彼
「私にもう話しかけないでくれないか」
そう衝動的に出た言葉はもう取り消すことができなかった。
彼女がどんな顔をしているのかを怖くて見ることができず、情けなくも踵を返してその場を去る。歩きながら、明日の朝にでも謝ればいいと思案する。そうすれば彼女は許してくれるだろう。しかし、そもそも彼女は怒っていないのではないだろうか。彼女はいつも私がひどい言葉を投げかけても困った顔をするだけで、泣いたことも文句を言われたりしたことはない。いや、昔はあったかもしれない、仲のよかったあの頃は。さすがに先ほどの発言は酷かったかもしれないが、人前であんな対応をする彼女も悪い。だから私から謝る必要はない。どうせ政略結婚の相手だ。いずれ結婚をするのだから今いま急いで関係修復をする義理はない。
もはや謝る気もうせてしまった彼は帰途についた。
彼と彼女は両家の共同事業の関係で幼い頃から婚約を結んでいる。彼女の家は侯爵家、彼の家は伯爵家で、2人とも5歳の時だった。幼い頃は仲のよかった2人だったが、彼女の淑女教育が始まるとそうはいかなくなってくる。
そして、決定的な溝ができ始めたのは彼女の身長が伸び始めたから。それに比べて、彼の身長は伸び悩んでいたため差が開いていった。彼が彼女を見上げるようになった時にはとうとう大きくコンプレックスを抱いてしまった。女性の方が成長が早い傾向があるが、彼女の場合は早々と180㎝近くまでになった。反対に彼は160㎝メートルも満たない。今も少しずつ伸びてはいる、が、これから180㎝まで行くかというと、遺伝的にもあり得ないだろう。そのため、身長差が大きくなるほど彼は彼女の近くにいることが恥ずかしくなった。周囲の人間に笑われているような、馬鹿にされているような感じがした。
そして、彼女は人と話す時に膝を曲げて目線を合わせようとした。確かに見下ろされるよりはいいのかもしれない。けれど、彼はそうされるのが耐え難かった。彼女も悪気があってそうしているわけではないことは分かっているが、やはり幼い子供に対する対応をされているように感じ、そうされると彼は羞恥心でいっぱいになった。
今日も彼女が話しかけてきたため振り返ると、彼女は膝をかがめて私と目線を合わせ「あの」と口を開いた。その時、今思えば被害妄想かもしれないが、周囲の学生たちがくすくすと笑っている声が聞こえた気がした。扇で口を隠している女生徒が彼を馬鹿にしているように見えた。
ただでさえ彼女は爵位もうえ、資産もうえ、学力もうえ。そして、身長もうえ。
爵位も資産も身長も努力ではどうにもならない。勉強は努力しているがテストでは勝ったためしがない。彼女は上位5位にいつも入っているが、彼はよくて上位10位にはいるかどうかだ。
すべてがうえの彼女と一緒にいることは、コンプレックスに押しつぶされていた彼にとってもう限界だった。
翌日から彼女を学園で見かけなくなった。彼女の身長は高いため嫌でも目に付いていたのに。彼女が意図的に避けてくれているのかと思ったが、翌々日も、その次の日も、1週間たっても見かけない。
学園のクラスは学力ではなく家の爵位によって分かれている。彼女は侯爵家のためクラスは上位クラス。彼は中位クラスだった。恥を忍んで彼女のクラスに向かう。教室を覗いてもやはり見かけない。意を決して教室の中にいる生徒に伺ってみた。
「アリエス・オールストン令嬢はいますか」と。
「彼女は先週から留学したけれど…?」
帰ってきた答えは青天の霹靂だった。留学なんて彼女から全く聞いていない。家族からもなにも。誰からも教えてもらっていないことに立腹した。しかし、そもそも彼は彼女と最小限の会話すらここ最近、いやしばらくしていない。家族からも彼女の話が出ると聞いているふりをしたり、遮って席を立っていた。最後に彼女について話が出たのはいつだったか。
自邸に帰ると弟のレイドがすでに帰宅していた。
「アリエスの留学についてお前は聞いていたか?」弟に問うとあっけにとられた顔をしていた。
「兄上、本気で言っていますか?」
「…知っていたのか」
「先月の晩餐の時に父上が話していましたよ。もちろん兄上もいる時に」
全く記憶がない。呆然としていると弟がさらに驚くことを言ってきた。
「まさかと思いますけど、兄上婚約解消したことは覚えていますよね…?」
「婚約、解消…?」
「…はぁ。兄上、今父上もご在宅です。一緒に話を聞きに行きましょう。…これほどまでとは」
最後の言葉は彼の耳には入らなかった。
そして父から、2週間前に婚約解消の手続きをしたこと、それと彼女は隣国へ留学したことを告げられた。
「なぜ婚約解消に…」
「お前、本気で言っているのか?」
「…」
「アリエス嬢が本当に不憫でならない。ここまで不肖な息子と婚約させていたなんて。ずっと私はお前にアリエス嬢への態度について注意してきたが、お前は全く聞き入れなかった。オールストン家へは毎回謝罪をしていたし、こちら有責での婚約破棄も申し出た。しかし、オールストン家が、いや、アリエス嬢が『解消』にしてくださったのだぞ。その代わりと言っては何だが、留学の斡旋をさせていただいた。お前の母は隣国の出身で隣国の高位貴族との伝手があるからな」
「共同事業は…?」
「継続してくださっている。新たな婚約を結べたからな」
「新たな婚約?」
「レイドとカリナ・オールストン嬢との婚約だよ」
「レイドが?!レイドはトリスタン子爵家と婚約していたはずじゃ」
「ずいぶん前にお前のせいで破棄されたよ。トリスタン子爵家はオールストン侯爵家の寄子だからな。お前のアリエス嬢への態度が我慢ならないと、ローリング家が信用できないとな」
「…」
「しかしレイドはお前の代わりに毎回私とともにオールストン家に謝罪していた。また、アリエス嬢の妹のカリナ嬢とも同級生だからな、アリエス嬢へもカリナ嬢へも謝罪をしてくれていたぞ。お前のせいでレイドはずいぶん肩身の狭い思いをしている」
「言ってくれれば」「ずっと言っていたではないか!!!聞く耳を持たなかったのはお前だ。そして、そんなお前を育てたのは…私だ。全ては私に責任がある」
「レイドは私のせいでオールストン家と無理やり婚約を…?」
「オールストン家をこれ以上馬鹿にするな!レイドは昔からカリナ嬢を慕っていた。しかし、さすがに兄弟合わせてオールストン家と婚約することはできないとあきらめてもらっていたのだ。それは、カリナ嬢も同じだった。2人の婚約を勧めてくれて、オールストン侯爵を説得してくださったのはアリエス嬢だぞ。レイドはオールストン家へ婿入りすることとなった。もともとこの家を継ぐのはお前だったが…白紙だ。下の弟のカムイと比べて判断する」
「なっ!カムイはまだ5歳です!」
「そうだ。カムイが成人するまで13年ある。本当は今すぐお前の継承を外したいところだが…カムイが成人するまでの間お前の成長を見ることにした。これもアリエス嬢からの温情だ。せいぜい励め」
父の声が遠くなる。見て見ぬふりをしていたつけが今すべて自分に降りかかってきている。
なにがコンプレックスだ。なにが政略結婚だ。なにがいずれ結婚をするのだから今いま急いで関係修復をする義理はないだ。
本当に彼女は彼をおおきくうわまわる女性だった。
爵位も、資産も、学力も、身長も、そして、寛容さも。
アリエス、君は今どうしているのだろうか。