夜の扉
読んでくださりありがとうございます。
今回は、翔琉がエミにもう一度会いに行く夜。
静かな決意と、少しの衝動が交わる瞬間です。
物語がほんの少し動き始めます。
バイトが終わっても、帰る気になれなかった。
油の匂いが染みついた制服のまま、
原付きにまたがって夜の街を走る。
信号で止まるたびに、財布の中の名刺を思い出した。
《BAR orbit》
“Emi”と書かれた文字。
それが、遠くのネオンよりも明るく見えた。
迷ったけど、結局ハンドルをそっちの方向に切った。
駅から少し離れた路地裏。
看板の明かりがぼんやりと灯っている。
ドアを開けると、小さなベルが鳴った。
中は静かだった。
ジャズのレコードが低く流れていて、
グラスが棚で光を反射していた。
カウンターの奥で、見覚えのある横顔。
「いらっしゃい」
エミが微笑んだ。
その声を聞いた瞬間、
昨日のライブハウスの照明が頭の中で再生された。
「来ると思ってた」
「……そんなふうに見えてました?」
「うん。迷ってた顔してたから」
エミはカウンター越しにグラスを拭きながら言った。
制服姿のままの俺を見て、
「仕事帰り?」
「はい。ラーメン屋で」
「いいね、あの匂い。お腹すく」
「こっちはもう染みついて取れないですよ」
「それも仕事の勲章でしょ」
軽く笑うその声が、グラスの音より柔らかかった。
「何飲む?」
「……ウーロン茶で」
「かわいい選択」
エミは笑いながらグラスに氷を入れた。
カラン、と音が鳴る。
それだけで胸の奥が少し温かくなった。
「ここ、よく来るんですか?」
「うん。たまに。静かだから」
「ライブのときと全然違いますね」
「人って、音量を変えながら生きてるんだよ」
「音量、ですか」
「そう。うるさい時も静かな時もあって、
でも“音がある”ってこと自体が、生きてる証拠」
その言葉を聞いたとき、
昨日よりもずっと彼女の声が近くに感じた。
グラスの氷がもう溶けかけていた。
時計を見ると、終電の時間が近い。
「そろそろ帰らないと」
「そうだね」
エミは軽く笑って、
「また、聴きたくなったらおいで」
その言葉は昨日と同じなのに、
胸に落ちる音が違って聞こえた。
店を出ると、夜風が顔に当たった。
街の音がいつもより柔らかい。
遠くで電車のブレーキ音が響いた。
その音が、まるで何かが動き出した合図みたいに聞こえた。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
第七話では、翔琉が自分の意思で“音のある場所”へ向かいました。
エミとの再会が、彼の中に小さな灯りをともします。
次回、翔琉の生活が少しずつ変わり始めます。
“音”と“静けさ”のバランスが、彼を動かしていきます。