「私と恋をしない?」
「私と恋をしない?」
ヒロインのライラが、王太子殿下の腕にそっと手を置いた。殿下は驚いた顔になったが、その手を振りほどかなかった。
この国では昔から、男性が女性の体に触れることは禁忌とされている。触れないことは女性への敬意と愛情の証とされているからだ。
だからこそ、誰もが距離を守る。
ただ、これには、抜け道がある。
女性が男性に触れてはいけないとは、どこにも書かれていないのだ。
彼女はその盲点を知っている。
そして、それを使っている。
昼下がりの学園の、人目につきにくいその場所は、特別に設けられた殿下と彼の婚約者のためのガゼボであり、男爵令嬢のライラが座るどころか、訪れることさえできないはずだった。そんな専用の場で、二人はじっと見つめあっている。
殿下はいつも口元に微笑をたたえてはいるけれど、決して他人に感情を読まれるようなことはしない。それが今、完全に剥がれ落ちて、好奇心で目を輝かせている。
ライラは上体を前のめりにさせて、綺麗な微笑をたたえながら、熱心に話を続けていた。
私は少し離れた生垣越しに、二人の親密そうな様子を眺めていた。
本来は、彼女の席は私が座るものだ。だが、殿下がどんどん彼女に引き込まれていくのが手に取るようにわかる。今ここで、のこのこと姿を現したらどうなるか。そばにいるライラにはわからない程度の、不愉快そうな目をこちらに向けることだろう。私は殿下の些細な表情を読み取れるほど、ずっと見つめてきたのだ。
私が、殿下の婚約者になった時から。
あの頃から、今日のような日が来ることを知っていた。
私は転生者だから。
あの台詞は覚えている。ゲームでも、彼女はあの一言で殿下の興味を引いたはずだ。けれど、あんなふうに触れていたかどうかまでは、思い出せない。
「いざその日が来ると、辛いものは辛いわね。私は悪役令嬢で、彼女がこのゲームのヒロイン。私は殿下に婚約破棄されるって」
自分の言葉に、胸の奥がじわりと痛んだ。
私は殿下の婚約者だけれど、一度も殿下に触れたことはない。
この国に生まれた者として、触れてはいけないと思っていたから。
女性から触れることは咎められないなどということは、転生者だからこそ気づけることだ。生粋のこの国の民なら、異性に触れることは厳禁と思い、その通りにする。
私もそうした。それが侯爵令嬢としての品位を保つことになると思ったからだ。私は常に、殿下の一歩後ろを歩いた。それが奥ゆかしいとされる、この国の常識だった。
私を政治の駒としか見ていない父も、それで満足げにうなずいていた。
ふいに、殿下が楽しそうな笑い声をあげた。ライラは殿下の手を両手で包み込むように握り、自分の頬に寄せて微笑んだ。
私は二人から目が離せなかった。
その場に立ち尽くしたまま、私はただただ、二人を見続けた。
あれからライラと殿下は急接近した。殿下の側近たちは止めなかった。むしろ、微笑ましく見守っているように見えた。
殿下の周囲がそんな態度であれば、必然的にクラスメイトも肯定的な雰囲気になるというものだ。
私を気遣う者はいなかった。今までと同じように、私のことを空気のように扱った。
私はこの学園で唯一、研究室を持っている生徒だ。
前世の私は農大の大学院生だった。その知識を生かして、今は土地改良の肥料などの開発に携わっている。担当教授も私の研究には興味を示し、積極的に携わっていた。
私は今までと同じように控えめに、静かに過ごした。だから、私が殿下とライラに嫉妬をしているとは誰も思わないだろう。
今日の昼の休憩時間も、二人は殿下と私のために用意されたあのガゼボで逢瀬を重ねていた。
殿下はあの日、私がそこに現れないことを咎めなかった。明日から来るように、とも、来ないように、とも言わなかった。
彼は私を探そうともしなかった。自分には後ろめたいことはないと示しているつもりなのかもしれないが、転生者の私からすれば、立派な浮気である。
誰にも相談できなかった。
私は二人から逃げるように、研究室に籠った。
父からは、領地内の荒れ地を開墾して穀倉地帯を作りたいから、岩盤を何とかできる方法はないかと問われていた。それを解決する案を考えようと思ったのと、もっと農作物の収穫をあげるための土地についての研究を進めたいと思った。
教授もそれを強く望んでいた。
「あなたの論文は素晴らしい。ただ、……わかるね?」
私は黙ってうなずいた。論文の発表者は男性でなければ認められない。だから、私に代わって教授が書いたことにするのだ。父もこのことを了承している。
これがこの世界のルールなら、それを守る。侯爵令嬢という地位で、王太子殿下の婚約者の私は、国を乱す言動をしてはならない。
私はますます研究室に入りびたるようになった。
――いろいろな事実を見なかったことにして。
研究に没頭している間に、ライラはゲームの攻略者たちとも仲良くなっていた。彼女が攻略者と親しげに話しているそのわきには、にこやかな微笑をたたえる攻略者の婚約者もいた。
攻略者の肘には、婚約者の手がさりげなく置かれていた。以前の彼らからは考えられないほどの近さだった。
「ライラ様のおかげですわ」
はにかみながら婚約者の令嬢が攻略者を見上げた。攻略者はにっこりと甘い笑みを浮かべた。令嬢は愛しげに、空いていた手で、優しく攻略者の頬を撫でた。
「こうして、わたくしから触れることは咎められないということを教えてくださったんですもの」
攻略者は、頬に添えられた令嬢の手の上に、自分の手を重ねた。二人とも幸せそうに見つめあう。
「よかったわ! お二人ともお幸せに」
ライラは手を叩いて喜んだ。
その攻略者だけでなく、すべての攻略者たちは婚約者と仲良くなっていた。それぞれのカップルに、ライラは祝福を送った。婚約者の令嬢たちは彼女に心から感謝していた。
令嬢は婚約者にエスコートされながら、ライラのもとを去っていった。
私はそれを呆然と眺めていた。
それまで私に背を向けていたライラが、突然振り返った。
彼女と目が合った。
彼女はつかつかと私に近寄った。
「あなた、転生者よね」
強い意志をたたえた金色の目が、私を捉えて離さない。私は息を呑んだ。
「私をいじめるどころか姿を見せない。しかも、頭がずば抜けて良い。設定では常に殿下よりひとつ下の成績順位になるようにしていた人が、トップですもの」
彼女がしゃべっている間、私は彼女から目をそらすことができなかった。
圧倒的なオーラだった。
ピンクブロンドに金の瞳のヒロイン・ライラは、これほどに人を惹きつける存在なのだ、王太子殿下でもすぐに恋に落ちてしまうだろう、と頭の隅でぼんやりと思った。
「で? 転生者だって認めるわよね」
私は小さくうなずいた。
「それでゲームをどこまで知っているの?」
「……王太子ルートだけ、です。それも、うっすらで……」
我ながら消え入りそうな声だった。研究は大好きで得意だけれど、会話は前世から壊滅的に、苦手だった。だから、あの乙女ゲームを研究の息抜きに一人で細々とやっていた。記憶に残っていたのは、王太子ルートをなんとかクリアしたことだけだったが、それもうろ覚えだった。
「あなた、ライトユーザーだったのね」
露骨にため息をついて、腕を組んだ。申し訳なくて、私は俯いた。
「このゲーム、続きがあるのよ。聞く?」
私は勢いよく顔をあげ、うなずいた。
彼女は簡潔に、この後のことを話してくれた。
彼女が王妃となったのち、国を変えていくのだということ。
孤児院の子どもたちを拾い上げ、教育し、国家の力へ変えていく未来。
彼女は目を輝かせながら語った。その姿が、私には眩しかった。
語り終えた後、彼女は凄みのある笑顔を私に向けた。
「だから、私は殿下と結婚する」
強烈な宣戦布告だった。
「あなたには退場してもらうわ」
言葉が見つからなかった。彼女の描いた未来とそのプランは具体的で、聞いていて心が熱くなった。
王太子殿下の婚約者の座を奪うとはっきり言われたのに、私の心に残ったのは彼女の熱い思いに感動している自分だった。
「……あなた、すごいのね」
心からの言葉だった。
「当然でしょ。私はこの国を変えると決めているもの」
ライラはにやりと笑った。
「それで、あなたは?」
問い返されて、私は言葉に詰まった。
……私は、自分の将来を具体的に考えないようにしていた。
国の将来のことなんて、考えたこともなかった。
私が唯一考えたことは、悪役令嬢だけれど、それでもなんとか殿下に愛されたいということだけだった。
……殿下に幸せにしてほしいと思うばかりで、幸せにしたいと思うことがなかった、という事実に愕然とした。
私はうじうじしていただけだった。研究に逃げていただけだった。
私はまた、俯いた。
彼女の方がよほど立派な王太子妃になるに違いない。
「……私にも、彼らのように教えてほしかったですわ」
「え?」
「うらやましかったのです」
私は小さく呟いた。
最初に見たとき、攻略者たちは婚約者と、それほど仲良くはなかった。だからこそ、ゲーム内では攻略できた。それが今、ライラの手で、二人の絆は深まっている。私も、殿下とあんなふうに心を通わせたいと思ったのだ。
「ああ、最初は人目のないところで、女性から男性にさりげなく触れてごらんなさいっていうアドバイスのこと? ……だめよ。敵に塩をやるなんてことするわけないじゃない。……敵じゃないって気づいたのは、ガゼボで私が殿下と会っていても、あなたは一度も乗り込んでこなかったことと、その後もいじめが起きなかったことからだけど」
ライラは指を一本立てた手を、左右に振って見せた。
「私、プレイ中は、悪役令嬢だったけれど家の権力に頼らず思いの強さだけで切り拓こうとしたあなたの姿がかっこいいって見ていたの。……今のあなたはゲームの中の彼女とは違う。その才能を活かす場に身を置くべきよ。でないと、ずっと搾取されるだけ。そんな生き方をしてほしくない」
息が止まった。
彼女は、知っている。私のことを、よく見ているのだ。
彼女は続けた。
「あなたは愛される立場にいようとしていただけに見えたわ。それって甘えじゃない?」
そして、少しだけ声を落とした。
「敬意ってね、距離を取ることじゃないのよ」
その言葉に、胸が詰まった。
「触れないことで守っているつもりの人間ほど、相手を見ていない。……心当たりがあるでしょう?」
胸の奥に、大きな杭を打たれたようだった。
私は小さく頭を横に振った。認めたくなかった。だが、自分の心がこんなに痛んでいる。
痛みをごまかそうと、私は両手を胸に当てた。何か言い返したくて口を開いたが、何も言えなかった。
動揺する私に、彼女はにやりと笑った。
「だから、あなたも恋をしなさい」
仮面舞踏会は、異国の文化だった。
そこでは、男女が手を取り合って踊っている。その中に、殿下と楽しそうに踊るライラの姿があった。
触れることが当たり前の場所だった。
私はライラに誘われて、その舞踏会に出席した。黒髪を隠す赤い髪のかつらを被り、黒いビロードにスパンコールをちりばめた仮面をつけた。
いつも着る首まで覆うドレスではなく、デコルテも背中も露わなクリーム色のドレスを纏った。
会場に立った私の胸が高鳴る。
――触れてもいい。
それだけで世界が変わって見えた。おそるおそる、会場に足を進める。
来場者たちは皆、仮面をつけていたが、笑顔だった。
彼らは心からこの舞踏会を楽しんでいるのが、フロアに立っていても伝わってきた。
「踊っていただけますか」
後ろから声をかけられた。振り返ると、口元に微笑をたたえた男性が立っていた。背の高い、均整のとれた人だった。仮面の奥の青く澄んだ瞳がまっすぐこちらを見ている。
私は目の前に差し出された手を見た。
一瞬、躊躇った。
ライラの言葉が蘇った。
『恋をしなさい』。
私はごくりと唾をのみ、ゆっくりと自分からその手に触れた。
暖かい。
彼に触れた最初の思いだった。人の手が、こんなに暖かいものだということを、私は今世で初めて知った。
前世の私は今と同じく引っ込み思案で友人もほぼいなく、当然ながら恋人もいなかった。
その私が、誰かの手に触れている。指先からじんわり伝わる暖かさに、心まで暖かくなっていくようだった。
見上げる彼の目は、優しく細められていた。
逃げ場がない距離なのに、怖いとは思わなかった。
彼のリードは自然だった。異国の踊りのステップになれない私を優しくリードしてくれた。私のぎこちない動きも、優しく受け止めてくれた。その感覚が心地良かった。
彼との会話は、なぜだか楽しく続いた。
「何の研究を?」
仮面越しの彼の瞳が興味深そうに輝いていた。
「農地改革の……」
会場のざわめきにかき消されそうな声だった。
それでも彼は私の言葉を丁寧に聞き、的確な質問を返した。
気づけば、私は夢中になって話していた。
自分の好きなこと。
ずっと考えてきた、国内の作物の収穫高をあげるためのプラン。
彼はそれをきちんと聞いてくれた。
こんなふうに話したのも、聞いてもらえたのも、初めてだった。
「あなたの話は面白い」
その一言で、息が止まりそうになった。
――初めて、そう言われた。
胸の奥が熱くなった。
ダンスを終え、二人で壁際に移動した。
「あなたのお名前を教えていただけませんか」
その途端、私の意識は現実に引き戻された。
私は俯いた。
「ごめんなさい」
そのまま、彼の顔を見ないでその場を去った。
振り返ることはできなかった。
数日後。
私は殿下から、婚約解消を告げられた。
私の心は驚くほど静かだった。
「承知いたしました」
小さな声だったけれど、震えた声ではなかった。
殿下の幸せも国の将来も考えようとしなかった私は、確かに次期王太子妃にはふさわしくないと、今の私は理解している。
あれから考えて気づいたことがあった。私は殿下に愛されたかった。そして、殿下に愛されることで、自分には価値があるのだと認めてもらいたかった。それを受容したとき、私の心に激痛が走った。ただ、それも一瞬のことで、すぐに心がふっと軽くなった。
「恋が終わったんだわ」
あの時の痛みと解放感を胸に、私は王城の公式な場で、差し出された書類に署名した。
悲しみも悔しさも、もう湧かなかった。その婚約にしがみつく理由がなくなったからだ。
私は触れられない立場から降りたのだ。
卒業式の日。
喜びを分かち合うクラスメイトたちの脇を一人抜け、門の近くへ移動した。
門の前に、一人の男性が立っていた。背が高く、それでいて均整の取れた、見覚えのある背格好だった。花束を抱えた姿はそれだけで絵になった。
彼は私に気づき、笑顔で近づいてきた。
「この日を待っていた」
あの夜と同じ声だった。
だが、私は息が詰まった。目の前にいる彼は、長らく留学されていた、陛下と年の離れた王弟殿下だった。
私は慌てて頭を下げ、礼を取った。
彼の声が、私の頭の上から聞こえた。
「顔をあげて。あなたともう一度、話がしたい」
私がおずおずと頭をあげると、王弟殿下は私に花束を差し出した。
白い薔薇の芳香がふわりと香った。王城の庭にしかない、貴重な薔薇だ。
「……いいんですか」
「きみのために用意したんだ。卒業、おめでとう」
胸が詰まった。あの夜と同じように、彼は私の欲しい言葉を与えてくれる。そのことが、たまらなくうれしかった。両腕に抱えて、花に顔をうずめた。そばでくすりと笑う殿下の気配がした。
「あなたの婚約解消を、あの場で見守っていました」
「え」
あの日の私は王弟殿下の顔さえよく見えていなかったらしい。
「あなたの凛とした姿に心を奪われた。……もっとも、舞踏会より前に、あなたの存在を知ってはいたが」
「どういうことでしょうか?」
王弟殿下は含み笑いをした。
「留学先であなたの指導者の教授の論文を読み、違和感を持ったのがきっかけだ」
王弟殿下は、教授が以前に発表した論文を知っていた。ところが三年前から急に論文の解像度が上がった。机上論を得意としていたはずの彼がなぜここまで実践的なものになったのかを調べた結果、私の存在を知ったのだという。
「しかも、甥っ子の婚約者だった。あの時、悔しいという思いと、国は安泰だという思いが同時に湧いたよ」
どう返したらいいのかわからなかった。
殿下は話を続けた。
「そんな思いを抱えたまま出席したあの夜の舞踏会で、生き生きと話をするきみの目の輝きに心を奪われた」
王弟殿下の頬が微かに紅潮した。
「不謹慎だが、あなたに婚約者がいなくなってすぐ、あなたとの婚約を申し入れたいと、陛下に嘆願した。陛下には了承を得ている。それと、あなたの家にも正式にね。だが、最後に決めるのはあなた自身だ」
頭が真っ白になった。殿下の瞳から目が離せないまま、私は固まってしまった。
「さあ」
馬車の前まで来ると、王弟殿下は微笑を浮かべ、手を差し出した。
この国でも、女性が馬車に乗り込む際、男性が手を貸すことだけは暗黙の了解で許されている。だが、通常は侍女に任せる。
この流れで、王弟殿下の馬車に乗り込むということが何を意味するのか、鈍い私でもわかった。
私は一瞬躊躇した。だが、一瞬だけだ。
――私も、恋をしよう。
私は花束を片手に、もう片方の手を彼の手にそっと重ねた。自然と、口元が緩んだ。
自分で選び、触れたことで、心が高揚した。
「……中で、詳しくお話を伺いたいと思います」
自分の声が、はっきりと聞こえた。
彼の目がわずかに細められた。
「あなたは触れ方を知っている」
その言葉に、胸の奥が静かに熱を帯びた。
もう、誰かに触れられるのを待つだけの私ではない。
私は自分で選ぶ。
何に触れ、誰に触れるのかを。
そして、その先にある未来も。
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