悪魔との契約
エンテリスタ魔術学園にはとある伝統的な行事が毎年予定されている。それが、王都ルイーナの側を流れるルイゼス川での水泳授業である。幅一キロはある広い川を魔法の力無しで泳ぎ切るのは中々に一苦労だ。川の流れが早い訳ではないのだが、たまに川に住む魔物に追い立てられるのは学園の笑い話として語り継がれている。
そんな魔術学園では機能性を重視した水着が開発されていた。
例えば、胸元から入る水を逃すために下腹部の布が分かれていたり、背面がU字型になっていたりする代物。前から見ればスカートのようにも見え、その手の人たちにはとても人気の高い一品となっている。ユクレステ自身はあまり興味がなかったので記憶にはないが、同じクラスの男共が誰々のスク水姿は最高だ、などとはしゃぎ、結果セイレーシアン率いる女子達によって川に沈されるという事件も起きていた。
ついでにこれは噂なのだが、エンテリスタ魔術学園印のスク水は某所で高額取引されていると聞く。それを聞いた時はだれがそんなものを買うのかと思っていたのだが……。
「なるほど、ミラヤみたいな人が買うのか……」
「おや? お坊っちゃん、どうかされましたか? もしや、このミラヤの色気ムンムンな水着姿に興奮を覚えてしまったとか? おやおや、お坊っちゃんもお年頃ですからねぇ。この魅力あふれる大人のばでぃを見せられたなら仕方ありませんね」
「なにを勝手に言っとるか、このダメイドは」
そう言ってしなを作るミラヤだが、残念ながらその体型は少々幼く見える。そもそもミーナ族という種族それ自体が小柄な者ばかりで、シュミアなどの一部の例外を除いて大人になっても百五十センチを超えるミーナ族の女性はあまりいない。男性に至っても、百六十センチを超えれば巨人扱いだ。
そんな人間から見て子供と同様な姿のミラヤに興奮するほど、ユクレステは紳士ではない。
「クッ、あれは古代の文献に載ってる旧スク……しかもロリっ子着用とか、分かってる! ミラヤさん分かってるよ!」
「……ユリト王子」
隣の王子様は想像以上に紳士だったようだが。
残念な子を見るような視線でユリトエスを眺め、ため息と同時に視線を動かす。
「あ……」
「ん?」
すると偶然、ミュウと視線が重なった。
「あ、あの、あの……」
カー、と顔を真っ赤に染め、あちこちに目を泳がせている。ミラヤとそう変わらぬ体長のミュウは、隠れるようにして彼女の背後に回り込んでしまった。
「うん? どうした?」
「どうしたって……恥ずかしいんでしょ。マスターに水着姿見られるの」
疑問に答えたマリンの言葉に、ユクレステはされに首を傾げる。
「えっ? 今さら水着で?」
ある意味問題発言だが……ユクレステは過去にミュウの裸をバッチリしっかりと目に焼き付けたことがある。その時にはミュウも大して恥ずかしがっていなかったため、きちんと水着を着用した現状、なにを恥ずかしがっているのか分からないでいた。
その様子の主を呆れた眼差しで見据え、ため息と共に説明する。
「あのねぇマスター。ミュウちゃんも女の子なんだよ? やっぱり特別な人にこういう格好を見せるのは恥ずかしいもんなの」
そういうものらしい。
「ふーん。よく分からんけど、取りあえずあの子も変わってきたってことか」
うんうん、と嬉しそうに頷くユクレステを見て思う。
こいつなんにも分かってねえ、と。
精々がミュウの成長を喜んでいる兄の心境だろう。まあ、確かにその通りではあるのだが、そうなった原因の一つがそれでいいのかとマリンは言いたい。小一時間、言ってやりたい。
が、それをするのも人の目があるのでぐっと我慢をしていると、ユクレステが立ち上がってミュウに近づいた。
「え、えと……」
「似合ってるぞ。うん、かわいいな」
「へぅ……!?」
「ミュウって温泉初めてだろ? ほら、一緒に入ろう」
「は、はい……」
微笑みながら手を取る。顔を真っ赤にし、連れられるようにして温泉へとやってきた。マリンの影響を受けてかミュウもお風呂好きであったため、問題なく入浴できたようだ。
「はー、ホントマスターってば見てて心臓に悪いよ。あれで素だって言うんだから、これからの苦労が目に見えるなー」
湯から顔を出し岩に顎を乗せながらマリンは一人そう呟いた。偶然にもそこに居合わせたユリトエスは、そんな彼女に苦笑している。
「あはは、なんか大変そーっすね、マリンさん。ユッキーも罪作りだなぁ」
「ま、ねー。でも大変なのはユリトくんも同じじゃない?」
「へっ?」
チョイチョイとマリンの指先がユリトエスの隣を指している。そこにはいつの間にか、マツノがピッタリと張り付いていた。
「えっとー。……マツノちゃん?」
「あ、すみません。少しのぼせちゃったみたいで。その、もう少しこのままでいても、いいですか?」
隣にいたマツノが、振り向いたユリトエスの胸元にしな垂れ掛かってくる。まだ十を迎えていない少女のものとは思えない熱い吐息が体に触れ、ぞわぞわと体を震わせた。
「いやいやマツノちゃん? のぼせたんなら一旦お湯から出ようね?」
「そんな! そしたらユリトさんと離れちゃうじゃないですか……はふぅ」
「ちょっと! 本気で大丈夫!?」
実際のぼせているのは本当なのだろうが、それよりもユリトエスに抱きつくのを優先しているようだ。くっついて離れようともしない。
「あはは、モテモテだねユリトくん。お姉さん妬けちゃうなー」
「見てないで助けて下さいお願いします!」
この後、引っ張り上げるのに多大な労力と時間を消費することになるユリトエスだった。
そこから離れ、酒を変わらぬペースで煽るリューナとそれに付き合うエイゼン。二人は杯を傾けながらニコニコと笑みを絶やさず話をしていた。
「しかし驚きましたな。このような辺境の地に貴方のような方がおられるとは」
「かかっ、なに、ただの酒飲み龍じゃ。そのような輩はいくらでもいる。然して驚くようなことでもないじゃろう」
「ご謙遜を。貴方の実力、この目でしかと見せて頂きましたからな。これで大したことないと言うならば、わしは騎士隊を再編せねばなりますまい」
エイゼンの瞳に冷たい光が宿るのを見てなお、リューナは変わらず笑みを漏らす。
彼の言っていることは、先日エイゼンが指揮する騎士隊に稽古を申し出た時のことなのだろう。
リューナがユリトエスを護衛すると言った時、当然のことながら近衛騎士達はそれに反対した。知りもしない、実力も分からない相手にどうして任せられるのか、と。その言葉を聞き、リューナ普段と変わらぬ気楽な調子でこう返した。
『ならばここで儂の力を示しておこうか。今この時この場に居る全員、全ての力を出し切って掛かって来ると良い。お主らの考えなど罷り通らぬことを教えてやろう』
無論これに激昂した騎士隊員十四名は、無謀にも彼女に挑みかかってしまった。結果、リューナは五分と経たずにこれを撃破。全員に土の味を教え込んだのだった。
それ以来、リューナはユリトエスの護衛として彼の近くにいる。それに寄って来るようなものは、今のところ、老騎士エイゼンを除いてだれもいない。
そんな二人が言葉少なに話をしている。その内容とは、なんなのだろうか。
「あれからユリトに近づくものが居らんようになってのう。ちょっかいを掛けておった者も消えた。そう考えれば……」
「……お考えの通り、ですな。既に数名、わしの部下が消えております。もう襲撃は不可能と、そう判断したのでしょう」
「そうならば、良いのじゃがな」
初日にユリトエスを襲った黒づくめの人物たち。実はあれからも数度現れてはいたのだ。しかしそれもリューナと言う壁の前にはなにも出来ず、監視するに止まっていた。その視線が消えたのが、騎士とのちょっとした訓練の後。
「ふむ……。どうにも、そちらは厄介事が多そうじゃのう」
「はは……。まったく、耳が痛いですな」
リューナは確信していた。ユリトエスを襲っていたのは、ゼリアリスの者達なのだと。それを分かっているのかエイゼン自身も苦笑気味だ。
クイッと杯の中の酒を空にし、非難めいた視線をエイゼンに向けた。
「……なにがあったかは分からぬが、もう少し人選をしっかりとした方が良いぞ? 半分以上が敵でした、など笑い話にもならん」
「むぅ、申し訳ない。なにせ今回のことは急に決まったことでして、人材を決めている余裕などとてもとても……。まったく、王子にももう少し計画性を持って頂きたいですな。今回のことでさえどれだけマイリエル姫がご尽力なさったか、分からないでもないでしょうに……おっと、失礼」
ハァ、とため息を吐き、慌てて話を戻す。
「城に戻ったならばマイリエル姫と相談し編成するとしましょう。あの方ならば間違いのない人選をして下さるでしょうし」
「ふむ、そうしておくれ」
空になった杯にエイゼンが酒を注ぎ、リューナはキュッと喉を鳴らす。吐息を漏らしながら、そう言えばと声を上げた。
「先ほどから話に出ておるマイリエル王女……太陽姫と名高いゼリアリスの姫君のことじゃが、一体どのような人物なのじゃ? この辺境ではあまり彼女の話を聞かなくての。良ければ教えてくれるかの?」
「ほう! 姫様のことですかな!? よろしい、お話致しましょうぞ!」
「むっ」
話題を振って、すぐにしまったと後悔した。このエイゼンの輝く笑顔と、一オクターブ高くなった声。それは、ユクレステのことを話すフォレスと同じなのだ。
「姫様は強く、気高く、そしてなにより優しいお方ですな! わしに対しても礼を失さず、王子の話にも真摯に応える姿はまさに現代に甦ったワルキューレ!」
つまるところ、親バカの顔だ。こうなっては長いだろうと予想したリューナは、助けを求めてミラヤを探す。しかし現在彼女は昼食の準備のために温泉から少し離れた所でバーベキューの支度をしているため救援は期待できない。それを手伝っているロインとナッツ、ついでにユリトエスとマツノも無理だ。
残るは、なんだか項垂れている二人にだらけ切った顔のユクレステとマリン、そして二人に挟まれ幸せそうなミュウがいる。この三人はあまり邪魔をしたくないので、仕方なく諦めることにした。
「リューナ殿は確かに強いですが、姫様ならばもしかしたら――」
「……はあ。飯はまだかや?」
甘い酒に舌鼓を打ちながら、親バカ話をつまみにリューナは喉を鳴らすのだった。
昼食はバーベキューとなった。ナンデーの肉串を手に取りながら、ユクレステは設置された木の椅子に座って食べ始める。この椅子も山に住む魔物が作ったものらしく、手作り感満載だ。一体どんな魔物なのか気になったが、食欲には勝てずに速攻で記憶の彼方へと吹き飛ばした。
「あちちっ。あーん、マスター、タレ零しちゃった。拭いて?」
「自分で拭きなさい」
「だってほら、今両手塞がってるしー。ね?」
確かにマリンの両手は肉串で塞がっており、そのタレが落ちたのか胸元に濃い飴色が伝っている。
「……そこを拭けと?」
「はい、どーぞ。優しくしてね?」
ギュッと腕で挟んで大きな双丘を押し上げ、ユクレステの眼前に突き出してくる。後ろでは若干二名が先ほどのダメージのせいで悶えていた。
また凹まれても面倒なので、ユクレステはさっさとタオルでマリンの胸に付いたタレを拭き取ることにした。
「やんっ。マスターのえっちー」
「はいはい、そんなことより口元にも付いてるぞ? もう少しゆっくり食べなさい」
「ユッキーあんなにあっさりと……くっ、やるな!」
口元を優しく拭い、何事もなかったかのように食事に戻る。途中、ユリトエスの悔しがる声も聞こえたが無視だ。
「……っ、こほん。そうだ、ご主人。それで思い出したんだけどさ」
ピッと人差し指をマリンの胸元に向けて言う。もちろん、それとは星と花びらの紋章のことだ。決して胸だとかおっぱいだとかの話ではない。
「僕ってまだご主人から契約紋を貰ってなかったでしょ?」
「そう言えばそうだっけ? 色々あって忘れてたな」
「うん。だから今くれないかなって」
眠たげな表情の中にも僅かな期待を浮かばせ、ディーラはチラチラと紋章を見る。
マリンの胸、ミュウの右手、ユゥミィの頬。全員に刻まれた、ユクレステの紋章。それを見てディーラは、柄にもなく胸が高鳴っていた。
「ん、分かった。じゃあちょっと待ってな。今杖持ってくるから」
流石に温泉に入るのに邪魔だろうと更衣室にリューナの杖を置いて来ている。ユクレステは残った肉串を急いで口に入れ、立ち上がって更衣室へと向かう。
「なるほどのう、契約魔法か」
ディーラの話を聞いていたのか、リューナがワイングラスを片手に話に入ってきた。
「どれどれ? ふむ、綺麗に出来あがっとるの。ゆーも上手くなったものじゃ」
「そう言えばリューナさんもあるの? マスターの契約紋」
ふと気になったのかマリンが首を傾げながら尋ねる。
「一応、のう」
「む? しかし主の契約魔法は半年くらいしか続かないのではなかったか?」
「そう言えば、そうだったっけ? ユゥミィちゃんよく覚えてたね」
「ふっ、当然だ!」
頬っぺたにまでタレを飛ばしながら大声のユゥミィ。ミュウにタオルを渡され、少し照れたように拭いている。
リューナは少し考え、グラスを置いて自分の鎖骨の辺りに手を近づけた。すると、ぼんやりと光る痣が浮かび上がった。
「ほれ、これが儂の契約紋じゃな」
星と花びら。それは確かにユクレステの契約紋だ。しかし、
「ん? なんかこれ、変じゃない?」
「変、ですか?」
ジッと見ていたマリンが声を上げ、ミュウが首を傾げる。ディーラもそれを注意深く見詰めた。
「ホントだ……なんだろ、これ」
「む? 魔力が暴れているな。かなりの魔力が紋章に注がれているせいか常に熱を持っているのだろう」
紋章の異変を即座に読み取ったユゥミィが眉を顰めて手をかざす。するとまるで拒絶するようにパチリと紋章が光った。
「魔力の注ぎ過ぎ……なお且つ術式構成がバラバラだ。これではまともに効果が見込めないぞ?」
「……ユゥミィ、こう言うのだけは得意だね」
「だけとはなんだ! だけとは!」
ディーラの言葉に憤慨するユゥミィだが、マリンとミュウも顔を見合わせて苦笑しているのには気付いていないようだ。
「えっと、これもマスターが?」
「うむ。あの頃はゆーもまだまだ下手くそでのう。中々上手く契約魔法を唱えられんかったのじゃ。それで無茶をした結果、こうして複雑で解くことも叶わん契約紋が刻まれたという訳じゃな」
「……解けないの?」
「ああ。この儂の力を持ってしてものう。まったく、どれだけ無茶をやったのやら、今では誰も分からん。ただ分かるのは、この魔法は未だゆーの魔力を残し、効果も変わらず続いているということじゃ。俄かには信じられんのじゃがな」
契約魔法は使い捨ての魔法だ。どれだけ高レベルの魔法使いと言えど、半永久的に契約魔法を刻むことは不可能なはずである。しかしこのリューナに着けられた紋章は、契約して既に十年以上が経過していると言うのに未だ発動し続けていた。
一体どんな魔法で構築したのか、リューナはおろかこの魔法を掛けた本人ですら分からずに謎となっている。
「まあ、儂にとっては不自由はないがの。むしろこうしてゆーとの契約が続いているのを見れるのが嬉しい限りじゃ」
もう一度手で紋章を隠すと次の瞬間には消えていた。それと同時に、ユクレステが更衣室から杖を持って現れる。
「お待たせー。それじゃあどこに……ん? どうかした?」
「いーや、なんでもないぞ? ほれ、ゆー。早いとこ刻んでやると良い。お主の仲間である証拠をのう」
「え? あ、うん」
少し変な空気となっていることに首を傾げるが、リューナの無理やりな軌道修正に気を取り直してディーラと向かい合った。
「えーっと、なんか良く分からないんだけど……契約、する?」
「……当然」
チラリとリューナを盗み見て、毅然とした態度で頷く。恐いという訳ではない。ただ、なんとなく胸の中がもやもやするのだ。先ほどのことが、自分とユクレステの絆だと言われたようで、面白くない。
「おっ、なにやってんの?」
「これ、邪魔をするでない。向こうに……いや、マツノ。良く見ておくと良い。これから契約魔法を実践するからの」
「はいっ、リューナさん」
ユリトエスとマツノが興味津津に見ている。
二人からの視線を出来るだけ無視し、ユクレステは言葉を続ける。
「それじゃあ、紋章を描く場所を決めてくれる? ミュウみたいに手の甲でもいいし、ユゥミィみたいに頬でもいい。基本的にある程度の場所さえあれば出来るから」
大きさはこのくらい、とユゥミィの頬っぺたを指差す。自慢げに笑みを作っている彼女を見て、若干ムカついた。だが、それも仕方ないのかもしれない。
「…………」
他人と絆を結ぶ。悪魔であるディーラにとっては未知のことだ。それでも、ユクレステと契約出来たならばそれは嬉しいだろうと予想する。そう、今のユゥミィのように。
だからこそ、刻む場所は大切だ。主であるユクレステと、ディーラの絆を表す場所。とても悩む。
「……じゃあ」
一瞬、チラリと自分の腕を見る。赤い刺青の描かれた腕。それは力を象徴するもので、絆を刻む場所とは程遠い。ならば、
「ここにお願い」
指差したのは右の太もも。普段から露出している足の太ももだ。その外側を指定して、ジッと見上げる。
「ここは僕が一番に前に出る場所。戦う時も、走る時も、飛ぶ時も、一番に動く場所。これから先、どんな時も一番に動けるように、ここにご主人と僕の絆を描いて欲しい」
言い切ったディーラの顔は、確かに笑みを浮かべていた。
ユクレステは彼女の言葉に頷き、ニッ、と笑う。
「ああ、頼りにしてるぞ。おまえは俺の一番槍だからな」
「一番槍、か。……ふふ、なんかいいね、それ」
クスクスと微笑み、椅子に座って足を伸ばす。ユクレステはそれに優しく触れ、リューナの杖を持つ手に力を込めた。魔力の光が杖先から溢れ出し、光が収まった時には星と花びらの紋章がディーラの太ももに描き出されていた。
「これからも、よろしくね。ご主人?」
「ああ、もちろんだよ。ディーラ」
嬉しそうな彼女の表情に、つられるようにして笑みを返すのだった。
「……絆」
二人の姿を収めるように、ミュウの視線が彼らを見守っていた。
ガタンと揺れる音でふと目を覚ました。眠たげな視線を二三度瞬かせ、周囲の様子を覗き見る。
今いるのは馬車の中。膝の上にはユゥミィが頭を乗せて寝息を立てている。他にも数名の人たちがいるが、どれも皆寝入っていた。
温泉に長時間浸かったために眠くなったのだろう。外を見れば夕焼け雲が赤く輝いている。今は帰りの馬車の中だ。現在起きているのは、馬車の御者役であるロインとナッツ、そしてつい今しがた目を覚ましたユクレステに、
「おっ? ユッキーおはー」
「ユリト王子? 起きてたんですか?」
馬車に入るなり真っ先に寝に入ったユリトエスだった。
にこやかな笑みを見せながら、手元のカードを弄っている。
「うん、ちょっと前にね。もうちょっとで着くみたいだよ」
「……そう、みたいですね」
ポリポリと頬を掻き、再度外を見る。遠くに街の姿が見え、彼の言う通りなのだろう。
トントンとカードを揃えて箱に入れ、屈託なく笑ってユリトエスが口を開いた。
「そう言えばユッキー、秘匿大陸に行きたいんだって?」
「ええ、まあ。リューナにでも聞きました?」
「せいかーい。ほら、ユッキーってその筋じゃあ結構有名人だからさ。うちの国でも、噂くらいは聞いてるよ。聖霊言語を解読した学生の話。で、なんだってそんなマイナーなこと調べてるのか気になってねー」
確かに、聖霊言語はかつての聖霊使いくらいしか使用者がいなかったため、廃れていた分野だ。それを読めるくらいにまで解読するのは、並大抵の苦労ではなかっただろう。例え、基礎の部分がある程度出来上がっていたとしても、だ。
「それでちょっと興味出てさ。会ってみたいな―と思って我がまま言ったって訳。ほら、余って趣味が考古学でね? 聖霊言語とかも、結構見る機会あるんだよ」
「はぁ? まさかダーゲシュテンに来たのって……」
「そ、ユクレステ・フォム・ダーゲシュテンって人に会いたいって思ったからさ。驚いた?」
悪戯が成功した時のような笑みを見せるユリトエスに、ユクレステはなにも反応出来なかった。真実をしったらエイゼンさんから大目玉を喰らいそうだ。しばらくは黙っていることにしよう。
「……驚きました、けど。別に面白みなんてないでしょう? 俺はあなたのところのお姫様みたいに完璧超人じゃないし、ただの一般人ですよ。他の人よりも少しばかり魔法は上手いかもしれませんけどね」
「そんな自分を卑下しなくてもいいじゃん。余だって荒事はからっきしだし、マイリみたいのがそう何人もいて堪りますかって。それに、余が知りたかったのは一つだけだし」
「それは……?」
ユクレステの問いに、笑みをさらに深めて頷いた。
「君が、聖霊使いに対して……いや、秘匿大陸に対して本当にどう思ってるのか知りたかったからね」
試すような口調に、吐息が零れる。そんなもの、分かり切っているだろうに。
「結果は?」
「うん、合格」
あっさりと言ってのけ、少しの緊張感もないように笑った。
「まあそうだよねー。何年も前から聖霊言語を学んで、年がら年中聖霊使いになるー、って世迷い事言い続けてるんだもん。生半可な覚悟じゃなきゃ出来ないことだよね?」
「なんかすっごくバカにされた気がするんですが」
「気のせい気のせい。むしろ褒めてるんだよ? この余が、お墨付きのバカだってね」
「バカにしてんじゃねーか!」
そんなことは本人が一番理解しているので放っておいて欲しいというのが本音だ。けれどもユリトエスの瞳には、本当にバカにしたようなものではない。
その視線を訝しみながら、ユクレステは首を傾げた。
「で、結局なにが言いたいんですかねー。王子様は」
「だからユリトっちって呼んでってばー。余が言いたいことはね、一つさ」
スゥ、と息を吸う音が馬車の中で聞こえる。少しの間は、覚悟の時間。
「秘匿大陸への行き方を、余は知ってるよ」
「……えっ?」
ニヤリと笑う彼の表情は、今までにない程の真面目な顔で、
「聖霊使いしか到達できないと言われた、伝承にだけ残る大地。余はね、そこへの行き方を教えることが出来る」
驚くべきことを口にした。
その吸い込まれるような笑みに、ユクレステの思考は全て機能を停止していた。ただ彼の言葉を反芻し、掠れた声で囁くので手いっぱいだ。
「ほん、とうに?」
「信じる信じないはユッキーの勝手だ。でも、君になら出来ると思うんだ。精霊を仲間にした、君の可能性になら。秘匿大陸への道を開くことが、ね」
ガタゴトと揺れる馬車の中で、小さな声がこれからの旅路に向かう彼らの汽笛を鳴らす。
「さて……どうするかな?」
悪魔より悪魔らしい笑みが、ユクレステの前に存在していた。