外伝 光の姫と影の王子
本編も一区切りなのでちょっと番外編を。
鉄のぶつかり合う音が聞こえる。朝もやの中、キィン、と甲高い音が場の空気を充たしていた。何度も何度もぶつかり合い、徐々にその速度が上がっていく。やがて音のぶつかり合いが最高潮に達したかと思うと、急に音が鳴り止んだ。
「…………」
「…………」
徐々に薄れていくもやの中から二人の人影が現れる。一人は初老と言ってもいいほどの男性で、手には細身の剣が握られている。一方、もう一人の人影は、驚いたことに少女のものだった。
動いていた体を急激に止めたために、彼女を称する長く、美しい黄金の髪が空を舞う。彼女の手にも、一振りの剣が握られていた。老人の持つ剣とは違い、やや大きめだ。
両手持ちの剣を片手で振るっていたのだろう。ピタリと止められた体をゆっくりと動かし、息を吐き出した。
「ふぅ……。ありがとうございます、エイゼン。今日も付き合って下さって」
澄んだ水音のように涼しげな声が聞こえ、ニコリと微笑む美しい少女。老人は豪快に笑った後、これまた豪快に言ってのけた。
「なにをおっしゃるか! わしのようなジジイでよければ、喜んでお相手致しますぞ?」
「そう言ってもらえると嬉しいです。こんな朝早くだと、まだ騎士の皆さんも起きて来ないので」
はにかみながらそう言い、手渡された布で汗を拭く。既に夏の盛り真っ只中なため、じっとしているだけでも汗が出るほどだ。それでさらにあれだけの運動をこなせば汗が出るのも当然というもの。見れば先程まで相手をしていたエイゼンからは蒸気が上っていた。
「しかし、また腕を上げられましたな、姫様。そろそろわしでは相手が務まらなくなってきたでしょう?」
「そんなことありませんよ。エイゼンからはまだまだ学ぶことも多いですし、これからも訓練に付き合って下さると嬉しいです」
「ひ、姫様……!」
労りの言葉に感激したのか、涙を流すエイゼンとそれを優しく宥める少女。端から見れば祖父と孫である。
こうして、穏やかな朝の時間を終えるのが彼女、冒険の国ゼリアリスが王女である、マイリエル・サン・ゼリアリスの日常であった。
朝の訓練、という名の準備体操を終えたばかりの二人は一度その場で別れ、自室へと戻っていた。その際に特別に彼女の部屋に備え付けられた浴場へと足を踏み入れ、少し汗ばんだ服を脱ぎ捨てる。汗でしっとりと濡れた体が陽の光に晒され、妖艶な絵姿となって完成した。
湯が張られた広い浴槽に足を入れ、惜しげもなく晒された裸体を湯に沈める。彼女の日課を知る従者が毎日用意をしてくれているので、すぐに身を清められるのだ。そのことを感謝しつつ、ほう、と息を吐く。
浴槽に投げ出された柔らかな肢体と、彼女自慢の長く美しい髪が朝日を浴びてキラキラと輝いている。
幸福な時間を感じながら、身を休めるマイリエルだった。
そんな健康的な彼女の朝とは別に、同じ場所同じ時間てあるにも関わらずまったく正反対な朝を迎える少年が一人。朝日が昇り、カーテン越しの光が差し込みベッドを明るく染めている。ゴチャゴチャと物が散乱したその部屋は、本来広いはずなのに狭く感じてしまう。
部屋の奥に位置するベッドの上でモゾモゾとなにかがうごめいた。布を頭から被り、光を浴びないようにしていたようだが、どうやらそれも最早意味のない行為だったらしい。朝を告げる光は布だけではどうにも出来ないようだ。
ああ、恨めしきは我が太陽!
などと訳の分からない言葉を思い浮かべて、ようやくのそりと体を起こした。
「うーあー……あれ? いつの間にか朝になってる? 昨日なにやってたっけ?」
んー、と考えるような動作をするのは、まだ年若い少年だった。寝起きだからかボサボサの黒髪に、眠たげな瞳も髪同様に黒い。やがてなにかを思い出したのか、ハッと顔を上げる。
「あー、そだ。伯父上にマジ説教食らって晩飯抜きで部屋に閉じ込められたんだっけ? その後暇だからカードゲームの新デッキ作りに徹夜してたんだ。で、いつの間にか力尽きて眠ってたと」
疑問が解決し、納得顔で頷く。そして、
「せっかくだしもうちょっと寝ーよう。腹は減ってるけど睡眠優先、ってことで」
再度、夢の世界へと旅だった。
ゼリアリス国首都、ゼリアリスの中心にそびえるゼリアリス城は太陽城と呼ばれる程に美しいと言われている。朝陽に映えるその姿見たさに遠方からも人が来る程だ。城の周りを囲うように立つ六つの塔が特徴的なその城の中央には食堂があり、現在、マイリエルが食事の真っ最中であった。
「ごちそうさま、今日の料理もとても美味しかったですよ」
正確には、食べ終わっているのだが。
近くにいた従者の一人に微笑みながらそう言って口元を拭う。どこまでも優雅な所作に、この場にいた者達全員がウットリと見惚れていた。
ちょうどその時、食堂の扉が乱暴に開かれた。バン、と大きな音を立て、なにが起こったのかを確認する護衛の兵士。だが、それもすぐに呆れたような顔になる。
「やっべやっべ、朝飯食べ損ねるとこだったよ!」
ヘラヘラとした笑いを浮かべて入ってきたのは一人の少年だった。黒い髪が寝癖であらぬ方向に跳ね、無理矢理後ろで一つに纏めている。荘厳な食堂には似つかわしくないであろう少年は、周りから送られる視線に気づくことなく椅子を引っ張ってそこに座った。
「まだ大丈夫だよね? お腹空いちゃったから適当に持って来てくれる?」
「か、かしこまりました」
一瞬顔を歪めた従者だが、すぐに無表情のそれに戻して部屋を出て行った。恐らく、厨房に食事を取りに行ったのだろう。
しかしそうなると彼には暇な時間が増える。そのため、自然と意識は目の前に座るマイリエルへと向かう。
「おはよー、マイリ。今日も朝から剣の稽古? よくやるねー」
食後のデザートとして出ていたフルーツの盛り合わせからヒョイと摘んで口に放る少年に対して、マイリエルは僅かに顔をしかめる。しかし当の本人は気づいていないようだ。さらにパクパクと食べる姿に苛立った声を上げた。
「ユリト! いえ、ユリトエス・ルナ・ゼリアリス!」
「ひぇいっ!? ど、どうしたのさ、そんなに怒鳴って。あ、そっか、マイリの好きなアップルを食べたのが悪かったのか! 大丈夫、ちゃんとオレンジは残してあるから!」
「そんなことはどうでもいいのです! あ、いえ、アップルを食べたのは許せませんが……今はそうではなく!」
怒った顔のマイリエルに怯えながら、従兄弟であるユリトエスはフルーツを食べるのを止める。
「あなたはもっと王族の振る舞いを知るべきです! 聞いていますよ、貴方が毎日勉強の時間に抜け出していることを!」
「えー、だってつまらないしー」
「大体、昨日の今日でよくそんなにヘラヘラできますね? もう少し反省したらどうなんですか!?」
「反省はちゃんとしてるよ。今度はもっと上手くやるから──」
「ユリト!!」
「ご、ごめんなさい……」
マイリエルの怒声にこれ以上言い返せるはずもなく、シュンと顔を伏せて謝罪する。ユリトエスのその姿勢にようやく怒りが収まったのか、マイリエルは残ったフルーツを口に運んだ。
僅かに重くなった空気が食堂に漂っているため、それを打開しようとユリトエスは勇気を出して声を上げた。
「そ、そうだ! せっかくだしマイリにこれあげるよ!」
はい、とユリトの手から一つの箱が渡される。手のひらより少し大きい箱、中にはなにかのカードが入っている。
「……なんですか、これは?」
「なにって、余の作った新デッキ。あ、マイリ知らない? 今城下で流行ってるカードモンスターオルタナティブ」
「それは知っています。兵にも持っている人はいましたし。なぜこれを私に渡すのか、と聞いているのです」
「勉強ばっかしてたらバカになるよってこと」
ニヤニヤ笑いながら自分の頭を指でつつく。
「ユリト! あなたは……」
「まあまあ。マイリだってこの前勉強サボってコルオネイラやってた剣術大会に出たんでしょ? やっぱり息抜きって必要だと思うよ?」
痛いところを突かれた。今年の春に行われたコルオネイラでの大会が頭を過ぎり、顔を赤くして反論する。
「違います! あれはお父様が勝手に『優勝者には娘をやろう』とか言っていたのでそれを阻止したまでです! 勝手にあのようなこと言われればだれでも止めますよ!」
「その際の手段が『自分が優勝してしまえばいい』、っていうのは実にマイリらしいけどね……」
苦笑しながらブルっ、と身を震わせ、つい先日自分に向けられた剣の冷たさを思い出す。同時に、幼い日々が走馬灯ように駆け巡った。
あれはまだ幼い日、王である叔父からの命令で剣の稽古をしていた時だったか。久方振りに剣を振るうユリトエスに喜び、剣の相手を申し出たマイリエル。彼はとてもとても嫌がったのだが、従姉妹の強引さに負けて仕方なく付き合うことに。
無論、結果など最初から分かっていた。片や幼いながらも騎士と同等の実力を持つマイリエル。片やインドア派で無類の娯楽好きのユリトエス。開始早々記憶が飛んだのは、今となってはいい思い出だ。
「ですから、あれは不可抗力であってお父様が……ユリト、聞いていますか!」
「あ、あははは……」
愚痴っぽくなってきたマイリエルの怒鳴り声に苦笑いを零し、急いで席を立つ。
「ユリトエス様、お食事をお持ちしました……キャッ!?」
「あーありがと! じゃ、またねマイリ! あんまりお転婆だとだれも貰ってくれなくなるから気をつけてね!」
ちょうど扉を開けた従者の手から朝食と思しきサンドウィッチをひったくると、ユリトエスはそのまま扉の外へと消えて行った。
「待ちなさいユリト! というか、なんですか最後の言葉はー!」
追おうとしたマイリエルだが、扉を潜った先には既にユリトエスの姿はなかった。残された彼女は、怒りの表情で怒鳴ることしかできなかった。
嵐のように過ぎ去って行ったユリトエスを見送り、マイリエルは苛立ったまま訓練場へと姿を現した。動きやすいような服装だが可憐さは損なわず、見るもの全てを魅了している。にも関わらず、誰ひとりとして近寄って来ないのは彼女の機嫌が悪いからだろう。
簡単に言ってしまうと、お近づきになりたい、しかし痛い目に会いたくないという訳である。
「やあ、麗しの君。久方振りだね」
そんな時、マイリエルに一人の男性が近づいて来た。煌びやかな服装と、水色のマントを羽織った端正な顔立ちの男性だ。マントには羽根を生やした馬の刺繍が施されている。
男性の正体に気づいたマイリエルは驚きと喜びの感情の混ざった声を上げた。
「レイサス様!?」
「ふふ、今日はどうやらご機嫌斜めみたいだね。いや、それでも君の美しさは変わらないけれど」
「も、もう……あまりからかわないで下さい、レイサス様」
今まで不機嫌そうな表情はすぐに喜色を浮かべ、ほんのりと頬を朱に染めて恥ずかしそうに言う。
レイサス・エア・アーリッシュ。
弱冠二十五でありながら、病死した父の跡を継ぎ賢国アーリッシュの王となった人物である。王としての器も、手腕も見事なもので、それも相まってか賢王と呼ばれている。
ちなみに、マイリエル・サン・ゼリアリスの許婚でもある。
「はは、すまないね。なにせ君に会うのが久し振りで、喜びを隠しておけなかったのだよ」
「そうですね……レイサス様の戴冠式以来、お会いする機会がありませんでしたから。本当ならば数日前にお会い出来たはずなのですけど……」
「ははは、彼の行動は僕ですら読めないからね」
「子供の気紛れを理解できる大人はいませんわ」
「違いない。それにしても一年振り、か。一日千秋の思いだったよ」
喜びを素直に口にし、再開を祝して抱擁を交わそうと手を広げる。しかし、ジットリと汗に濡れた体を預ける訳にはいかず、マイリエルは仕方なくレイサスの両手に手を置いた。
残念そうに表情を変えてから、そういえば、とマイリエルは口を開く。
「国の方は、もう安定しているのですか?」
彼女の質問に若干苦笑し、頭を横に振る。
「いや、まだまだ、かな。私なりに頑張ってはいるのだけど、厄介事が多々あってね」
「厄介事、ですか?」
小首を傾げるマイリエルの視線を受けて苦笑を浮かべ、なんでもないよと首を振る。
「ああ……と、そう言えば今日は悪ガキ君の姿が見えないけど、どうかしたのかな?」
「ユリト、ですか? 城にはいないのですか?」
従兄の話になった瞬間、またも空気が震えた。
手近な場所に会話を逸らしたと思ったら地雷だったようた。コロコロと変わる姫の表情を可愛らしくも思いながら、歴戦の戦士が放つようなオーラに背を震わせる。
鋭い眼光に射竦められながら、レイサスは友人を救うべく思考を巡らせた。
「ええと、そう言えばマイリエル。そろそろ祭の時期だけど……」
「レ・イ・サ・ス・さ・ま?」
「……はい、どうも城から脱走したようです」
しかし彼女の視線には勝てなかったようだ。観念したように両手を上げた。
「昨日の今日で、これですか。ふふふ、ユリト……一度しっかりと話し合わなければならないみたいですねぇ。ユリト?」
地の底から響くような声に背を震わせながら、レイサスは苦笑を浮かべるのだった。
その怒気を孕んだ声が聞こえたのだろうか。ゼリアリス城から数キロ離れた城下の小さな店で、ユリトエスは寒気に見舞われていた。
「っ!?」
「ん? どうしたん? 王子」
「い、いや……なんか今すっごい身の危険を感じたというか……。ねえノリ。余ってばなんか死亡フラグ立てたっけ?」
「立てるまでもなく乱立してるっしょ? なにを今さら……」
それはそうだけど、とぼやくユリトエスに店の主人、ノリエ・タンゲレは呆れ顔で呟いた。
冒険の街ゼリアリス、その裏路地に店を構える怪しい店。近くの魔法店とは違い、正真正銘裏の店である。
「まあそれはどうでもいいとして」
「ちょっ、お得意様の身を案じてよ。キミだって金を落としてくれる客が必要だろ?」
「確かにお金は大事だよね。人間関係ですらこうして金で買えるんだもの。お金最高」
「だろう? ならもっと余を労わってよ。ゼリアリスの至宝……の従兄である余をさ」
「あれ? ゼリアリスのゴミクズって君のことでしょ?」
「うっわ、いつにも増して辛辣過ぎ! 余だって泣くよ!? だって男の子だもの!」
嘘泣きを始めるユリトエスを鬱陶しそうに見ながら、店主である少年はカウンターの上に金貨を放り投げた。
「とりあえず約束の取り分。大金貨一枚ね」
「おっ、結構高く売れたねー。……どこのお貴族様?」
「残念、売れたのはごく普通の一般人。給料半年分を払ったみたいだよ」
「へー、やっぱマニアってのはいるもんだねー」
ニコニコと笑いながら金貨を懐に仕舞う。
それからついでに、と一枚のカードをノリエに渡した。
「こいつもお願いするよ。激レアカード、魍魎たちの呼び声! つい先日発売されたばかりのレアカードだぜ!」
「へぇ、またレアカード当たったんだ。王子って無駄に運いいよね」
彼らの話しているカードとは、今朝もマイリエルと話していたカードモンスターオルタナティブのことだ。ユリトエスは当てたレアカードを定期的にここで売ってもらっているのだ。これが結構バカにならない収益となって彼の財布に還元されていたりする。
実に恐ろしきはマニア魂というやつか。
もちろん、ユリトエスもこのゲームをよくするのだが、あまりレアだなんだとは気にかけない性分らしい。
「本当、勿体ないよね。レアカード入れればもっと楽に勝てるのに」
とは店主の言葉。子供達に混ざって遊んでいた時の言葉だ。それに対し、ユリトエスは言った。
「余は強いカード入れて無双するよりも弱いカードでどこまで食い下がれるかって遊びの方が好きなんだよ。だってその方が面白いじゃん?」
天の邪鬼というか偏屈というか。
それで利益がこちらに来るのであれば、ノリエにとってはどうでもいいのだけれど。
そんなこんなでノリエの店で遊んでいたらいつの間にか夜になっていた。灯りの少ない裏路地を抜け、城への近道である林を突っ切っている。辺りからは虫の音と、獣の唸り声が聞こえる。
それでも臆することなく、鼻歌を歌いながら歩を進めるユリトエス。
「ふんふふ~ん、と。あーあ、これじゃあまたお説教コースだよなー。マイリはあれだよ、お堅いんだもん。未だにレイサス様とキスの一つもできないんじゃああの子の将来が心配です」
そう言えば今日来ていたっけ、と思いだし少し反省。ユリトエスにとってもレイサスは顔なじみ、挨拶の一つでもしておけばよかったと後悔していた。主に、それを怠ったことにより受ける従妹の説教について。
「ゼリアリスの至宝だの太陽姫だの言われてるけど、結局はじゃじゃ馬娘だからなー。レイサス様マジカワイソウ」
なはは、と笑いながら後ろを振り返り、
「キミもそう思うだろ?」
闇の空間にそう告げた。
だれもいない暗い場所。それでもなにかが存在のだと視線はその空間を捉えていた。
ザワリと木々が揺れた。
「…………」
「あれ? キミは……」
現れたのは黒い布で顔を隠した男だった。いや、男女の違いが読み取れるような服装はしていなかったが、ユリトエスには男だと思えた。声を掛けようと声を出し、
「ってうわぁ!?」
同時に倒れるように後ろへ跳んだ。男の手にはギラリと光る短剣が月明かりを反射し、尻もちをついたユリトエスを追うように男はさらに踏み込んだ。
「ちょ、まっ……うわぁあああ!?」
情けなくも男の攻撃を避け、四つん這いになりながらも逃げる。だが木に阻まれ、すぐに動きは止まってしまった。
「え、えーっと……もしかして余ってば、ピンチ?」
「……」
一言も発することなく冷たい瞳がユリトエスを刺す。流石にマズイかと冷や汗を垂らしながら、もしかしたらと淡い希望を声に出した。
「あ、あのー。余って一応この国の王子様な訳で……ほ、ほら! お金が欲しいんだったら身代金目的の誘拐とか推奨しますよ? な、なんだったらここに前金として百万エルあるし」
ほらほらと懐から先ほど受け取った大金貨を取り出し見せびらかす。
「…………」
「あ、無視っすか。そっすか」
だが男は金貨に目もくれず、ユクレステだけを見据えていた。
これはダメだと判断し、はぁ、とため息を吐いた。
「じゃあなんならいいの? ゼリアリス国王宮近衛隊第四中隊所属、ロインツ・ゼルーガー副隊長?」
「っ!?」
既知の友人と語らうような気の無い言葉が男の脳に突き刺さる。驚愕に顔を染め、一歩後ずさった。
「どうして? って顔してますね。別になんてことはないんだけどなー」
胡座を掻き、木を背もたれにしながら見上げるように男を……ロインツを見据える。その表情に恐怖の色はなく、その瞳は全てを見通しているかのようだ。
「前に……って言っても二年くらい前だっけ? マイリに連れられて行った演習で第四中隊さんとは交流済みだったからねー。その時に全員の顔と名前、癖と体格は記憶済みなんだよ。ほら、余ってば頭いいから一度見たことって忘れないんだよねー」
ならちゃんと勉強しろよとは言わないお約束である。彼曰く、興味のないことを覚えるほど暇じゃないのだとか。
ユリトエスの言葉に動揺しながらもロインツは短剣を引き――
「ロインツ・ゼルーガー副隊長の癖その一。打ちこむ時に僅かに剣が下を向いて左足が外寄りに出る」
「くっ!?」
笑いながら癖を指摘され、思わず腕を止めてしまう。それでもユリトエスは口を動かし続ける。
「まあそれはそれとして、ゼルーガー副隊長はこの場所がどういった所か知ってる? いや、知らない訳ないか。じゃなかったらこんなところで余を狙うような真似しないもんね?」
ニッ、と口元が歪んだ。
「この林は夜間になると魔物、それも人喰いの魔物が現れることがある。だからここに出来たてほやほやの死体を置いておけば、朝には骨も残さずぺロリ、さ。うん、超コワイ」
ぶるりと体を震わせ、相手の視線を絡め捕る。
初めてそこでロインツが声を上げた。本人は気付かなかっただろうが、その声は恐怖に震えていた。
「なにが、言いたい……」
「いやー、別に大したことはないんだけどね?」
ユリトエス・ルナ・ゼリアリスは大した力は持っていない。剣術であれ、魔法であれ、一般人以下の技術しかない。また、身体能力も至って平凡、腕力でさえ女の近衛騎士にだって勝てない。
だから、怖がる必要などないのだ。相手は剣も槍も持っていない。ナイフの類は隠し持っているかもしれないが、それでもロインツが圧倒的優位であることに変わりはない。
だと言うのに恐れている。近衛騎士である自分が、副隊長であるこの自分が。
ユリトエスの黒い瞳がロインツを射て、闇夜のような黒い髪がさらと揺れる。
まだ幼いとも言える年頃の少年が口を開く。
「ここで貴方をどうしたとして、余には少しの被害もないんだなー、って思ってさ」
「っ!!」
その言葉を理解するよりも早くロインツは短剣を構え踏み出していた。先ほど一歩後ずさったのが悔まれる。もしあの場所にいれば既に凶刃はユリトエスの首を貫いていただろうに。
そんな考えを中止させるように、キィン、と金属を弾く音が聞こえてきた。ロインツの視界に金色のなにかが映り込み、ユリトエスの顔を隠している。先ほどの大金貨だろう。急ぎ短剣を持っていない方の腕でそれを払い退け、相手を視界に収める。
相手の顔は、笑っていた。
剣を向けられ、今にも殺されそうだと言うのに、笑顔だった。朗らかで、屈託のない、普段と変わらぬ笑顔。
普通ならば恐怖に身を竦めるだろう。体が硬直して動かないだろう。だが彼は違った。
流れるような動作で胸元からなにかを引き出し、そのなにかをピタリとロインツへと向ける。それから凄絶な笑みを浮かべ、
「BAN」
口を動かし、一言。
同時に、彼が言い放った言葉と同じような音が周囲に響き渡った。
力が抜けたように腕から短剣が滑り落ち、同じようにロインツも力なく倒れ伏した。布は剥がれ落ち、なにが起こったのか分からないといった表情がありありと浮かんでいる。だがそれを知ることはもうないだろう。
なぜなら彼は既に息絶えているのだから。
「へぇ、凄いなこれ。護身用に持ちだしたは良いけど全然使う機会なかったからどうなるかと思ったけど、魔法よりも早く展開出来るのは流石、聖具ってとこかな?」
ロインツの額に出来た小さな穴、そこから血が止めどなく流れている。
ユリトエスは自身の手に収まった鈍く銀色に光るものを見つめ、面白そうに笑った。L字に曲がった、鉄で出来た精巧な造形。出っ張りがあり、そこを引くと先ほどのように鉛玉が飛び出て攻撃する。
似たような魔法、バレット系列の魔法よりも殺傷力は高いだろう。それはつい今しがた見た。
「ちょいと聖地からパクって来たんだけど、正解だったかな。周りがこれじゃあ、剣だけじゃ不安だからね」
つま先でツンツンとロインツを蹴り、絶命していることを確認する。
「さて、血の臭いにつられて獣共がやって来る前にとんずらさせて貰いますよ。恨まないでね、ロインツさん。先日婚約したとかフラグ建てなきゃよかったのに」
落ちていた金貨を回収し、ロインツの指から婚約指輪を抜き取る。身元がバレてこちらが困るようなことはないが、もしバレれば近衛という立場上マイリエルに厄介事が被るかもしれない。それはよろしくない。近衛がどうなろうと知ったことではないが、彼女だけは無傷でいてもらわなくては。
「はあ、余ってばマジ優しいんだから。天使って呼んでくれてもいいくらいだよ」
とりあえずやり終えたので帰路に着く。後はゆっくり寝てしまえば今日は終わりだ。明日はなにをして遊ぼうかと今からわくわくして堪らない。
遊ぶからにはギリギリで、今にも死んでしまうような瀬戸際なものがなくてはならない。
そうでなくては、
「つまらないし、ね?」
先ほどのことなど既に頭にないのか、ユリトエスは笑みを浮かべながら暗い林を抜けて行く。空には金色に輝く月が昇っていた。
「ユリト! こんな時間までどこに行っていたんですか!? これからお説教ですからね! 分かっているんですか!?」
「わ、忘れてた……あーもう! 今日は勘弁してよ! 余はお疲れだー!!」
帰ってから今度は鬼ごっこが勃発したようだが、それはまた別のお話。




