彼女の国と彼の国
目元が熱くなる。私は、必死でそれを止めようとする。
だって、あんな人達のせいで泣きたくなんかない。あんな人達に、期待していた事を認めたくない。
「泣け」
なのに、彼の手が、声が、温もりが、私の心の壁を壊してしまう。認めないように、期待していた自分を心の奥底に隠していたのに、彼は簡単に暴いてしまう。
「気が済むまで泣いたら、笑え」
「ふっ…うぇ、ぐすっ。っふ、……」
「傍にいてやるから、泣いて、寝ろ」
「…ずっと、そば、に、いて。いっちゃ、やだ」
「あぁ」
「…ぁ」
泣きながら、彼に訴える。頷いてくれた彼の名前を呼ぼうとして、彼の名前を知らない事に気付く。
思えば、私は彼の事を何も知らない。悪魔で、彼曰く強欲で。でも、優しくて。
それだけ知っていれば良いと思ってた。
彼が傍にいてくれるなら。彼が彼であるなら。それで良いと思ってた。
でも、それだけじゃ嫌だ。
もっと彼を知りたい。
彼が何処の誰なのか。
彼はどうして私に会いに来るのか。
彼がどうして此処を訪れたのか。
彼の名前は何なのか。
「どうした?」
私が口を開いて、結局何も言わずに閉じたのを、訝しく思ったのか、彼が顔を覗き込んでくる。
私は、泣いているけれど、さっきよりは落ち着いた。と言うより、他に気になる事が出来てしまった。
だって、私は彼に名前を呼んでもらうと、心が温かくなるから。だから、彼の名前も呼びたい。
でも、彼の名前を知らないから。
「…ねぇ、名前、は?」
嗚咽交じりに問うと、彼は驚いた顔をした。
「どうした、急に」
「私、名前、知らな、い。貴方の事、呼べ、ない」
「…知ってるか?ティーナ」
途切れ途切れにそう言えば、彼に顎を取られる。
顔が上向き、自然と涙がひく。それでも、目は赤く充血してしまっているだろう。
彼を見れば、彼の瞳の中に濃い赤紫色の瞳の私が映る。
「悪魔にとって、名前は特別だ。真名を知っているのは、本人と両親と伴侶だけ。
つまり、真名を捧げるのは、生涯愛する相手にだけだ」
真名を捧げるのは、生涯愛する人にだけ。それ以外は、本人と両親しか知らない。
では、彼は誰にその真名を捧げるのだろうか。
彼は、何時か誰か私以外の人のものになるのだろうか。
でも、彼は傍にいてくれると言った。それは、私の望む形とは別の形でなのだろうか。
「それにな、俺は悪魔だ。つまり、魔族なんだ。
分かるか?
お前の国と戦ってるのは、俺の国なんだよ、ティーナ」
彼が言い聞かせるように言う。その表情は真剣そのもの。
「…だから?」
彼の言葉に、私は首を傾げる。
この国と、彼の国が戦っている。だから、何だと言うのだろう。
今まで何を考えていたのかを忘れ、彼の言葉の真意が分からずに彼に尋ねる。
「…あのな、一応、敵同士だぞ?」
私の言葉に、彼は眉間に皺を寄せた。難しい顔。怖くはないけれど、皺が跡にならないか心配だ。
「貴方は私を殺すの?」
「それはない」
私が言うと、彼は即答した。それがくすぐったくて、嬉しくて、私は笑う。
「なら、良いじゃない。別に、この国に愛着はないもの」
この国には、何の思い出もない。あるのは、悲しく冷たい思い出だけ。
あるとすれば、彼と出会えた事だろうか。
それでも、この国に執着して彼に会えなくなるなら、この国に未練はこれっぽちもない。彼との思い出なら、此処を出て、それから作ればいい。
彼はずっと傍にいてくれると言った。
「…良いのか?」
「何が?」
彼の手が私の頬に添えられる。その温もりを愛しく思いながら、彼の手に自分の手を重ねる。
「俺の為に、生国を捨てるのか?」
「私は、貴方がいれば良いもの」
「…俺は強欲だから、離さないぞ?」
「離したら許さないわ」
彼の言葉に笑えば、彼に強く引き寄せられた。
突然の事に何の反応も出来ず、私は彼の腕の中に収まる。私が彼の胸にぶつかった衝撃で、微かに鈴が鳴る。
彼は私を抱き締めたまま、何も言わず、私の髪に顔を埋めていた。何も言ってくれなくても、私を抱き締めるその力強い腕が嬉しかった。
彼が私を求めてくれているようで。彼が私を離さないと言ってくれているようで。離さないとは、実際に言ってくれたけれど。
私も想いを返そうと、彼の背中に手を回す。彼の体が驚いたように強張ったけれど、気にせずに私もまた、彼を抱き締める。
暫く、彼の体は強張ったままだったけど、その強張りが解けると同時に彼の腕に更に力が込められた。それでも、苦しい程ではない。
きっと、悪魔である彼が本気で力を込めれば、私の骨は簡単に砕けるだろう。だからか、彼は私に余り触れようとしなかったし、触れたとしても、壊れ物を扱うかのようだった。
本気ではないだろうけど、今は力強く私に触れてくれている。それが、とても嬉しい。
彼の胸に顔を埋め、私は幸せに浸る。
「…明後日、総力戦になる」
「え?」
彼は私を抱き締めていた腕を緩め、お互いの顔が見えるようにして、言った。
「今までは小競り合いだった。だから、俺はお前に会いに来れた。
だが、明後日はそうは行かない。明日も、明後日の準備がある」
彼は私の髪を一房持ち上げ、その指先で弄びながら言う。その視線は、私を見ていない。
「つまり、明日と明後日は来れないの?」
「そうだ。
俺達魔族は個体としては強い。が、数が少ない。
対して、人間は個体は弱いが数が圧倒的に多い」
そういう彼の顔は、苦しそうに歪められていた。
強いが全体数の少ない魔族。弱いが全体数の多い人間。人間より優れた身体能力を誇る魔族か。技術の発展を遂げた人間か。
「負けるつもりはないが、勝てる確証もない」
「…今日が最後かもしれない、って言う事?」
「最後にするつもりはないがな」
私が震える声で言えば、彼は視線を上げて不敵に笑んだ。その笑みは何時もと同じだけれど、私の中に一度生まれてしまった不安は消えない。
もし、彼と会えなくなったら?
そうなったら、私も彼の後を追おう。見ず知らずの王太子のものになるくらいなら、その方が良い。




