湯気とチラシ
読んでくださりありがとうございます。
今回は、翔琉が“静かな日々の中で初めて少し動く夜”を描いています。
何気ないきっかけが、彼の世界に最初の音を落とします。
夜のラーメン屋は、昼よりも少しだけ落ち着いていた。
客の数は多いのに、みんな黙って食べている。
テレビのニュースと、麺をすする音だけが響く。
「翔琉、注文入ったぞ」
川原さんの低い声。
「はい!」
鍋にスープを注ぐ音が、湯気の向こうで跳ねた。
火の匂い、油の匂い、汗の匂い。
それが混ざって夜の空気になっていく。
深夜十一時を過ぎたころ、客足が途切れた。
まかないを食べていると、カウンターの端にいた常連の男が、
会計のついでに一枚の紙を置いていった。
「ライブハウスでやるんだとよ。若いやつらが出るらしい」
「へえ」
興味があるような、ないような声が出た。
「お前、ギター持ってたよな?」
「一応……弾いてないですけど」
男は笑って、手を振って出ていった。
残ったチラシには、
《下北沢 SLOTH LIVE 3/14 OPEN 19:00》
という文字と、
見たことのないバンド名が並んでいた。
赤いインクが指先に少しだけ移った。
「そろそろ閉めるぞ」
川原さんの声で我に返る。
「はい」
チラシをポケットにねじ込み、
床を拭きながら、
その紙の端がカサッと擦れる音を聞いた。
帰り道、原付きのエンジン音がやけに大きく感じた。
風が冷たくて、夜の街が妙に明るい。
ポケットの中のチラシが、何度も太ももに当たる。
“行く理由もないけど、
行かない理由もない気がする。”
信号が青に変わっても、
しばらくその場でアクセルを開けなかった。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
翔琉の静かな生活に、ようやく“音の種”が落ちました。
次回、彼はそのチラシをきっかけにライブハウスへ足を運びます。
初めての“出会い”が、彼の時間を少しずつ動かしていきます。