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歩道橋の二人

作者: あみれん

私が働く会社のオフィスは、広い駅前通りとJR山手線に挟まれた、それほど広くない裏通りに面した古い7階建てビルの5階にある。

そのビルはJRの最寄駅から徒歩15分ほどの位置にあり、ビルの周辺は近代的な駅前の雰囲気とは違って、背の低い古い建物が立ち並ぶ、昔ながらの雰囲気が残っている場所だ。

このオフィスの窓からは、このビルの西側の50メートルほど先にあるJR山手線を走る電車が見下ろせる。

山手線の向こう側には、ずらりと広がる中層のオフィスビル、マンション、住宅の屋根や、全体が白くて大きなスポーツセンターが見渡せる。

スポーツセンターの手前にあるマンションとマンションの間から、そのスポーツセンターの前の道路に架かっている歩道橋が見える。

と言っても、歩道橋の両側の階段部分は手前のマンションに隠れていて、その歩道の一部だけが見えているだけだ。

その歩道橋は30年ほど前に建てられた古い歩道橋で、近く取り壊されるらしい。

以前、この会社の女性社員が話していたのを聞いたことがあるが、10年ほど前に、男に捨てられたある女が、その歩道橋から身投げをしたらしい。

相手の男は、聞くに堪えない罵詈雑言で女を罵り続けた挙句の果てに女を捨てたらしいのだ。

その話をしていた女性社員はこのあたりの住人で、彼女の近所には、その歩道橋には身投げをした女の霊が出る、という噂話があると言っていた。

身投げした女は、よほど自分を激しく罵った相手の男に恨みを残したままこの世を去ってしまったのか、まるで逆恨みのように、その歩道橋を渡る歩行者が男である場合に限って、その女の霊が出るのだと言う。

そのせいかどうかは分からないが、その歩道橋を渡る人をめったに見ることはない。


今は8月で、連日茹だるような暑い日が続いていた。

今日は日曜日で会社の休業日だったが、私はオフィスにいた。

週明けに提出しなければならない新規事業の企画書を仕上げるために、休日出勤をしていたのだ。

普段は30人ほどの社員が働くオフィスだが、今日は私1人しかない。

1週間前に故障したエアコンがまだ修理されていないために窓を開け放してはいたが、時折焼け付くような熱い外気と騒音が容赦なく室内に流れ込んでくる。

息苦しさを覚えるようであったが、この誰もいないオフィスで電話や打ち合わせに邪魔されることなく、集中して仕事をすることができていた。

この新規事業は私が企画したもので、今後の私の人生を左右すると言ってもよいくらい、私にとっては重要なものであった。

やっとのことでその素案が承認され、具体的な企画書の作成まで漕ぎ着けたのだ。

この1か月間、休みも取らずに睡眠時間さえも削ってこの企画書を書き続けてきた。

そのおかげで、その8割はもう書き上がっているのだ。

何が起ころうが、何としても期限である明日の月曜日までに提出しなければならない。


3時間ほど作業をしたあとで小休止をとろうと、開け放たれた窓際に立って外の景色を眺めていた時の事だ。

めったに人が渡ることがないあの古い歩道橋の上に、1組の男女が見えた。

男女は、マンションとマンションの間から見えている歩道の真ん中あたりにいた。

ここからだと2人の顔をはっきりと識別するには少し遠かったが、服装や体形からして恐らくは30代の男女であろうと思われた。

女は長い黒髪を後ろで束ねていて、薄い黄色のワンピースを着ており、白い日傘をさしていた。

男はやせ型で長髪で茶髪、白っぽいネクタイに黒っぽい上下のスーツを着て、サングラスをかけている。

ホストクラブのホストか、駅周辺でたまに見かけるようなチンピラに見えなくもない。

2人は女の白い日傘の陰で、歩道橋の欄干を背もたれのようにして寄りかかり、何かを食べながら話しているようだった。

夏の真っ盛りの、特に今日のような日中は35度以上もある猛暑日で、しかも暑さのピークでもある午後1時に、なぜあんな古い歩道橋の上で話をしているのだろう、と少し不思議に思いながら2人を眺めていた。

2人が食べているのは、どうやらアイスクリームのようだった。

恐らく男が食べているのは棒の付いたアイスキャンディーで、女のはコーンのアイスクリームだ。

女のクリームが溶け落ちてワンピースのスカート部分に付いてしまったらしく、男がハンカチのようなものでそれを落としていた。

女は、男のその仕草を見ながら笑っているようだった。

私は、真昼間からいちゃついている二人を見ているのがバカバカしくなり、席に戻って仕事を再開した。

今日中にこの企画書を書き終えないとならないのだ。


1時間ほどして企画書の最後の章に取り掛かろうとした時、ふと窓の外に目をやると、なんとあの二人はまだ歩道橋にいたのだった。

好き合っている男女にとっては、1時間くらいこの炎天下に晒されることなど何でもないのだろう、などど思って眺めていたが、どうも先ほどとは様子が違っていた。

2人は正面を向き合い、女のほうは体を震わせながら男に向かって何かを叫んでいるようだ。

当然のことながら二人の声は全く聞こえないが、女は男に激しく怒っている様子だった。

男は、両手をスーツのズボンのポケットにいれたまま下を向いてじっとしている。

5分ほどその様子を見ていたが、女は叫ぶのを止めるどころか、地団駄を踏みながら益々興奮していってるようだ。

女が叫ぶたびに、女がさしている白い日傘が大きく揺れていた。

この1時間の間に2人に何があったのかは知る由もないが、私はなんとなく目が離せなくなってしまっていた。

男の身なりからして、男は恐らくは女のヒモのような存在だろう。

どうせ女に金を貢がせて、自分は遊び呆けているロクでもないチンピラのような人間だろう。

女のほうだが…ヒモを囲うような女というと、私はどうしても水商売をしている女をイメージしてしまうが、それは恐らく私が昔よく見ていた刑事物のドラマかなんかの影響なのだと思う。

昔の刑事物のドラマに登場する水商売の女は、囲った男の面倒を見ることによって、かろうじて自尊心を保って生きている女、といった設定が多かった気がする。

しかし、歩道橋の上にいる女は、水商売をしているそんな女のようには見えなかった。

女の服装や髪型、持っている日傘が派手ではなかったので、相手の男とは全く釣り合って見えなかったのだ。

どちらかと言うと、ヒモを囲いながら生きるような世界には全く無縁な、真っ当に働く普通のOLのように見える。

女が怒っている理由は何だ……女の稼いだ金を、男が女に無断でギャンプルに使ったのがバレたのか。

それとも、男があの女以外の女と付き合っていることがバレて、男から別れ話を切り出されたのか…


それにしても、あの女の怒り様は尋常には見えなかった。

女は、白い日傘を畳んで手に持ち、それを何度も歩道や欄干に叩きつけていた。

この暑い最中に、あんな場所で、誰かに見られることも臆せずに、まるで狂ったように自分の怒りを延々と男にぶつけている。

私は、そんな女に対して嫌悪感を感じていた。

いくら耐えがたい怒りに駆られたからといっても、いい年をしたまともな人間なら、人目のつかない場所に行ってやるなど、他にもっとやり様があるはずだ。

あの女は、今の自分の様を見苦しいとは感じていないのだろうか?

あれではどんな寛容な男でも、こんな女とは別れたいと思ってしまうだろう。

男は下を向いたまま、黙ってじっと女の狂ったような怒りを受け止めているようだった。

私だったら、例えいくら私に非があったとしても、あんな状況には耐えられないだろう。

すぐさま、その場を立ち去るだろう。

そして2度とあの女には会うまい。


「なんという愚かな女だ」


ふと、私の口から女を罵る言葉が漏れていた。

腕時計に目をやると、あの2人のいざこざを15分も見ていたことに気が付いた。


「いかん、こんなことをしている場合ではない」


私は頭を掻きながらそう呟き、仕事に戻ることにした。


それから2時間ほどで企画書を一通り書き上げることができた。

後は全体を見直せば終わりだ。

あと1時間ほどで終えることが出来るだろう。

私は背伸びをしながら立ち上がり、窓の外に目をやった。

山手線外回りを走る車両が、真夏の強烈な太陽の光をその車体にギラギラと反射させている。

このオフィスの窓は西側にあるので、午後3時頃になると眩しい日の光がこの窓から射し込んでくる。

私は、ブラインドを下ろそうとして、窓に近づいた。


「えっ?」


私は小さく声を上げた。

あの男女はまだあの歩道橋にいた。

しかも2人の状況はかなり変化していた。

この2時間の間に2人の形勢は逆転していたのだ。

男は女のワンピースの胸倉を片手でつかみ、止めの一撃を加えるかの如く、もう片方の手を大きく上に振り上げ、そして女に向かって何かを叫んでいた。

私には、男が女を激しく罵っている様に見える。

男に胸倉を掴まれて身動きが取れない女の口は、大きく開いていた。

大声で悲鳴を上げているのだろう。


声が全く聞こえないので、まるで物語のクライマックスに向かって突き進んでいく、無声映画のワンシーンを見せられているようだった。

そう思うと、今見ている光景の現実感がなんだか薄れていくようにも感じられた。

私は、男に殴られる女の姿を見たくはなかったが、かと言って、女に同情する気にもなれなかった。

男は、手を振り上げたままの状態で暫く静止していたが、やがて女の胸倉を掴んでいた手を離し、また両手をズボンのポケットに入れた。

すると、女はしゃがみこみ、両手で顔を覆った。

しゃがみこんだ女の頭が小刻みに左右に揺れていた。

泣いているのだろうか。


私は、これであの2人が冷静な状態に戻り、男が女の肩を優しく抱いてあの歩道橋から去っていくという、安っぽいドラマにありそうなシーンが展開することを願っていた。

この熱い最中に、あんな場所に3時間以上もいるなんて異常だった。

熱中症で倒れたとしてもおかしくない。

気になって全く仕事に集中することが出来ないし、あの2人の状況がこれ以上にエキサイティングに展開したら、ただの見物人の私ではなく、何かの目撃者になってしまうかもしれない。

集中すれば、あと1時間で企画書が完成するのだ。

頼むからもう終わりにしてくれ。


女はしばらくしゃがんだまま、両手で顔を覆い泣いていたが、やがてよろよろと立ち上がった。

男は女にゆっくりと近づいて行った。


「よしいいぞ、ここで女の肩を優しく抱いて、さっさと立ち去ってくれ」


私は、男に話しかけるかのように呟いていた。

その時、女の右手のあたりがキラリと光るのが見えた。

女はその光る何かを両手で握り直すようにして、ゆっくりと構えるように両腕を胸のあたりまで持ち上げた。

女の両手に握られた何かは、真夏の強烈な日光を反射して点滅するように光った。


「おい、マジかよ…、刃物か?」


私はそう呟き、思わず生唾を飲み込んだ。

そして次の瞬間、女は小走りで男に近づくと、体を預けるように正面から男に持たれかかった。

女は男に抱きついたような格好のままで、男をずりずりと歩道橋の欄干まで押しやった。

私には、欄干に押し付けられた男の顔と、その男の体を覆うように持たれかかった女の後ろ姿しか見えないため、実際には何が起こったのか判断がつかなかった。


「おい…まさか…刺したのか?」


私の声は震えていた。

男の体は背中を欄干に付けたままゆっくりと崩れ落ちてゆき、胸のあたりを両手で押さえた状態で、歩道橋の歩道に仰向けになって倒れた。

倒れた男の顔は、手前のマンションの陰に隠れてしまっていて見えない。


何ということだ、あの愚かな女のせいでとんでもない場面を目撃してしまった。

私は、本当に事件の目撃者になってしまったのだ。

私は震えながら、警察に通報すべきか考えていた。

しかし、この場面を目撃しているのは、私だけではないかもしれない、いや、私だけではないはずだ。

混乱して考えが全くまとまらない状態のまま、呆然とあの歩道橋を見ていると息苦しくなってきた。

私は視線を天井に向け、ゆっくり、そして大きく息を吸った。

そして、深呼吸を2回ほどして息を整えた後で、恐る恐るあの歩道橋に再び視線を向けた。


「うあぁ!」


私は、まるで子供が何かに驚いた時のような、悲鳴に近い声を上げながら、後ずさりをしてしまった。

歩道橋の上で、あの女がこちらを見上げて立っていたのだ。

まるで私を睨みつけているかのように見えた。


「な、なんなんだよ…」


あの女は私を見ているのだろうか?

私が見えているのだろうか?

私からあの女が見えているのだから、向こうからは見えていないとは言えないが…

しかし、私が見ていた限りでは、あのいざこざの最中に2人が私に気付いたそぶりはしていなかったし、しかも2人は周りを気にするような状況ではなかったはずだ。

そうだ、女には私が見えていないはずだ。

だが、女は私を睨みつけるようにこちらを見上げて立っている。

はっきりと、その鋭い眼差しを私に合わせているように見える。


突然、女はだらりと下に垂らしていた右腕をゆっくりと持ち上げると、その手に握られた恐らく刃物であろう光るモノの先端を、あたかも私を指差すかのように私に向けた。

まるで女の視線と、光るその刃先のようなモノから放たれた導線が、私の目の前でぴったりと1つに重なって私に突き刺さってくるかのようだった。

そして、女は私に向かって何かを叫び始めた。

私は恐ろしくなって反射的に窓から離れ、混乱してしゃがみ込んでしまった。


い、一体なんなんだ、あの女は…あんな場所で人を刺すなんて、あまりにも常軌を逸している。

愚かで哀れな女だと感じてはいたが、それ以上に完全に狂った女だったのだ。

まさか……あの女子社員が話していた、あの歩道橋で自殺した女の霊にでも取り憑かれて豹変してしまったのか…

だとすれば…女に取り憑ついた霊が、あの女を少しだけ罵った私に対しても、逆恨みのような怒りを向けているとでも言うのか…?

ばかな…そんな事があるはずはない。

こんな事を考えるなんて、この焼け付くような熱さのせいで私の頭はどうかしてしまったようだ。

とにかく落ち着かなければならない。

あんな狂った女に、私がこれまで懸命に育ててきたこの新規事業計画を台無しにされてはならないのだ。

それにしても、何という熱さだ、私が興奮しているせいなのだろうか、まるで全身が焼かれているようだ…

そうだ、警察に通報だ、いや…あの女がここに来るかもしれない…その前に逃げたほうが…ど、どうする…



歩道橋の下では、ドラマの撮影隊が撮影機材を撤収し始めていた。

歩道橋の上では、演技を終えた女優が小道具の刃物を持った手で、ある方向を指し示しながら叫んでいた。


「ねぇ!誰かぁ、ちょっと来て!」


その言葉を聞いた女優のマネージャが、女優のいる歩道橋の歩道に素早く駆け上がってきた。

女優の手中にあるその小道具の刃物が指し示す先には、この歩道橋から100メートルほど東にある焼け焦げた古いビルがあった。


「ねぇ、ちょっとあの焼け焦げたビルを見てみて。外壁が崩れ落ちている5階あたりに大きな窓があるでしょう?」

「はい…」

「その窓に何か映ってない?」


マネージャは、女優が指し示したビルの5階あたりにある窓を暫く見つめてから言った。


「いえ、何も…」


「そうね…今は何も見えないみたいね。でもね、撮影中に気付いたのだけど、あの窓に白い人影のようなものがチラチラと映っていたのよ。あんな焼け焦げた古いビルの中に一体誰がいるのかって、気になっちゃって」


「そうなんですか…?

あのビルって1週間前に火災にあったんですよね。ニュースサイトに記事が載っていましたけど。殆ど全焼で、何人かが逃げ遅れて亡くなったそうですよ。ひょっとしたら…現場検証をしている警察があの窓の部屋にいたのかもしれませんね」


「警察…そうかもね…でも、警察のようには見えなかった気がするけど…。何だかボヤッとしていてね、白くて、人影のようで、ゆらゆら…というか、ふわふわと揺れていたの。

あの窓から…まるでこっちの様子を伺っているように…見えたのだけど…」

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