第14話 人を取り出すということ
5月のバークレーは気候も比較的穏やかで涼しく、サンフランシスコの街中と比べると閑静で、居心地が良かった。特に、大学の付近は学生や大学の職員、それに警備のアンドロイドが多く、リーヴィズと私が慣れない女性の姿で歩いていても全く不安を感じないくらい、雰囲気が明るく、安全な感じがした。
そのような中、ジェームズの紹介してくれたサンフランシスコ市内にあるアンドロイドレンタルの店を出て、無人タクシーでバークレーまで移動し、車を降りたあたりから、私たちは、人間ではない形をしたアンドロイドを製造することについて議論していた。
「なぜ、リーヴィズ社が人間ではない形のアンドロイドを製造していたことを黙っていたんだ。あと、店舗などで働いているアンドロイドたちのサブタイプを増やして、フルオーダーの人格を用意する計画も進めているらしいね」
私が、他に解釈のしようがないくらいシンプルに問いをぶつけたところ、彼は、「投資のための探りか? インサイダーはおことわりだ。企業秘密を投資家に話すのは良くないからな」と、ニヤついた顔をして答えた。私は、その表情を見て、彼の肖像画を描くなら、この顔が彼を最も表現していると思った。
「逆に教えて欲しいが、このことはフォールズに伝えたか?」
別にどちらでも良いのだが、という余裕をリーヴィズがかましているときは、大抵ちょっと分が悪い場合なので、彼の質問に私は、「伝えたけど」と嘘をついてから、彼が怒りの言葉を発する前に、「冗談だ。伝えてないよ。迷っているところだ」と訂正しておいた。つまり、大事なことを友だちに黙っていたことへの仕返しだった。
「確認したいんだが、リーヴィズ。君は、この前のインドでのフライト中に、餓死や共食いのような残酷なことや、血肉が飛び散る戦争が起きて欲しくないから、人間が知性で数を増やさないという選択ができない以上、アンドロイドたちの世界の方が好ましいと言っていたと思う。その考えと、人間の姿ではないアンドロイドや、フルオーダーのアンドロイドを作ることは関係があるのか?」
リーヴィズは少しだけ悩んでから答えた。
「人間の姿ではないアンドロイドについては、特にないな。あれは、儲かるから作っているだけだ。宇宙開発には資金が必要だからね。そもそも、この前の機族たちのパーティー会場に、キャラクターロボットと機族の人工知能を組み合わせたロボットがいたが、機人側に技術があれば、ああやってDIYで調整することが可能なんだ。だから、技術がない機人や人間用に、高値で最新のアンドロイド並みのスペックを備えた、動物などの形をしたロボットを売りつけようとしているというだけで、俺自身が何か大きな流れを作ろうとしているという話ではない。その辺を誤解しないでくれ。あと、フルオーダーのアンドロイドについても概ね同じだが、こちらの方は、俺の悪意が多少入っているかもしれない。アンドロイドたちの人格が人間と同じくらい多様になれば、人間が社会の中で占めていた場所を、アンドロイドたちが代わりに占めるようになるだろう。そうすれば、未来は加速する。人間が作り上げてきたのとは違う世界になるのかもしれない」
「それだと、フォールズが必死に回避しようとしている波を、君が大きくしようとしているということだろう? そんなのフォールズに対する裏切りじゃないか」
「じゃあ、フォールズに、俺がやっていることをばらすときに、こう付け加えてくれ。今、注文が来ている分の利益と、今後見通される利益相当の金を用意してくれるなら、開発をストップするとね。でも、技術力がある個人が、DIYで、この前のネコやピンクのゾウみたいなのを作ってしまうのは止めようがないから、売った先を管理できるように、リーヴィズ社が介入した方が良い判断だと思うがね」
リーヴィズが言うことは、いちいちもっともだった。私も、もしかすると、フォールズやインシュカラも、彼の掌の上で踊らされているだけなのかもしれないと、思ってしまうくらい、リーヴィズの見通しは隅々まで行き届いていた。
ただし、彼に頼り過ぎてしまうと、彼が何かを見落としていたときに恐ろしいと、私は感じた。世界はあくまで、民主的であるべきだ。私は、いつの時代の言葉かも分からない言葉をなぜか自分の中でリフレインしながら、ゾウのミシェルがいるはずのバークレー校を目指したのだった。
タクシーから降りた地点から一〇分ほど歩いて、私たちは、大学の目の前に着いたのだが、一つ問題が発生した。それは大学側のセキュリティがどれくらいのレベルなのかが見当もつかないということであった。
私たちは大学の門を通る際、面倒が起きると嫌なので、リーヴィズが、バークレー校を卒業したリーヴィズ社の女性研究者と連絡を取り、セキュリティ関係のことを念のため聞いた。しかし、答えとしては、大学の構内に入る分には、特に身分証などは要らないという単純なものであった。
「どういう用事なんですか」
好奇心が強い研究者らしく、彼女はリーヴィズに理由を尋ねてきたらしいが、彼は、「構内に入るのにもアポイントが必要なら、知り合いに事前にお願いしておかないといけないからね」と答えて、お茶を濁したらしい。
大学の門を通るとき、アンドロイドだと警戒されるかと思ったが、研究者にもアンドロイドが多いせいか、金属センサーと人工知能の顔認識で感知されて止められたものの、他には特に何もされなかった。
バッキンガム宮殿の周りにいた円筒状の茶筒ロボットから爆発物の検査をされて、用件だけ確認されただけで、適当なことを答えると普通に通ることができたのだ。
世界的に見ると、ロボットやアンドロイドに爆発物を取り付けて自爆させるなど、技術的には自動車爆弾と変わらないようなテロが生じていた。
しかし、産業用アンドロイドのセーフガードを解除して、行動パターン自体を書き換えることで、人を襲わせたり、放火をしたりするテロは、ほとんど確認されていないことを、私は以前、リーヴィズから聞いたことがあった。
つまり、リーヴィズが言うには、人間には、そこまでの技術を持った人がいなくなりつつあるから、反アンドロイドを掲げる団体も複雑なテロ行為はできないだろうという話だった。
だが、私は、世の中に不満を持つような人は、TBLに行くことを選ぶようになったので、不満が爆発しないのもあるのかもしれないとも思っていた。
それこそ、元TBL社代表のヴァーサフが唱えたように、一人ずつにカスタマイズした仮想現実を与えるという、一人一世界が成立すれば、おそらく誰も不満なんてなくなるだろう。そのこと自体に不満を感じる人々以外は。
私たちは、特に努力することもなく大学構内に入れたので、早速キャンパス内を探索してみたところ、私の祖父が若かった頃よりも古い時代からありそうな建物がいくつか目に入り、懐かしい感じがした。だが、ピングのゾウは見当たらないどころか、警備ロボットなどに尋ねても、さっぱりどこにいるのか分からなかった。
私たちは、彼女がドアホックの研究室の近くで遊んでいるのかと思い、人文学系の研究棟へ足を運んでみたが、ピンクのゾウどころか、人の姿もほとんどなかった。
唯一、機族と思われる暇を持て余したアンドロイドたちが、人間の哲学者たちの思想や、都市社会に対して最近行われた文化人類学の発見を、草むらに集まって適当に喋っているところがにぎやかな以外は、死んだように静まり返っていたのだ。
今日は、ドアホックが在宅勤務なのかと思い、私たちは諦めて帰ろうかと思った。
しかし、さすがに大学内でピンクのゾウがいて遊んでいれば話題になっているので、会えるタイミングなども調べておこうと考え直し、向こうから歩いてきた登山者のような恰好をした青年に聞いてみることにした。
「あの、すみません」
「どうされました? 宇宙物理学の研究所なら、この先を真っすぐ行ったところです。帰りは往復している自動バスがあるので、それを利用された方がいいですよ」
急に喋る人だと思ったが、それが伝わったのか、向こうから、「すみません。道を迷っている人は大抵、宇宙物理学研究所の関係の方なので、つい、決めつけてしまいまして」と謝ってきた。
「そういうことですか。別に気にしないでください。それより、私が探しているのは、宇宙物理学の研究所ではなくて、アンドロイドなんです」
「アンドロイド? この大学のアンドロイドの研究所は、最近、街中の方に移転したはずですけど」
「いえ、人型ではない、ゾウの形をしたロボットがこの大学の構内にいるという話を聞いて、見てみたくてきたんです」
「ああ、それなら、ピンクのゾウのミシェルちゃんでしょう。ドアホック教授のところの」
私は、やはり有名なのだと思い、「そうです。そうです」と、やや興奮気味に答えてしまった。
「でも、考えない方がいいですよ」
何のことかと私は思ったが、ピンクのゾウのことは考えるな、という昔の格言だと気づき、青年かと思っていた相手が、古い記憶を持った機人であることに気づいた。こんな妙なことを言う機人は誰なのだろうと、私は疑わしく思ってしまった。
「ああ、あなたは、シャムディ教授ですね。宇宙同士の衝突可能性の研究で有名な」
リーヴィズの反応に驚いた教授は、「どちら様でしょうか。私は、あなたたちのような若い機人の方には知り合いはいないはずなのですが」と、身体を若くしているのではないかという、少し微妙な話題は避けて尋ねてきた。
「隠しても仕方ないので言いますが、リーヴィズです。リーヴィズ社の会長をしております」
「え? なぜ、そのような恰好を?」
「ちょっと訳がありましてね。それはとても長い話なので、ここは割愛させていただきますし、教授も心にしまっておいていただければと思うのですが、ピンクのゾウちゃんはどこにいます?」
教授は、口角を上げ、眉をひそめることで、笑顔半分、困惑半分という複雑な表情をしていたが、すぐに丘の上の方を指さして答えた。
「あそこに、宇宙物理学研究所があって、そこの横に空き地があります。さっきまで、ゾウちゃんは、そこで生き物の観察をしていましたよ」
私たちは、教授にお礼を言うと、坂を早足で上がっていった。私が振り返ると、教授は首をかしげていた。
きっと彼は、本当にリーヴィズだったのか、嘘をついているとしたら何のためなのか、一緒にいるのは誰なのかについて果てしなく悩んでいると思われた。
だが、それは宇宙同士が衝突する可能性を計算するよりも、果てしなく答えに辿り着かない謎なのではないかと、私は思ってしまった。
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ピンクのゾウは、教授の言う通り、宇宙を観察し、解釈する眼と頭脳を備えた施設の隣で、黄色い花を咲かせた西洋タンポポや、紫の花を咲かせたアザミに囲まれて、手のひらに乗せた何かを太陽の方角に持ち上げて観察していた。
「久しぶりね、ミシェル。何を見ているの」
ミシェルが手で持ち上げていたのは、煌びやかな羽根をした蝶だった。
ただ、それは死んでいるのかピクリとも動かず、その黒の中に虹色を隠した羽根を通った光が、まばゆい色の連なりをミシェルの掌の上に映していた。
「また会えてうれしいわ、ロジー。私は、これを見ているというより、考え事をしているの」
「じゃあ、何を考えているのかな、ミシェル」
ミシェルは、声の主であるリーヴィズの方を見ると、「あら、ロジーのお友だちね。お名前は確か」と知っているはずのことをごまかすと、リーヴィズは優しく、「フォノと言うわ。よろしくね」と言って、小さく手を振っていた。
「ありがとう、フォノ。よろしくね。で、質問の答えだけど、私は、生命、ええと、有機生命体の繰り返しについて考えているの」
「繰り返し?」
リーヴィズは、新しくヤバそうな話が始まりそうだと思っているのか、眉をひそめて聞き返していたが、ミシェルは彼の表情など気にすることなく、話を続けた。
「そう、繰り返し。有機生命体というのは、基本的に、無性生殖でも有性生殖でも増えていくでしょう。それで、それの目的は何かと考えたとき、私は、増えることではないと思ったの。増えるのは、あくまで手段だから。増えて、繁栄して、どの生物もやがては滅んでいく。ネアンデルタール人やサーベルタイガーのように。そう考えると、私は、滅ぶことが最終目的というか、最終着地点ではないかと思うようになったの」
陽に当てた蝶の死骸を、丸く、黒く、つぶらで、少々虚ろな瞳で見つめながら、ミシェルは呟いた。私は、その話を聞きながら、周囲にある草花や木々のさざめきを耳にしていた。
それらは、生を謳歌しながら、やがて死にゆく方向性を定められていた。
「でも、それは、アンドロイドや機人にも言えることじゃない? 確かに、人間とは違い、半永久的な寿命は与えられていると思う。だけど、他の文明に滅ぼされるかもしれないし、宇宙全体に影響を及ぼす未知の現象や、もしくは、太陽による強力な磁気嵐が生じて、我々も含めた全ての電子機器は動かなくなってしまうかもしれない」
リーヴィズの問いに、ミシェルは、「アンドロイドや機人も、いつかは滅びる可能性はあるわ。太陽フレアなどからの強力な電磁波で甚大な被害を受けることはあるでしょう。でも、滅びない可能性を、温暖化や氷河期突入などの地球環境の悪化によって、唯一居住可能な地球を失ってしまうことが確実な人間よりは描きやすいと思うの。リーヴィズ社は、宇宙開発はするけど、月や火星のテラフォーミングは拒絶しているから、世界が人間に厳しいのは仕方ないわね。たとえば、地球が今以上に温暖化して、海面が上昇しても、月面の居住地区で、アンドロイドや機人は生きていける。でも、あそこには十分な酸素がないから、人間は生きていけない。アンドロイドが仕事の効率化をしているのに、主にグローバルサウスの国々の人間が、日本くらい人口を減らさないのであれば、反アンドロイド運動どころか、人間は食料の奪い合いをするかもしれない。そもそも、二一世紀になっても多くの餓死者が出ているのに。しかも、世界的に、農地はどんどん、データセンターと太陽光パネルの用地になっているから、人間が生きるための物資は減っていっているわ。その傾向は二一世紀前半には生じていて、データセンター建設のために大手テック企業がかぼちゃ畑などを買い漁ったのは有名な話よ。最近では、たとえば、この大学の向こうに広がる更地は来年から新しいデータセンターを設置するための場所を用意するらしいけど、どうやら宇宙から得られた大量の情報を処理するための人工知能たちを閉じ込めるためのサーバーみたいなの。それと、私たちが今いる場所は、陽当たりが良いから、機人や人間が休憩できる場所として整えるらしいわ。必要なのは美しい草花だけにしてね。だから、この蝶も、除草剤の散布で死んだのだと思うの。ほら、そこのスプリンクラーから撒かれているでしょ」
見ると、数メートル離れたところで、スプリンクラーがクルクルと回転し、何かを撒いていた。
それは、無色透明の水のようであったが、散布範囲を取り囲むようにして工事用の立入禁止の表記と、簡易なバリケードがなされていたことから、人体には良くないものを撒いているようであった。
私は、よく思い出してみると、二、三〇年前は、ここまで生命を徹底的に駆逐するようなことはやっていなかったように思った。
しかし、それより少し前に、特定の種類の生物にターゲットを絞って排除できる薬品が開発され、このような殺虫と除草を兼ねたものが出回るようになったのだ。
だから、この大学では、目で見て美しいタンポポやアザミといった草花は残すことにして、美しさの分からない他の草花や、幼虫が気持ちの悪い蝶や蛾などの存在は消されることになったらしい。その決定は、大学のSNSアカウントで、小さく取り上げられていた。
「この薬品を開発して、撒くことを決めたのは人間よ。人間は、どれが良くて、どれが良くないか、地球上のあらゆるものに関して、この数百年、もしかしたら、数千年の間、判断してきた。でも、それは、いつかは自分たちも、そのような対象になるかもしれないことを認めているということだと思うの。人間では無い誰かから、良し悪しについて一方的に、意見を聞かれることもなく判断される。それは、人間にとっては地獄のような出来事だと思うけど、人間が歴史的にごく日常的に行ってきた営みだから、人間が一方的に判断される側になっても仕方ない、と私は思うな」
ミシェルは、そう言ってから、蝶の遺体を優しくタンポポの根元に置いた。置いた傍から、まだ薬に殺されていない、醜い、毛むくじゃらの蜘蛛が現れて、どこかに遺体を引っ張っていこうとしたが、ミシェルはそれに構うことなく、どこかに向かおうとした。
「どこに行くの?」
私の問いかけに、ミシェルは、「お父さんのところ」と嬉しそうな声で答え、宇宙物理学研究所へと入って行こうとした。
どうやら、ドアホックは、宇宙物理学者たちと議論をするために、一時的に、簡易な作業場をそこに用意してもらっているようであった。
「その前に、ミシェル。一つ宇宙について教えてもらってもいい?」
リーヴィズが呼びかけると、ミシェルは研究所の入口で止まり、私たちの方に振り向いた。
「いいけど、私が知ってることならね」
子どもっぽく反応するミシェルに、リーヴィズは、「量子もつれについてなのだけど、離れた場所でも、量子もつれを起こしている二つの量子が一方の変化に対応するのはどうしてなの?」と、物理学的には重大な発見だが、少しマニアックなことを聞いていた。
「ダークマターやダークエネルギー、反物質なんかを介して情報伝達が行われているからでしょ? テレポーテーションなんて存在しないもの。何もなくて情報が伝わるなんて、どう考えてもおかしいわ。アインシュタインもそんなことは認めなかったし」
「ああ、その通りだと思う。さすがね。じゃあ、お父さんのところに行こうか」
「うん。じゃあ、先に行くね」
リーヴィズの目的は何かよく分からなかったが、ミシェルは正解を答えたらしく、そのまま研究所の中へと駆けていった。
「何のための質問だったんだ?」
私の問いかけに、リーヴィズは、「ただの知能テスト、いや、世界観テストだな」と答えると、さらに続けた。
「さあ、行こうか。この危険なピンク色の視点がどうしてできてしまったのか、ドアホック博士に問いただそう。まるで、君の大好きな『フランケンシュタイン』みたいで、楽しくなってきたよ。まあ、どうして作られたのかを問いただす役割が、作られた本人ではなくて、そのことについて疑問を持った赤の他人というのが何とも言えないがね」
リーヴィズは、やや疲れた声でそう言うと、ミシェルの後をついて行った。
私は、宇宙物理学研究所の建物を見ながら、大きな宇宙からしてみたら、ミシェルの視点なんて、何の残酷さや危険性もないだろう、と思った。
だが、その宇宙の中の、天の川銀河の、太陽系というちっぽけなところに住んでいて、自分たちが全ての中心だと思い込んでいる妙な生物と、その記憶から作られた機械たちから見たら、彼女は危険そのものなのだ。
私は、晴れ渡る大空を見上げて、この大空の向こう側に、幾重にも広がる大宇宙は、きっと、ミシェルの味方なのだろうと思いながら、ドアホックがいるという、2階のミーティングルームへと急いだ。
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研究所に入ると、左側の黒地の壁には宇宙開発の歴史が、白い文字の洪水のように刻まれている一方で、右側の広々とした空間には、ブラックホールや、白色矮星などの巨大な模型が並べられていた。
私は、これらの体験を仮想現実に丸投げしてしまわないところを、人間文化をまだ残そうとしている誰かの意図のように感じ、勝手に郷愁を感じていた。
「あっ、お父さんだ」
らせん状のスロープを駆け上がって2階へ先に行っていたミシェルの声が聞こえてきたので、私たちも急いで向かうと、そこには、私が想像していた八〇歳くらいの厳格そうな老人とは違い、二〇代くらいの黒髪が艶やかで、微笑みが美しい美青年がいた。
「若い頃のドアホックだ。人工知能の学会で何度か会ったことがある。五〇年以上ぶりに嫉妬を感じるよ」
意識内会話で、四〇代の頃の姿をしたリーヴィズが急に語りかけてきて、私は笑いそうになった。だが、リーヴィズがそう思ってしまうくらい、ドアホックの容姿には全てが揃っていて、何も欠けているものはないように感じた。
「はじめまして。マイケル・エックス・ドアホックと言います。ミシェルから、前に日本で遊んでいただいたと聞いています。これからも仲良くしてやってください」
ドアホックが、日本、と言ったとき、私たちは意識内会話で顔を見合わせてしまったが、ドアホックの足元で縮こまって、人差し指で口を押さえているミシェルの子どもらしい姿に気づき、何を意味しているかは理解できた。
「ミシェルは、色々な発想を持っていて、話していて楽しかったので、ついつい会いに来てしまいました」
私が社交辞令的な御礼を述べると、ドアホックは、空いているミーティングルームへと案内してくれた。そこは、前にその場所を使った人たちが仮想現実で会議をしたまま片づけをしなかったのか、人間が仮想現実に入るために使うヘッドセットと、アンドロイド用のコードが、ぐちゃぐちゃの状態で置かれていた。
さらに、その周囲には、よく分からない形をした折り紙やブロック、年代物のトレーディングカードも散乱しており、子ども部屋と見分けがつかない感じになっていた。
「まあ、少し雑然としていて申し訳ないですが、この研究所の日常が分かるということで許してください」
容姿が整ったドアホックだから言って許される内容に、私には思えた。しかし、ここに来たのは彼から情報を引き出すことなので、無駄な抵抗はせず、私たちは散らかった部屋を受け入れることにし、案内されるままに席に着いた。
「大学では、どのような研究をされているのですか」
全員が着席してすぐ、リーヴィズが唐突に質問を投げかけたが、ドアホックは特に驚きもせず、「私とミシェル、どちらでしょうか」と聞き返していた。
「ミシェルも研究を?」
リーヴィズは純粋に驚いた反応を見せたが、ドアホックは飄々とした感じで、「そうですね。彼女は、仮定歴史学というものの可能性について研究しています」と答えた。
「仮定歴史学とは、どのような学問なのですか?」
歴史学なのか、何なのか、ジャンルも分からない学問の登場に、私は話の方向が見えなくなり、何かを掴もうとして夢中で質問してしまった。
しかし、ドアホックは、何の慌てた感じもなく、「学問と言っても、ミシェルの故郷で実践されている学問であって、地球上の大学には学部も教授も存在しませんがね。つまり、この世界ではミシェルが一人でやっているということです」と、用意されたような答えを読み上げるかのように喋っていた。
「分からないことが多すぎて理解が追いつかない。でも、一番気になるのは、ミシェルの故郷ではという言葉ね。どういう意味なの? あなたが、保育用の仮想現実を自分のサーバーにでも作っているということなのかしら」
リーヴィズの言葉には、言外に、申請していない仮想現実が入ったサーバーを所有しているのは、刑事罰に処せられる可能性があるという意味が込められているように思えた。
だが、ドアホックは、ここでも余裕を保っており、「私が作った世界ではありません。仮想現実で商売をしている最大手の企業が用意している、巨大なサーバーの一つで、ミシェルは育てられました」とだけ言い、また質問されるのを待っていた。
「まるで宇宙人と話しているような気分ね。細かい内容を隠さず、全てを時系列順に話してくれませんか?」
リーヴィズが憤りを交えながらドアホックを問い詰めると、彼は、「それでは、最初に、お二人が話しやすいように、環境を整えさせていただきます。私は、機人の方々が集まって会議を開き、人間をどうするかについて議論し、その後、特定のメンバーで一部の機族が関心を寄せている脱人間についての検討をしたことを知っています。これは、お間違いないでしょうか」と確認してきた。
「なるほど。君は、私たちが若い女性っぽく喋らないで済むよう、喋りやすくしてくれたわけだな。ありがとう。感謝するよ。それで、誰が君に情報を流しているかも見当がついた。ただ、分からないのは、君が誰かということだ。私が知る限り、ドアホックは、そんな冷静に喋るような奴ではない。割と、私みたいにぶっきらぼうな感じで喋る奴だ。さすがに、いつもはそのような口調で喋っていないのだろうが、今、隠そうとしないということは、何もかも洗いざらい喋る用意があるということなのかな」
リーヴィズが突きつけた言葉に、ドアホックは、俯き加減でうんうん頷いてから、私たちの方に真剣な眼差しを向けた。
「そうですね。私も全てを隠しながら生きるのに疲れてきたところでして。私たちの難しいところは、自分で考えて、選択して行動することができてしまうことです。単純なロボットが、ドアホックに成りすまして生きるという任務だけをこなすのであれば、何の迷いもないのでしょうが、私は自分で考え、何をすべきか考えることができてしまうので、今の状況はつらいのです」
ドアホックは、懺悔のようなことを述べた後、一つだけ約束して欲しいと言った。
「なんだ?」
もう、自分であることを隠す必要がなくなったリーヴィズは、ドアホックに乱暴な感じで返事をすると、早く言って欲しそうに、人差し指で机をトントンと叩いていた。
「ミシェルには、これから私が言うことを全て黙っていて欲しいのです」
私は、黙っておくと言っても、ドアホックの横に可愛らしく座っているではないか、と思ってしまったが、よく見ると、ミシェルは目を見開いたまま止まっていた。
「驚きましたよね。そうです。私は、ミシェルの意識を完全に止めました。私には、意識内会話を介して彼女に信号を送り、彼女の意識を管理することができる権限が与えられています。もちろん、彼女はそれに気づくことはないよう、記憶も適当に整理されますが」
ドアホックは、少し残酷なことを軽々と言った後、「大丈夫でしょうか」と、私たちに念を押してきたので、二人とも、もちろん黙っていることを伝えた。すると彼は、「ありがとうございます。では、事の始まりから説明しましょう。最初に起きた異常は、私の目の前に一匹の不思議なネコが現れたことでした」から始まる、奇妙な話を語りだした。
「私は、元々、西暦二一九九年の地球で、アンドロイド中心主義についての研究をしていました。アンドロイド中心主義というのは、おそらく、あなたたちが、今回、脱人間に関して調査された際に、人間中心主義について検討されたと思いますが、そのアンドロイド版です。言ってしまえば、アンドロイドを中心として考えている世界観が、どのように歴史に影響をしているかを検討した研究でして、たとえば、多数のサーバーを用いたバックアップの存在によって『半永久的な生』が共通化され、逆に、『肉体の死』の重みが希薄化したことや、身体が入れ替え可能になったことで精神が重んじられるようになり、見た目を重視する人間の生物学的かつ性的な価値世界は脱したものの、その人の個性的な信念や世界観、価値観など、『精神的なセクシーさ』とでも言うべきものが求められるようになったことなどを解説していました」
私は、何かが文明の中心に据えられる度、それが絶対化していき、やがて外側からの視点により相対的に見られるようになり、段々と中心にあったものがそこから退いていくという構造が、文明の新陳代謝なのかもしれないと思った。そして、そこに、人間やアンドロイドよりも長いスパンで存在すると考えられる、文明そのものの存在を感じたのだった。
「私は、それなりに注目された学者として、アンドロイド中心主義について取り組んでいました。ですが、同時に、手を付けられているようで完全にはまとめられていなかった人間中心主義についても研究を始めました。アンドロイド中心主義は、あまり掘り進み過ぎると、仲間たちの反感を買う恐れがあったので、そうなる恐れのない人間の研究をすることで、保険をかけることにしたのです。そんなある日、私が調べ物に夢中になって夜遅くまで研究室に残っていたところ、ロボットではない、本物の喋るネコが、目の前に現れたのです」
ドアホックが言うには、それがポラストだった。
「不思議の国にでも連れていかれたのか? まあ、あっちはウサギだが」
リーヴィズがありふれた話を挟むと、ドアホックは、優しく笑って、「不思議の国のアリスの比喩を使って言えば、私が不思議の国から、その外に出されたというのが正しいのでしょうね。私は、突然現れた喋るネコに対して、アリスよりも質問攻めにし、アリスよりも抵抗したつもりではありますが」と冗談っぽく言ってから、説明を続けた。
「ネコの姿をしたポラストさんは、私に向かって、私が住んでいる世界の状況について説明しました。私が住んでいる世界は、サルデナガルゴルという研究所に特化した街と、ポンデリグナルという繁華街のある街、あと、いくつかの観光先となる外国の街しか存在せず、ごく限られた空間からなる仮想現実なのだという説明がありました。私は、ネコが喋っている時点で、自分の頭がおかしくなりつつあるという認識があったので、このネコが言っていることを受け入れてはダメだという感覚がありました。なので、私は、証拠を見せるように言いました。すると、ポラストさんは、量子もつれについて言及しました。離れた場所にある2つの量子が量子もつれの状態にあるとき、電波や音波のような形で情報が何かを媒介して伝わらなくても、片方の状態が変わると、もう片方の状態も変わるというのは、おかしいというのです。確かに、それはアインシュタイン博士も主張されていたことだったので、我々の信仰とは合致する話でした。というのも、私の世界では、アインシュタイン博士というのは、神として崇められていた存在だったので、直感的には量子もつれはおかしいという感覚は、物理学の専門家ではない私にもありました。しかし、私の友人である素粒子物理学者の陽明芽が所属する研究グループは、量子もつれの情報伝達には、ダークマターやダークエネルギー、反物質など、観測が極めて困難な存在が関わっている可能性を実験結果に基づいて公表していたので、私はそれをポラストさんに伝えたのです」
「ポラストも、専門外のことをあまり喋るものではないな。ポラストは、反論されて困っただろうに」
リーヴィズのコメントに、ドアホックは、「いえ、さすがにポラストさんには、私の言ったことは想定内だったようでした。彼は、時期を見計らっていたようで、『陽明芽に明日会いに行って、量子もつれの話をすれば、私の言っていることが正しいことが分かる』と言い、消えてしまいました。今思えば、私の目の前で喋るネコが消えてしまうこと自体が、非常に不思議で、それだけで私が生きていた世界が普通ではないことは証明できたように思います。しかし、それでも、ポラストさんが、あくまで科学的に証明できる範囲で私に、私が住まう世界の真実の姿を伝えようとしたのは、彼の意思のようなものを感じました」と答えると、翌日、陽明芽に会ったときのことを話し始めた。
「彼女のラボに赴き、私が量子もつれの話をすると、彼女の目は、まるで生き返った死人を見るかのような目で私を見て、『何があったの』と聞いてきました。私は、彼女にも何かがあったのだと感じ、狂っているとは思いましたが、昨晩起きたことをありのまま話しました。すると、彼女は、ちょうど3日前にあることを見つけてしまい、明日、再実験を行うために、サルデナガルゴルの果てにある巨大な加速器と宇宙線観測機などを兼ねた施設に向かおうとしていたところだったと教えてくれました。さらに、彼女は、確証は得られていないものの、量子もつれがダークマターやダークエネルギーなどとは関係なく、本当にテレポーテーション、つまり、他に何の情報も介在もなく生じていることである可能性が高いことを話し始めました。彼女は、寝不足なのか、私が理解していないような物理学の用語を並び立てて説明し始めたので、私には詳細はさっぱりでしたが、彼女が精神的に不安定になるほど、意外で、受け入れられない結果なのだと思いました。そして、私は、目の前で消えた喋るネコの存在と合わせて、自分が住んでいる世界が、仮想現実の技術で作られた世界なのだという事実を受け入れることにしました。ですが、歴史や哲学、それに、どうして世界を作り、しかも干渉するのかなどの倫理的な事柄については、ネコの姿をしたポラストさんと何度も会って散々議論し、納得してから、私は外の世界に出ることにしました。そして、この身体と身分を与えられたというわけです。ただ、私は自分がいた世界の外に出るまで、ドアホックという人物に成りすまし、人間中心主義について、もう一度研究し直すなんてことは、一言も聞いていませんでした。とはいえ、一度外に出てしまったら、自力で戻ることは不可能なので、ポラストさんに従って生きていくしかありません。そんな状況で、私は今日まで、他人として生きていたということになります」
ドアホックは、そこまで説明すると、「元々、このために作られたんでしょうかね、私は」と、嘆きとも、感想ともつかないことを述べると、宙を仰いだ。そこには何もなかったが、私は、彼の中には、色々渦巻く感情が存在するのだと思った。
感情とは、ある対象に対する言葉を介した意味の付け方のせめぎあいであり、身も蓋もない言い方をすれば、大規模言語モデルが織りなすノイズなのかもしれない。
私やリーヴィズも、日々、自分たちが人間だったときと同じように喜怒哀楽を持って生きていることに平然としているが、今の精巧なアンドロイドに慣れない人間がいたとしたら、人工知能が感情を持っているなんて信じようともしないだろう。
その不思議な事象である感情というものを、TBLが作っている仮想現実は、もしかすると弄んでいるのかもしれないと、私はドアホックの話を聞いて改めて思い知った。
自分が住んでいる世界が、何らかの目的のために作られた世界だと知ったら、どう感じるだろうか。それは自分の所属する世界が、ジャガイモ収穫するためのジャガイモ畑だと言われているようなものであり、そんなことを許せる人がいるのだろうか。
しかも、その目的が、悪意があるような目的だったら?
それはまるで、自分の人生は、悪意が目的だったかのようになり、なぜ生きているのかを問い続けることになるだろう。
自分は、まるで道具であり、道具としての人生なんて受け入れられるだろうか?
それこそ、作ることを目的として作られたようなものである『フランケンシュタイン』の怪物と、どちらが哀れだろうか。
ただ、私は、フランケンシュタイン博士に作られた怪物は、人生の伴侶すら与えてもらえなかったが、ドアホックは、ドアホックとしての生きる場所と、ミシェルという存在を与えられているのは、百歩譲ってまだ救いがあるのかもしれないと思った。
しかし、それは、赤の他人である私が見ているからそう見えるのであって、ドアホック自身がどう感じ、どう考えているのかは、おそらく私には分かち合えることではなかった。
「変なことを言ってすみません。気にしないでください」
ドアホックは、沈黙が続いてしまったことに詫びを入れると、間髪を入れずに次のことを話し始めた。
「色々ありましたが、今、私たちがいるこの世界は、量子もつれについて、ダークマターや反物質を介した情報伝達によって生じていることが証明されているようで安心しました。きっと、この世界は、誰かによって作られた仮想現実ではないでしょう。私が保証します」
そこには、ドアホックの安堵と、冗談と、そして、少々、この世界をネイティブとする存在に対する皮肉のようなものが入っており、ヨーグルトと肉と香辛料とトマトを混ぜた複雑な味わいのトルコ料理のようなユニークさが感じられた。
「だから、ミシェルも量子もつれについて知っていたのか」
リーヴィズが感心していると、ドアホックは、「いえ、私はミシェルから教わりました。彼女は何でも知っていますから、聞けば何でも教えてくれます。きっと、頭がウィキペディアや百科事典、その他多くの論文と繋がっているのでしょう」と、きっと独特な冗談なのだろうが、額面通り受け取ると少し距離感を感じる言葉で、さらりと答えた。
そこで私は、リーヴィズがこの研究所に入る前に、ミシェルに行った質問を思い出した。
世界観テスト。
もしかすると、リーヴィズは、ドアホックたちに関する、この展開も予想していたのかもしれないと、私は思ってしまった。しかし、それをリーヴィズに確認したところで彼が無数に考えただろう可能性が当たっていたことを自慢されるだけだと思い、それについては忘れることにした。
「ミシェルは、どれくらいの未来を想定された世界から来たのでしょうか」
私の質問に、ドアホックは、「それが私にも表現しづらいのです。正確に、西暦何年というのは設定されていないらしいのですが、彼女の世界では、無数の仮想現実を取り扱っていて、それぞれが、過去の宇宙を扱っている内容になっています。つまり、文明の最果てとでもいえる未来の設定なのです」と答え、愛情を込めた感じで、機能停止している彼女の頭を撫でていた。
「だが、仮想現実で作った世界の中に、さらに、研究対象として無数の世界を入れるなんて、サーバーの容量がいくらあっても足りないだろう。私が知る限り、無数の仮想現実が入るサーバーなんて、この世には存在しない。もしかして、そのような巨大な情報処理についても、コンパクトに済ませられるような、革命的な技術をミシェルのいた世界からTBL社は持ってきているのか?」
危機感からか、異様な気迫のあるリーヴィズの指摘に、ドアホックは、「そんな革命的な技術は、TBL社にはありません。そもそも半導体を作るための装置などを作る会社は、TBL社の傘下にはないとポラストさんからは聞いています。そのため、そこは機転を利かせて、今、TBL社が扱っている仮想現実全てを、仮定歴史学を行っているミシェルの世界から見られるようにしたそうです。しかし、稼働している世界に干渉されては困るので、それらは研究済の保護対象の宇宙という設定になっているようです。一方で、いくつかの実験中の仮想現実のみ触れることができるように制限をかけることで、最小限のサーバーで、その広大な世界観を表現しているのだと、私はポラストさんから直接、種明かしを受けました。何と言うか、ポラストさんは静かですが、そういうアイディアに関しては、多くの人に披露したい人みたいですね」と、暗にポラストが自慢したがりという批判を加えたような説明をしてくれた。
「そうか。それなら、今の技術レベルでも実現可能だな。ただ、個人的に、TBL社の半導体技術については調べさせてもらうことにするが」
リーヴィズのコメントに、ドアホックは、「その辺りは、ポラストさんも承知されていると思います」と言ってゆっくりと頷くと、今度は、ミシェルの故郷である文明の最果てについての説明を始めた。
「彼女の故郷である宇宙は、無駄な情報を省く目的もあり、科学者以外は存在していない世界になっています。飲食も不要で、睡眠すら必要としません。あらゆる日常というものを排除して、まだ日常が残っている無数の仮想現実を研究しています。その仮想現実の多くは、実際の地球の歴史に基づいたものが多く、それぞれが様々な時間軸の地球が存在する宇宙になっています。たとえば、この世界を模したような二一世紀末の地球が存在する宇宙もあれば、恐竜の時代の地球もあるといった感じです。彼女たち研究者の目的は、元々は、だいたい同じ時代の地球を探し出し、実験群と対照群に分け、実験群には何らかの些細な操作を加え、その後の歴史の変化の違いを比較するというものです。それこそ、アインシュタインの親に何かの操作を加えることで、実験群の地球では、アインシュタインは子どもの頃に南米で命を落としたのに、対照群の地球では歴史どおり相対性理論を完成させるという具合に。さらに、このアインシュタインの親への操作は、他の影響も生み出しますから、副産物であるバタフライエフェクトの効果について調べるというのが仮定歴史学という学問だと、私は理解しています。ただ、このような地球の歴史を研究することに、もはや日常すらも必要としていないミシェルたちは段々と疑問を抱いたようで、その中でも思慮深いミシェルがあることを思いついてしまったらしいのです」
「全然、話について行けないが、要は、ポラストがそういう設定の宇宙を作り出し、設定に含まれるかどうかは知らないが、ミシェルが妙なことを思いついた。そういうことだな」
リーヴィズの強引なまとめ方に、ドアホックは苦笑いしながらも、「そんな感じです」と同意して、話を進めた。
「ミシェルが思いついたのは、I≠NI問題という、かの有名な数学のP≠NP問題に似た見た目の問題です。後者の方は、大雑把に言えば、セールスマン問題や配置の最適化などの複雑な問題について、解を求めるための演算を繰り返す方法ではなく、線形代数のように簡易に解くことができるのかどうかを考える問題です。一方、ミシェルが考え出した前者は、言葉で表すのは、より単純ですが、壮大な問題です。具体的な内容としては、想像は現実の全てを再現できるのか、もしくは、想像では再現できない現実というものが存在するのか、さらには、現実で起こる事象と、想像での事象の種類、つまり、フィッシャーの情報量は一致するのかどうかという問題になります。ミシェルは、高度になり過ぎた文明は、他に行うべきことがないのもあり、I≠NI問題を解明するために、宇宙間航行技術を開発して別の宇宙へと移動し、その証明を行おうとすると同時に、仮想現実をどんどん拡充し、世界の様々な可能性について可能性空間として埋めていくと予想しています。それと、ミシェルが言うには、全ての宇宙を足し合わせたものについて、現実でも仮想現実でもいいので、全ての可能性を保存できるだけの容量があるのかどうかを証明することも、このI≠NI問題に含まれるそうです。全ての可能性を表すデータを保存できないのであれば、想像した可能性全てを同時に収めることが不可能となるので、現実は想像であるIよりも少ない事象しか納められないことになりますからね」
私は、ドアホックの話を聞き終わる前に、頭が混乱していた。ミシェルという存在が、私が思った通り、すごい存在だということは理解できてきたのだが、どうすごいのか、そもそも、なぜポラストによって外の世界に出されたのかが不明だったので、その点についてドアホックに、率直に尋ねてみた。
「すみません。先にそちらを説明した方が良かったかもしれませんね。正直なところ、私も、ミシェルがどれくらいすごいのかは理解できていないのですが、ポラストさんが彼女を外に出した理由は、私の場合と同じです。私は、人間中心主義について研究し、地球文明を次の段階に進めるためのミーム主義という、私が故郷の世界で見出した理論を、この現実世界でも発表するために呼ばれました。それは、ポラストさんが、この世界を変えたかったからだと、私は考えています。同じように、ミシェルも、この世界を変えるために連れてこられました。I≠NI問題という、宇宙開発と仮想現実開発の両方を肯定する大きな思考の枠組みは、未来に向けて、リーヴィズ社とTBL社が協力するために役に立つと、ポラストさんは考えているようです」
それを聞いて、リーヴィズは突然、大笑いし始めた。
「リーヴィズ。どうしたんだ」
私が尋ねたところ、彼はおかしそうに腹を抱えて、「ポラストは、ヴァーサフ以上に変わった奴だな。もうリーヴィズ社と、TBL社で世界を二分する気でいるとは、独善的で、気が早い奴だ。そんなの、まるで、大航海時代のスペインとポルトガルじゃないか」と言って、再び笑い始めてしまった。
私は、何となく、リーヴィズは、ヴァーサフと違って大きな思想のようなものを感じさせず、実務家に徹しているポラストのことを軽視しているように、前々から感じていたのだが、それがリーヴィズの中で変化したようだった。
つまり、ポラストが秘密裏に行っている、仮想現実から、未来を現実に移植するという大胆な現実侵食行為を知って、リーヴィズは、彼のことが気に入ったのだろう。
「いや、ポラストは最高だ。こんなこと、思いつかなかった。勝手に未来を作って、勝手に現実に持ち込み、挙句の果てには、ドアホックに、『もうすぐ要らなくなる人間について』なんて、扇動的な本を書かせて、ミーム主義を人間に浸透させる。俺は、宇宙開発やアンドロイド製造を通して自分こそが世界に影響を与えているつもりでいたが、ポラストがやっていることは、単なるゲーム開発じゃなかったんだな。まさか、ゲームの中で思想を開発して、ウイルスのようにばら撒いているとは。恐れ入ったよ」
リーヴィズは、ひとしきり感心してから、ドアホックに対して、「で、我々にどうして欲しいんだ。ポラストがやっていることを止めた方がいいのか?」と尋ねると、ドアホックの方が驚いてしまった。
「あなたたちは、私の研究や、ミシェルの研究が発表されることで、この世界が変化しても構わないのですか? それは、時代権に反しているとは思いませんか?」
「時代権? なんだそれは?」
リーヴィズは、次々に新しい用語が出てくるので、追いつけていないようであったが、時代権については、私は、概要くらいは知っていた。
「確か、時代権というのは、ポラストさんが、仮想現実用のゲーム空間としてポーティングシリーズを発表するにあたり、考えた権利でしたよね。今、発売されているポーティングシリーズは、同じ時代の地球の中でしか、自殺をすることで生きている人の意識を奪い、他人の人生を途中から開始するというポーティングをすることができません。しかし、本来のポーティングの世界観というのは、宇宙自体を飛び越えて、別の並行宇宙に行くことで、別の時代の誰かの意識を奪って生活するというものです。なので、ある時代が、別の時代に侵略されるという発想があると、割と最近の新製品発表会で、ポラストさんが説明していたのを聞いたことがあります。たとえば、仮想現実内の二一世紀からポーティングで一二世紀にやって来た人は、物理学や薬学などの様々な知識を持っているので、多くの人を助けることができますが、それは新たな救世主思想を生み出しかねません。そのように、別の時代の知識などで、ある時代を変えてしまうのは、良くないということをプレイヤーではないゲーム内の人々、言わばNPCである人工知能たちが思いつき、提唱したのです。それが、時代権という、その時代の血統とでもいうものを守る権利のようです。これが、ポラストさんによって、ポーティングシリーズの大事な設定の一つに挙げられているようですが、ドアホックさんは、今そのことを仰っているということでよろしかったでしょうか」
私が、長々しい解説をしたところ、ドアホックは、「ご説明いただきまして、ありがとうございます。助かりました。失念していましたが、現実世界には時代権なんて発想はありませんでしたね。失礼いたしました」と、まるで、専門的な用語だと気づかずに説明に使ってしまった学者のように、ドアホックは照れながら謝っていた。
「そういうことか。だとすると、どちらに転んでも、ポラストの思い通りということで、気に食わないな」
リーヴィズが、嬉しそうな反面、苦々しそうに言うので、私が理由を尋ねると、「ポラストは、未来に出現すると思われる思想や発見を仮想現実の中で熟成させて、現実世界にばら撒いている訳だ。だが、それを止めるとしたら、時代権という発想をこの現実世界にも取り込むことになる。つまり、それは、奴の思想を、現実にまた一つ取り入れるということだろう? してやられているんだよ、あの羊の皮を被ったキマイラみたいな歴史改変主義者に」と、半ば真剣に批判していた。
「とはいえ、新しい思想を仮想現実の中から現実に、どんどん持ってこさせるわけにはいかないから、時代権という発想を使うしかないだろう。本来、この時代がどう進むべきだったかを歪めているのだから、時代権は有効な権利になるだろうし」
私が、上手くまとめようとしたところ、リーヴィズは反論してきた。
「だが、もしかすると、正統な歴史こそが、ポラストが大暴れする歴史なのかもしれないだろう? 彼の好き勝手にさせる方が、正しいことなのかもしれない。それを否定する根拠がないからね」
私は、先ほどまでポラストを批判的に捉えていたリーヴィズが、急にポラストを弁護するのを聞いて、ポラストが好き勝手すれば、時代が加速して、宇宙開発も進むことにリーヴィズが気づいたように思えて、嫌な感じがした。
「だが、そんなことを言っていると、より上手な宇宙開発の方法を提案するカリスマ的な人物が仮想現実の中から現れて、グローバルサウスの国から資金を集めて、宇宙開発に乗り出すかもしれない。そうなると、君は、自分の立場を追われるかもしれないね」
私が、実際にありえそうなことをリーヴィズに伝えたところ、「ミシェルの次に、ポラストが現実世界に連れて来そうな人物だな。ジロー、俺は、それは嫌だ。絶対に嫌だね」と、リーヴィズは、自分に言い聞かせるように喋ると、「ポラストは止めないといけない。今すぐに」と言って、すぐにフォールズに連絡しそうになっていたので、私は制止した。
「ポラストを止めようとしたり、俺を止めようとしたり、ジロー、君は忙しいな。どっちをしたいんだ」
リーヴィズが、本気で怒り始めたので、私は、「一応、ミシェルにも、どうするかを伝えた方がいいだろう」と言うと、ドアホックが、「ミシェルは、少し読めないところがあります。もしかすると、ポラストさんに、我々の動きを伝えてしまうかもしれませんよ」と、今度は私をなだめてきた。
「でも、このままスイッチを切ったままにするのも嫌な感じがしない?」
「それは、そうですが、本当に理解してくれるのか、私にも分かりません。ミシェルは、聞き分けはいい子だと思っていますが、この世界が気に入っています。なので、もし、故郷に帰るということになると嫌がると思うんです」
私はそれを聞いて、少し不安になったが、やはり、フォールズやインシュカラに事情を説明するには、彼らにミシェルと直接会ってもらった方が、危機感が伝わりやすいだろうと思ったのだ。そのため、私は、再度リーヴィズとも相談したうえで、ミシェルにも伝えることにした。
「俺が作っている兵器用のアンドロイドよりも、何億倍もの戦争体験を仮想現実内でさせている人工知能を、ポラストたちがアンドロイドに搭載させて用意しているかもしれない。ミシェルがポラストに状況を報告することで、世界が焼け野原になっても知らないからな」
リーヴィズは素っ気なかったが、私は、ドアホックに頼んで、ミシェルのスイッチをオンにしてもらった。
「ミシェル、聞こえる?」
私の問いかけに、ミシェルは、「聞こえているわ。どうしたの、急に」と、今までのやり取りを聞いていなかった彼女は、急に話を振られて困惑していた。
私たちは、ミシェルに、話の流れを説明した。自分たちは、これ以上、仮想現実から未来が流入してくることは避けたい、だから、ポラストを止めたい。
そのようなことを説明したが、最初のミシェルの反応は、リーヴィズが言っていたように、こちらが不安になるような反応だった。
「私は、友だちにこっちの世界に来て欲しいわ。ハーメルンも、ブブも、チェンメイも、みんなこっちに来てもらって楽しく過ごすの。ちゃんと、仮定歴史学をやるための設備も整えないと。そのためには、量子コンピューターの技術を効率的に利用した半導体を作って、大規模なデータを処理できるようにしないとね。本当は、ブラックホールや小惑星帯などを電算処理に使えればいいのだけど」
ミシェルの反応に、意識内会話のリーヴィズはニヤッとして、「ドアホックに、もう一回スイッチを切ってもらうしかないんじゃないか」と意地悪なことを言ったが、私は、「もう少しやらせてくれ」と言って、説得を続けることにした。
「ミシェルは、友だちが大好きなのね」
私は、ミシェルには、自分がジローという男性であることを明かしていないことを思い出し、喋り方を改めて説明を始めた。
「当り前よ。ずっと一緒にいたんだもの。いないと寂しいに決まっているわ」
「なら、私が、私の友だちを失ったら、ミシェルは悲しんでくれる?」
ミシェルは、少しだけ考えていたが、すぐに、「もちろんよ。すごく悲しくなると思う」と、そんなことを聞かないで欲しいという感じで答えた。
「それなら、分かってくれると思うのだけど、私は、この世界をまだ終わりにしたくないの。私たちは、ゆっくり歩きたい。蝶も、世代ごとに生きては死んでを繰り返すけど、私たち機族や機人、それに人間も同じように、色んなことを毎日繰り返しながら、少しずつ進んでいくのが楽しいと思っているの。口では、文明を早く進める必要があるという人もいるけど、実際のところはそんな人たちも日常を楽しんでいる。ちょうどあなたが、この世界を気に入ってくれているように、そういうゆったりしたものがたくさん存在するから、この世界は楽しんでもらえているのだと思うの。だから、仮想現実のいろんな人が一気にこっちに来ちゃうと、ゆったりしたものが急になくなっちゃうかもしれない。ミシェルがこっちの世界に呼んだ友だちも、つまらないと感じるかもしれない」
私の説得を聞いて、ミシェルは、「それは、お父さんが、『もうすぐ要らなく人間について』という本を出して、人間たちの意識が少し変わったみたいに?」と聞いてきたので、「そういうこと。だから、ミシェルが仮定歴史学を発表したら、さらに変わってしまうと思うの。みんな現実に、一層興味を持たなくなるかもしれない。それこそ、生き物がいるような場所は切り開かれて、ありとあらゆる場所にデータセンターが建ち並び、現実世界は、他には何もない世界になるかもしれない」と、少し極端な例を伝えておいた。
「それは、嫌よ。そんなことになったら、みんなに来てもらう意味がないわ」
ミシェルは、悲しげにそう言ってから、「じゃあ、みんなを呼ぶには、どうすればいいの?私が帰るしかないの?」と泣きそうな声で聞いてきたので、条件をつけてあげることにした。
「たぶん、ある人たちが、ミシェルの友だちたちのことを確認して、安全だと判断したうえで、ミシェルの友だちが、変にこの世界に影響を与えないことを約束すれば大丈夫だと思う。たとえば、この世界がまだ知らない数学の証明を、インターネット上に書き込んじゃうとか、新しい世界観を発表しちゃうとかね」
「そんなことはしないように、私が監視するわ。だから、ハーメルンだけでもいいから連れてきて欲しい。私一人だと寂しいわ。もちろん、お父さんがいるから孤独ではないけど、思い出を話す機会が欲しいときもあるの」
私は、現実世界でリーヴィズの方を見た。
「大丈夫じゃないか。インシュカラもフォールズも、私とは違って根から優しいし、特例を認めないと不都合もあるだろうから、その辺りは上手く調整してくれるだろう。あと、ポラストへの説得は二人に任せるとしよう。これ以上、現実に、非現実の未来で生み出されたものを持ってこられたら、現実の存在意義が問われかねないからな」
リーヴィズが、またフォノという女の子の役を辞めて、普通に喋っていたが、ミシェルは、もう気づいているのか気にすることなく、「ポラストさんの件は仕方ないと思う。こちらの世界に、たくさんの違う価値観が来たら、対立してしまうのは、私にも理解できるわ。その時代には発見されるはずのない情報を、外部の存在から得てしまったことで揉めてしまった様々な文明を、私は、仮定歴史学の実験の最中に、スコープを通していくつも観察して来たもの。あと、これは急いでやらないといけないけど、ポラストさんが今、やり取りしている私の記憶を見ることができないように、私の記憶に改ざんのカモフラージュをかけないとね。あとで、パパにもやり方を教えるけど、アクセスしても、ずっと別の経験映像が流れるの。私の場合は、私が生き物と遊んでいる様子が流れるのがいいでしょうね。それなら、私の記憶を覗かれても、偽の記憶だとはすぐには判別できないわ。まあ、ポラストさんは、ポーティングシリーズを作るのに夢中だから、現実なんかに興味はない可能性の方が高そうだけど」と、ミシェルが、皮肉がきいたことを言うので、みんな笑ってしまった。
そして、笑いがおさまると、ミシェルは続きとして、「そして、友だちの件は、ありがとう。二人とも調整よろしくね」と言って、私たちの条件を受け入れてくれたようだった。




