夜風とまかない
はじめまして。
『静寂が音になるまで』は、音を失った大学生が、
恋や人との出会いを通して少しずつ“自分の音”を取り戻していく物語です。
一話ずつゆっくり進んでいきます。
ラーメン屋の裏口には、湯気と油のにおいが染みついている。
夜になると、厨房の音が止んでも、鍋や皿の金属音だけが耳に残る。
「おつかれー」
同じバイトの佐藤が、レンゲを片手に残りのスープをすすっていた。
「明日も入ってる?」
「入ってる。夜」
「マジか。若いのに頑張るな」
軽い笑い声。
店長の川原さんが「おしゃべりしてないで片付けろ」と言いながら、
寸胴鍋を持ち上げる。
熱い湯気が、天井にぶつかって弾けた。
俺の一日の終わりは、まかないのチャーハンで決まる。
それを食べながら、今日の授業の内容を必死で思い出す。
何を学んだかはすぐにぼやけるのに、
スープの味だけはちゃんと覚えている。
封筒をポケットに押し込む。
中身は二万八千円。
家賃、光熱費、奨学金、携帯代。
引いた残りを頭の中で計算して、ため息が出た。
奢りたい相手もいないのに、金が足りない。
店の外に出ると、夜風が少し冷たかった。
川原さんが煙草を吸いながら、いつものように短く言う。
「気をつけて帰れよ」
「はい」
その短い会話で、一日が閉じる。
原付きのエンジンをかけると、
街の灯りが滲んで見えた。
ハンドルを握る手に、油の匂いが残っている。
信号待ちでスマホが震えた。
母さんからのLINEだ。
《ごはん食べた? 風邪ひかないでね》
既読だけつけて、スタンプを返す。
風の音のほうが、今は落ち着く。
走りながら、ヘルメットの中で考える。
東京に出れば何か変わると思っていた。
でも、変わったのは景色だけで、
俺自身はどこにも行けていない。
信号が青に変わる。
前を走るトラックのテールランプが滲んだ。
ふと、実家の近くを思い出す。
田んぼの向こうに沈む夕日。
原付きの音がやけに響く、あの一本道。
あの頃の俺は、もっと遠くを見てた気がする。
アパートに着くと、隣の部屋の住人がベランダで煙草を吸っていた。
顔は知らない。けど、煙の匂いで“あ、今日もいるな”ってわかる。
ドアを開けると、冷たい蛍光灯の光。
部屋の隅に錆びた弦のギターが立てかけてある。
埃をかぶって、インテリアの一部みたいになっていた。
冷蔵庫には卵一個とウーロン茶のペットボトル。
ベッドに倒れ込んで、天井のシミを眺める。
スマホの画面には、仁からのグループLINE。
《週末、飲み行こうぜ》
《広大、彼女連れてくるらしいぞ》
既読をつけて画面を伏せる。
沈黙だけが部屋を満たしている。
風の音も、スマホの通知もない夜。
何も変わらないまま、一年が過ぎた。
読んでくださりありがとうございます。
第一話は翔琉の“音のない生活”の始まりを描きました。
ここから少しずつ、彼の世界に音が増えていきます。
次回は大学での友人とのやり取りや、
翔琉の内側をもう少し掘り下げていきます。