了、と」
そう言って杖を引く。先ほどまでキメ細かな肌があった場所に、少しの熱を帯びた紋章が輝いていた。
星と花びら。ユクレステとミュウとの、主従の絆。
「あっ……」
ぼうっとする瞳で自身の体を見下ろし、胸に刻まれた紋章を視界に入れる。それがあるのを確認し、なぞるように紋章に触れた。
「魔法の効果で今は少し熱を持ってるけど、すぐにそれも収まるよ。って、この説明も前にしたっけ?」
ポリポリと頭を掻きながら、照れくさそうに言った。それからミュウの来ていたネグリジェを拾い上げる。
「はい。いつまでもそんな格好してたら風邪ひいちゃうからな」
それに目の毒……いや、毒ではなく劇薬か。どちらにしても精神上よろしくないので服の着用をお願いしたい。
「あ、ひゃいっ……!」
自分の格好を思い出したのか、慌てて飛び起き服を着る。焦っていたためか頭を出す場所が上手く見つからず四苦八苦していたが、数十秒掛かりながらもなんとか着ることに成功した。
そして赤い顔をこちらに向け、勢いよく頭を下げた。
「あ、ありがとうございました! その、無茶を言ってしまって……」
「いや、無茶でもなんでもないよ。元々場所はどこにしても良いって最初に言ってあったしな。だから、そんな頭を下げない。笑ってくれるだけでこっちとしては嬉しいからさ」
「は、はいっ……!」
ユクレステの言う通り、ミュウは綺麗な笑みを浮かべた。
「それじゃあ今日はもうお休み? 明日からまた旅が始まるんだから」
ふあ、と大きな欠伸を一つして、ミュウを促す様に見る。だが、当の本人は困った顔でユクレステを見つめている。
その様子に、若干の嫌な予感。
「あ、あの、ご主人さま?」
「えっと、なんでしょう?」
控えめな彼女の言葉、その裏にだれかの意思が見え隠れする。マリンかミラヤか、はたまたリューナかユリトエスか。
「今日は、一緒に寝てもいいでしょうか?」
正解は、その全員。ディーラとユゥミィを除いた、この屋敷の住人とゼリアリスの王子様。分かったところで、今さら遅いのだが。
「マリンさんが、今日はご主人さまの所で寝かせてもらえと。リューナさんも、家のカギは締めるって……」
「あ、ああ、そうなんだ……それならまあ、仕方ないね」
一人用のベッドではやや手狭だが、元々小柄なミュウ一人ならばなんとかなるだろう。
このままではミュウは床で寝ることになってしまう。ユクレステは目の前で懇願するように見つめてくる彼女の姿に、頷く他なかったのである。
翌日。
朝も早い時間帯にダーゲシュテン港には多くの人が集まっていた。彼らのもっぱらのお目当ては、港に入って来たゼリアリス国所有の魔導船、ブルートゥ号だ。セントルイナ大陸でも数少ない、聖具を用いて作られた鋼鉄の魔導船。物珍しさのためか、多くの人が楽しげにそれを眺めていた。
そして船の前に並んだ兵士達を眺め、嫌そうに舌を出すゼリアリスの王子。
「うへぇ、随分とまあ……なにこれ、今から戦争でもする気ですかよ?」
「滅多なこと言わんで下さい。ユリトエス王子、これは一重にマイリエル姫のですなぁ……」
「はーいはい、分かってますよ。どーせこれもマイリが手配したってんでしょ? まったくあのじゃじゃ馬姫、一体なに考えてるんだか……」
「王子! 姫は王子のことを心配して厳重な警備で――」
「独り言だってばエイゼン、わざわざ反応しなくて良いですって。……まったく、マイリも余計なことを」
「王子!」
エイゼンに怒鳴られながらもつまらなそうに悪態を吐いているユリトエス。その光景に苦笑しながら、ダーゲシュテン領の領主であるフォレスが近づいた。
「それではユリトエス王子、エイゼン殿。道中、お気をつけて」
「ええ、ご心配なく。なにせうちのお姫様が本気出しちゃってますからね。自然災害以外なら問題なく快適な海の旅が出来ますよ」
「我が国の王子のために手厚い歓迎をして頂き、ダーゲシュテン様に致しましては感謝の言葉しかありません」
「いえ、我が領地を気に入って下さったのでしたらなによりです。是非とも次回の訪問をお待ちしております」
エイゼンとフォレスの会話を聞き流しながら、ユリトエスは二人の後ろに控えるユクレステ達に近寄る。
「それじゃあとりあえず、さようなら。この一週間、余の人生で珍しく楽しい時間だったよ。ありがとう」
「いえ、ユリト王子が楽しめたなら何よりです。……昨日のことは許さないけどな」
「は、ははは……」
最後にボソリと言った言葉はユリトエスにしか聞こえなかったようで、引きつった笑みの彼を訝しげに見守る兵士達。ユクレステも、彼らがいるから大きな声を出さずにいるのだろう。
はぁ、とため息をこぼし、ユクレステは一転した優しげな笑みでユリトエスを見た。
「まあ、こちらも楽しかったですよ。ミュウ達も世話になりましたし、またいつかゼリアリスに行った時にお会いしましょう」
「あ、そっか。今日からまた旅に出るんだもんね。……うん、その時を心待ちにしてるよ。ユッキー」
握手をして、チラリとリューナの手を握っているマツノを見る。沈んだ表情で、それでも必死に泣くまいとしている。ユリトエスは彼女を見つけ、ニッと笑ってみせた。
「マツノちゃん、勉強がんばりなよ? 余はほら、時間だけはたっぷりあるニート生活だから。待ってるよ」
気軽な感じでハグをして、そう言った。マツノは驚いたように目を見開き、グッと拳を握って頷く。
「はいっ!」
それからも簡単な挨拶を交わし、極あっさりとユリトエスの乗る魔導船は港から去って行った。それと同時に港に集まっていた人々は解散し、各々がいつもの朝の光景に戻っていく。
「なんか、随分あっさりだったな。またごねるかとも思ったんだけど」
『あはは、違いないね。それじゃあ、次は私達かな?』
先ほどの場所から少し移動し、別の船の乗り場にやってきたユクレステ一行。既に船は来ており、後は乗りこむだけとなっている。
見送りに来ているのはリューナとマツノ、そしてミラヤだ。父であるフォレスはこの後溜まった仕事を捌くことになるのだろう。隈の出来た顔が少々やつれていた。
ユクレステは一度振り返り、リューナとマツノに視線を向ける。
「それじゃあ、行ってくるよ。マツノちゃんも、リューナの扱きはキツイと思うけど頑張るんだぞ? 辛くなったら父さんかシュミアに相談するんだぞ?」
「失敬な。儂も相手は選ぶわ」
「えっ、それってどういう意味? 俺だからあんなキツイ修行だったってこと?」
言い合う二人の姿にクスクスと笑みを浮かべて相槌を打つ。
「大丈夫です、リューナさん……いえ、師匠はちゃんと考えてくれてますから。私だって早く一人前になって二人に認められたいですし」
「ええ子や……こう、ミュウとタッグを組ませたら最強になるんじゃないかってくらい、ええ子や」
当のミュウはミラヤに抱きつかれている。それも仕方ないか、と放置し、準備が完了しているユゥミィとディーラに振り向いた。
「さて、それじゃあ早めに乗り込んどくか。って、あれ? どうしたんだ、ユゥミィ?」
「む? なにがだ、主?」
そこにいたのは普段と変わらぬ様子のユゥミィだった。変ではない、しかし、この状況で変ではないことが既に可笑しいのだ。
「なにって……だってこれからまた船旅だぞ? いつものことだから今のうちから顔を真っ青にしてると思ったのに」
「なんだ、そんなことか」
ふふん、と鼻で笑ってドーンと胸を張った。
「私はもう、乗り物酔いを克服したのだ!!」
ドーンと。
「……え、そうなの? そんな簡単に克服できるものなの?」
「まあこれは私だから出来たというか、流石メイン騎士は順能力が半端ない! これからは私の事をパーフェクトダークエルフと呼ぶと良いだろう!」
なんだか凄くヒートアップしているユゥミィだが、その隣のディーラはその逆で異様にテンションが低い。薄手のローブを前までしっかりと閉じており、フードこそ被っていないが暑そうだ。しかし彼女のテンションが低い理由は暑いからとかではないようだ。
「あー、寒いとかヤダな……」
そこまで嫌なのだろうか。ズーンと喰暗い表情で顔の半分に影が出来ている。少し可哀そうとも思うが、一応彼女にとっての楽しみもあるのだし我慢してもらおう。
出港の時間が近づいて来る。ようやくそこでミュウを離したミラヤが、今度はユクレステに抱きついた。
「……お坊っちゃん、ミュウちゃんを、よろしくお願いします」
「もちろん。任せなさいって、ミラヤお姉ちゃん?」
「お坊っちゃん」
耳元でそう囁き、赤くなったミラヤを放して船に向かう。ちょうど彼らが最後だったようで、船は徐々に動き出す。
「それじゃあ行ってくる! リューナ、留守をよろしくな!」
「うむ、任せておくが良い。お主はお主の夢を果たせ。それが、儂とゆーの間にある唯一の契約じゃ。吉報を、楽しみにしておるよ」
優しげな彼女の言葉にふ、と笑みを浮かべる。彼に続くように、仲間たちも声を上げた。
「リューナ、あなたの心遣い、本当に感謝している。今度会う時は、立派な騎士になっていることを誓おう!」
「今度はリューナとも死合いたいかも。その時がきたら、よろしく」
「リューナさん、ミラヤお姉ちゃん、マツノちゃん! また、一緒に遊んで下さい!」
「……マリン?」
『まったく、しょうがないんだから』
大きく手を振る三人の仲間。最後の一人、宝石の中のマリンは一言発して海に飛び込む。そして、
「せっかくの旅立ち、ちょっと派手に、やっちゃうよ!」
グルリとその場に陣を描き、海面を飛ぶようにして現れる。同時に放たれる水のカーテン。遥か頭上にて弾け飛ぶと、そこには虹色に輝く水の壁が出来上がっていた。
「わぁ! スゴイです!」
「ほほう、これはこれは」
虹色の壁を港から見ていたリューナ達。マツノとミラヤが驚きに声を上げ、リューナは感心したように頷いた。
「ふぅむ、マーメイドシップか。これはまた、珍しいものが見れたのう」
「マーメイドシップ、ですか?」
「そうじゃ。遥か昔から続く、人魚族の習わしの一つでの。人魚が祝福を与えた者が旅立つ時、旅の無事を祈って行う呪い事のことじゃよ。同時に、旅立つ者から見送る者への最大の感謝の意味とも取られておる。かか、憎い演出をしてくれる」
周りも徐々に喧騒が広がって行く。港町と言えど、マーメイドシップを見ることが出来るのはそれだけ珍しい事なのだ。
「そうじゃ、ゆーもお主らも、ひた前に進め。それこそが旅の真髄じゃ。流浪龍たる儂が晴れ渡るこの空に祈ろう――彼らの旅路が、夢に近づく一本にならんことを」
リューナはかか、と喉を震わせ、優しげに船を見送った。
ダーゲシュテンが岩肌に隠れるまで故郷を見続け、やがて誰からともなく息を吐いた。
「いや、見えなくなっちゃったねー。なんかこう、感慨深いものがあるよね、旅の始まりってさ」
『ん、そうだね。でも流石はマスターの故郷だよね。なんだか、皆あったかい人ばっかりで良い街だったよ』
「あ、それは確かに。余もそう思った」
「まあ、そう寂しがる必要はないんじゃない? ご主人の仲間であり続ければいつかは帰る日も来るだろうしね」
「んー、でも余は無理かなー」
「ははは、ディーラの言う通り……ん? あれ、おかしいな。なんだか少し気持ち悪くなってきたような……」
「あわわ、ユゥミィさん体が傾いて……ご、ご主人さま、ユゥミィさんが船酔いです……!」
「へー、ダークエルフって船に弱いんだ。初めて知ったかも」
ゆらゆらと体が揺れるユゥミィを抱き止め、ミュウが慌ててユクレステに振り返る。ディーラも眠たげな視線を向けており、だからこそ、そこにいた人物に気が付かなかったようだ。ただ一人、先ほどから唖然とした表情のユクレステは、彼を指差してこう叫ぶ。
「なんでここにいるんだよ……ユリト王子ぃ!?」
「えっ? そりゃまあ、余も旅ってしてみたかったから?」
ニコニコとした笑みのまま、ゼリアリス国の王子様ことユリトエス・ルナ・ゼリアリスはそう言ってのけたのである。
こうしてユクレステは、一つの爆弾を抱えたまま旅立ちの一歩を踏み出したのであった。
ついに旅立ちの日が訪れました。次章からは新たな仲間と共に精霊探しが始まります!