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さようなら、愛してしまった人(後)

 結局静子は、祐平に付き添ってもらって仕事場までの道を歩いていた。

「ごめんなさい……わざわざ送ってもらって……」

「構わないよ。ちょうど会食が終わった所だったから」

「そう……なのね……」

(『会っていたのは女性ですか?』なんて、聞けないわよね……)

 もう、会社の入り口が見える。

(まだ……一緒にいたい……)

「あっあの……」

「何だい?」

 声をかけたは良いが、話す内容を全く考えておらず静子は目を泳がせる。

 ふと、先ほど『とんしち』で客が飲んでいたビールを思い出した。

「ビっ『ビール』って、どんな味がするの……?」

「……は?」

 祐平は拍子抜けした声を出す。

「あのっ飲んだ事なくて……さっき『とんしち』さんで飲んでみようと思ったんだけど、頼みそびれてしまって……」

「今、飲んでみたいと?」 

「……はい……」

 祐平は困ったようにため息をつく。

「酒屋はまだ開いてるから、一般的なビールだったらすぐに手に入るけど……」

 きっと『口に合わない』と思われているのだろう。

「構わないわ!飲んでみたい!」

 意気込む静子を、祐平は不安そうに見る。

 そして観念したように再びため息をつくと、腕時計に目を移した。

「迎えは何時に来る?」

「10時に……」

「10時か。今9時10分だから、大丈夫か。……ちょっと酒屋に行って買ってくるから、静子は仕事場で待っていてくれる?」

「え……酒屋さんに行くの……?」

「そうだよ?」

「私も、行ってみたい……!」

 ワイナリーなら見た事あるが、日本酒や焼酎、国内外のワインを取り揃えている『酒屋』を静子は見た事がない。

「面白いものなんて、何もないけど……」

 祐平は怪訝な目をしているが、静子は目を輝かせている。

 10分ほど歩いて、2人は酒屋へと入っていった。

「わぁ……!」

 店に入った静子は、店内をきらきらとした目で見回した。

 店内を歩き回り、海外産ワインを上から下まで眺める。

(ワインが、この値段で……!)

 国内産ワインのコーナーへ移り、一回り小さなワインを見て静子は「可愛い……」と呟く。

(こんな小さなワインも売ってるのね……!)

「飲みたいもの、あった?」

 静子が振り返ると祐平が愛想無く立っていた。

 付き合っていた頃、祐平はいつも穏やかな笑顔を浮かべて物腰柔らかな紳士だった。

「あ……この小さいワインを……」

 静子はたじろぎなが、国内産の小さい白ワインを指差す。

 祐平は黙って一本取り「ビールはどれにする?」と尋ねる。

「どれかわからないから、祐平さんのおすすめで……」

「わかった」

 祐平は冷蔵コーナーから瓶ビールを一本取り出し、レジへ持っていく。

 会計を済ませて、気まずい空気のまま無言で仕事場まで戻った。

 仕事しているように見せる為、部屋の電気はつけっぱなしだ。

 来客用のテーブルに酒の入った袋を置くと、祐平は息を吐いて背広を脱ぎ、ネクタイを緩めた。

 ベストを着ているせいか、肩幅があるはずなのに随分と細身に見える。

「コップはある?」

「ええ……少し待ってて……」

 静子は給湯室からコップを2つ持ってくると、テーブルの上に置く。

 祐平はコップにビールを注ぐと、疲れてソファーに座った静子の前に一つ差し出した。

「どうぞ。口に合わなかったら、残して良いからね」

「分かったわ……ありがとう……」

 静子は、ビールを恐る恐る口に運ぶ。

 ──苦い。

 静子は思わず顔をしかめる。

 口に含んだビールを何とか飲み込み、コップをテーブルに置いた。

 テーブルの上には、いつの間にかチーズやサラミが出されていた。

「苦いだろう?口直しのおつまみ、どうぞ」

「あ……ありがとう……」

 静子は一口サイズの丸いチーズを手に取り、口に運ぶ。

「まだ飲む?」

「いえ……もう十分だわ……ごめんなさい……」

 静子は、口元を片手で押さえる。

 自分から『飲みたい』と言っておきながら、ほとんど残す事を申し訳なく思うが、どうもこれ以上飲めそうにない。

 祐平はポケットに手を突っ込んで立ったまま、無愛想に煙草をふかしている。

 煙草を指に挟んで口元から離したら、その手にビールを持って一口飲む。

 静子は、ここまで無愛想で態度を崩した祐平を見た事がなかった。

 恐らく、こっちが本当の姿なのだろう。

 人前でネクタイを緩める事も、疲れたように煙草を吸う事も、ため息をつく事もなかった。

 付き合っていた当時が『光』なら、今は完全に『闇』だ。

 改めて『無理に付き合わせていた』のだと申し訳なく思う。

 それと同時に。

(……艶やか……)

 食べられても良い、と思ってしまった。

 嚥下する度、上下する祐平の喉仏から目が離せない。

 見つめられている事に気づいた祐平が、怪訝な目で静子を見た。

「…………どうかした?」

「えっ!?……いえっ何でも!」

 祐平に声をかけられ我に返った静子は、一気に赤面する。

 こんなよこしまな事、思ってはいけない。

 もう、叶わぬ事なのだから。

(……そういえば、祐平さんの『好きになった女性』って……)

 先ほどの顔の熱さが、一気に引いていく。

「あの……祐平さん──」

 突然、祐平は何かに気づいたようにしゃがみこんだ。

「祐平さん?」

「……迎え、来たみたいだよ」

「え?」

 静子が腕時計を確認すると、9時55分だ。

(夢から……覚めてしまう……)

 もう祐平には会えないのだろう、と静子は沈んだ面持ちになる。

「……そうね。でも、そんな隠れなくたって……」

 静子は無理に笑う。

「『自分から婚約を破棄しておいて、何でまだ二人きりで会ってるんだ』って詰られそうだからね」

「確かにそうかも。……じゃあ、私行くわね」

 ありがとう、と静子はソファーから立ち上がろうとする。

 祐平は、しゃがんだまま静子を手招きした。

 静子は、窓から見られないように腰を屈めて、祐平に近づく。

「どうしたの?」

 祐平は静子の頭を撫でて、静かに抱きしめる。

 静子が顔を赤らめて目を白黒させていると、額に、頬に口づけを落とされた。

「……最後に、海に行かないか?出会ったばかりの頃に行った、あの海だ」

「……うん……行く……」

 辛うじて承諾はしたが、自分の心臓の音が大きすぎてどういう風に言ったか覚えていない。

「洗い物と戸締まりをしなくちゃいけないから、祐平さんは先に行ってて……」

「わかった。悪いね」

「いいの……じゃあ、また……」

 祐平はテーブルに忍び寄り、ビールの入った袋からワインを取り出す。

 袋と背広を回収し、窓から見られないように低姿勢で出ていった。

 静子は体から力が抜け、その場に座り込む。



 美しい夕陽が、水平線に沈んでいく。

 これが、二人にとって最後の逢瀬だ。

「うわぁ……!」

 海に来たのは久しぶりで、静子は目を輝かせて夕焼けを見つめていた。

 祐平はそんな静子を、隣で愛おしそうに眺める。

「しかし僕と海に行くのに、よく許可が下りたね?」

 静子は「えへへ」と楽しそうに笑う。

「他の友人と遊びに行くって、嘘ついてきちゃった」

「その友人って、水彩画の道具を持ってきていた彼女かい?」

「そうよ。『海の絵を描きたい』って、前から言っていたから。祐平さんと会っている事も秘密にしてくれるって」

「じゃあ、僕達は『海に来たら偶然再会した』って所かな」

「そうね!」

 二人はくすくすと笑い合う。

 静子が再び海に目を向けると、両親の見守る中、幼い姉妹が砂浜で遊んでいた。

「静子……」

「何?」

 静子は麦わら帽子を押さえながら、祐平へと目を向ける。

 祐平は静子を見ず、遠い目をしていた。

「君に……話しておきたい事があるんだ……」

 静子は顔を強張らせる。

「……少し長い話になる。座って話そうか」

「……うん……」

 レジャーシートを敷いてその場に腰を下ろす祐平に促され、静子は不安な表情のまま同じく隣に腰を下ろした。

 祐平は、緊張したように大きく息を吐く。

「静子……僕は15年前、人を殺したんだ」

 静子は絶句した。

「…………どうして……」

「……いや、『殺した』なんてものじゃない。屋敷を襲わせて、旦那様の命も、奥様の命も、お嬢様の命も奪った。谷村さんや光子さんも……奴らと手を組んで、奪うように仕組んだんだ!」

 祐平は頭を抱えて、半ば叫ぶように自白する。

 初めて見る祐平の取り乱した姿に、静子はただただ困惑した。

「落ち着いて!どうしてそんな事をしたの!?」

 祐平は我に返ったように「ごめん……」と呟いた。



 15年前の8月18日。

 祐平は18歳の時、町の外れにあった北條家の屋敷で住み込みで働いていた。

 主人である弘一郎こういちろうも、その妻である広子ひろこも、屋敷の人達は皆、家族同然に接してくれた。

 北條家には、桜という12歳の娘と、すみれという生まれたばかりの女の子がいた。

 桜は、広子に似た優しい顔立ちで上品な子だった。

 祐平は、桜に恋心を寄せていた。

 しかし、主人の娘に恋心を抱くなどおこがましいにも程がある。

 祐平は恋心を封印し続けたが、すればするほど、感情は大きくなり、いずれ歪なものとなっていった。

「祐平さん、今日お誕生日なんですってね。おめでとう」

 学校に行く前の玄関で、桜は優しく微笑んで祐平を見た。

 自分自身も忘れていた誕生日を覚えていてくれた事に、祐平は目頭が熱くなる。

 『おめでとう』という言葉を噛み締めながら休憩をしていると、弘一郎が後ろから声をかけてきた。

「祐平、ここにいたか」

 祐平は急いで椅子から立ち上がり、弘一郎に向き直る。

「旦那様!どうなさいましたか?」

 弘一郎は、白い小さな紙袋を祐平に手渡す。

「少しだが、誕生日祝いだ」

「そんな……!僕なんかに勿体ないですよ!」

 祐平は申し訳なさそうに、両手の平を胸の前で振る。

「いいんだ。いつも頑張ってもらっているんだから、そのお礼だ」

 祐平は目を輝かせながら、手提げ袋を両手で受け取った。

「ありがとうございます……!開けてみても……よろしいですか?」

「ああ。気に入ると良いんだがな」

 祐平は、手提げ袋の中身を取り出す。

 縦長の黒い箱を開ける。

「うわぁ……!」

 銀色の高級そうな腕時計が入っていた。

「よろしいんですか?こんな高級そうなもの……」

「あぁ。喜んでもらえたなら、何よりだ」

「ありがとうございます!一生、大事にします!」

「大袈裟だな」

 弘一郎は照れ臭そうに笑った。



「──許嫁?」

 水を飲みに厨房に来た祐平は、膝から崩れ落ちそうになるショックを堪えて、今耳にした言葉を繰り返した。

「そう!浅井財閥のご長男が、許嫁になったんですって!」

 休憩中であるメイドの光子みつこは、椅子に座って目を輝かせて話している。

 還暦を少し過ぎたはずなのに、元気があり余っているせいか、25歳の里子さとこの方が落ち着いて見える。

「……そう……ですか……」

 しかし、『許嫁』という言葉が脳内を巡り、祐平の耳に光子の話は入ってこない。

「すみません……そろそろ、仕事に戻りますね」

「あ、ごめんなさいね。長話しちゃって!」

 光子は話して満足したのか、意気揚々と次の仕事に取りかかった。

 祐平が茫然自失としながら仕事をしていると、弘一郎が後ろからやって来た。

「祐平。すまないが、ちょっと頼まれてくれないか?」

「はい……何でしょうか?」

「これを、郵便局まで届けてもらいたいんだ」

「かしこまりました……」

「……どうかしたか?」

「っいえ!何でもありません!」

「疲れているなら、それを届けたら休んで良いぞ」

 弘一郎に頼まれて町へ向かっていると、祐平は道端でうずくまっている男を見つけた。

 どこかの工場で働いているのか、薄汚れた作業着を着ている。

「大丈夫ですか?」

「……あぁ……ちょっと、具合が……」

「病院に行きましょうか?」

「でも……金が……」

「僕が払いますから。もし病気だったら大変でしょう」

「……すまないな……」

 病院に連れていった結果『不摂生』だった。

 男はベッドに横たわって点滴を打ちながら、恥ずかしそうに「すまない……」と笑った。

「とんでもない。何事もなくてよかったですよ」

「後で、金は必ず返すから……」



 祐平が男の事を忘れかけた頃。

 玄関先で箒を掃いていると、執事の谷村が玄関の前に車を止めて、後部座席のドアの前で待機していた。

 学校へ行く桜は、階段を駆け下りてきて祐平へ笑顔を向けた。

「祐平さん、行ってくるわね」

「いってらっしゃいませ、お嬢様」

 祐平も桜に笑顔を向け、谷村と桜が乗る車を見送った。

 車が見えなくなった後、遠くの草むらからひょっこりとこの間の男が姿を現した。

「おーい!」

 祐平は目を凝らし、こちらに手を振っている男を見て「あ!」と声を上げた。

 祐平は小走りで男に近づいていく。

「お久しぶりです!もう、体調は大丈夫なんですか?」

「あぁ。お前さんのおかげだよ、ありがとう」

 祐平はくすぐったそうに「僕は何も……」と呟いた。

「どうだ、お礼と言っちゃあなんだが、今夜一杯やらないか?」

「『不摂生』って言われていたじゃないですか」

「大丈夫!ちょっとだけだ!な!」



 酒場で祐平は、この間会った男とその友人とテーブルを囲んでいた。

「──そうか……好きな娘に、許嫁が出来たのか」

 多賀たがという落ち着いた初老の男が、「そりゃ辛いな」と祐平を慰めた。

「その娘さんの事、そんなに好きなのか」

 この間助けた男・田岡たおかが特段興味もなさそうに酒を煽る。

「……ええ、好きです。大好きです」

 祐平は、ずび、と鼻を啜る。

「自分のものにしたいか?」

 祐平は、勢いよく顔を上げる。

 多賀は、静かな目で祐平を見つめていた。

「…………したい、です……自分のものにしたい……!」

 酒が入っている祐平は、涙ぐみながら言った。

「だったら……お前はその子の英雄にならなきゃな」

「『英雄』……?」

「俺達が夜中、『強盗』として屋敷に忍び込む。そして娘さんを襲おうとした所を、お前が身を挺して守るんだ」

 ちょっと怪我するだろうけどな、と多賀は穏やかに言う。

「なに、俺達も『フリ』だ。本当に殺すわけじゃあない」

「ちょっと暴れて、物壊れるかもしれねぇけどな!」

「あんまり騒ぐんじゃねぇぞ、田岡?お前は声も動きもでかいからな」

「分かってますよ!」

 大口を開けて笑う田岡を、多賀はたしなめる。

(俺が……お嬢様の『英雄』に……)



 1ヶ月近く経って、ついにその日はやってきた。

 夜も気温が高く、寝苦しい日だった。

 祐平は多賀の指示通り、午前0時に煙草を吸いに玄関から外に出る。

『さすがに俺と田岡だけっていうのは心許ないからな。他の奴らに声をかけて、4人くらいで行くつもりだ。カモフラージュに袋とか持ってるかもしれねぇけど、気にしないでくれ』

『分かりました……』

『とりあえず、外にいるお前は殴るから覚悟しとけよ!』

 田岡は祐平に向かって、殴るポーズをする。

『えっ殴られるんですか……?』

『その方が良い。一人だけ無傷だとおかしいだろ?』

『まぁ、確かに……』

 煙草をふかしながら酒屋での会話を思い返していた祐平は、カサカサッという草を踏む音で我に返った。

 草むらから田岡が片手を上げて、無言で挨拶している。

 祐平は煙草を指で挟んで、小さく会釈をした。

 煙草を地面に捨てて靴の裏で揉み消していると、田岡が飛び出てきて祐平を殴りつけた。

(思いっきり殴ってないか……!?)

 続いて田岡は祐平のみぞおちに蹴りを入れ、祐平は動けなくなる。

 それを合図に、多賀、田岡、見知らぬ男二人が玄関から屋敷に入っていく。

 全員、麻布らしき物を手にしていた。

(まさか……!)

 多賀達が入って少ししてから、硝子を割るような音と、「ぎゃああ」という光子の声が聞こえる。

「お嬢様……!」

(確か、物置小屋にモリがあったはず……!)

 弘一郎が釣りに行く時、使っていたはずだ。

 祐平は痛むみぞおちを押さえながら、多賀達に見つからないように屋敷の真裏へと移動する。

 モリを手に入た時、右側から赤ん坊の泣き声がした。

「すみれ……泣かないで……お願い……」

 泣き声の聞こえる方へ急ぐと、すみれを抱いて裸足のまま外に脱出した桜と、桜より2歳年上で付き人の恭子が山の方へ逃げようとしていた。

「お嬢様!!」

 祐平はモリを持ったまま、桜へと叫ぶ。

「祐平さん!生きていたのね!」

 桜は安心したように笑い祐平に近づこうとしたが、恭子が裁ち鋏を構えて、桜を庇うように立ちはだかった。

「お嬢様っお逃げください!!」

 恭子の目には、怒りと憎悪が浮かんでいた。

(あぁ……こいつ──)

 桜は立ち止まり「でも……」と未だに祐平を信頼しているようだ。

「この男が──」

 グサリ。

 恭子が桜の方へ目を向けた瞬間、モリを恭子の腹部へと突き刺した。

「え……」

「邪魔するなよ……」

 ゆっくりと自分の腹部へ目を向ける恭子から、祐平は躊躇なくモリを引き抜く。

「早……く……」

 恭子が倒れるのを横目に、祐平は桜へと近づいた。

(俺が……お嬢様の『英雄』に……)

「……お嬢様……お怪我は、ありませんか……?」

 裸足で足の裏と甲を傷つけている以外怪我はなさそうに見えるが、桜は首を横に振り恐怖に顔を歪めていた。

 突然、祐平に背を向けて山の中へと走り出した。

「っお嬢様!」

 祐平も桜を追い、山の中へと入っていく。

 ようやく桜に追いつくと、桜は崖で逃げ場を失っていた。

「お嬢様……大丈夫ですよ……俺がついています……」

 祐平は手を差し伸べ、桜を安心させようとなるべく優しく声をかけたが、桜は先ほどと同じく顔を強張らせたまま、首を横に振っていた。

 すみれがまたも大泣きしだし、祐平はそのけたたましさに苛立ちを募らせる。

「さあ!」

「っいや!」

 祐平が一歩踏み出すと同時に桜が一歩引き下がり、桜は足を踏み外した。

「あっ──!」

「お嬢様!」

 桜はすみれを抱えたまま、あっという間に崖下に落ちていった。

 祐平が急いで崖の下を見ると、小川で頭から血を流して倒れている桜と水に浸かっているすみれの姿があった。

 失意のあまり、その場に座り込む。

「お嬢様……何で……」

「どうだ?お嬢様は手に入ったか?」

 田岡がにやけた顔で後ろから歩いてきた。

 祐平の隣に立つと、腰を曲げて崖下を覗きこむ。

「おーおー、こりゃ残念だったな」

 他人事のように笑う田岡に、祐平は一気に殺意が沸いてきた。

 ゆっくり立ち上がると、田岡の後頭部を思いっきり殴りつける。

「ってめ!何すん──」

 後頭部を押さえ、振り返ろうとした田岡の側頭部を、祐平は殴りつけた。

「う……ああぁ!」

 田岡はバランスを崩し、崖下へまっ逆さまに落ちていく。

 桜の遺体の2mほど右に転がる田岡の遺体を、祐平は冷めた目で見ていた。

「お嬢様……申し訳ありません……お嬢様の隣に、そのような下賊な男を……」

 祐平は地面に置いていたモリを拾い上げ、静かに屋敷へと歩いていく。

 玄関からそっと中を覗くと、屋敷の中は惨劇そのものだった。

 棚の中にあったあらゆる金品は奪われ、床に置かれた麻布はパンパンに膨らんでいた。

 光子の遺体が彼女の寝室である奥の部屋の前で倒れている。

 その隣の部屋から、里子の悲鳴と男の笑い声が聞こえてきた。

(何が起きているか、なんて想像したくもない……)

 屋敷へ音を立てないように忍びこむと、酒瓶を手にした男が赤ら顔で左の暗闇から姿を現す。

「なんだぁ……?お前、死んだんじゃなかったのかよ?」

「死んでないな」

「田岡が殺す手筈だったんだけどな……しょうがねぇ──」

 男が日本刀を頭上に掲げた瞬間、祐平はモリで男の喉を突いた。

(旦那様に褒めてもらった技術……こんな事の為に使うんじゃないんだけどな……)

 喉からモリを引き抜くと、男の体は後ろに倒れる。

 日本刀の落ちるカシャンという音に、祐平は心臓をはね上げたが、誰も玄関に来る様子はない。

 祐平は気を張り巡らせたまま、里子の部屋へ向かった。

 廊下から部屋を覗き見ると、予想した通り男が里子に覆い被さっていた。

 男は祐平に背を向けて行為に耽っている為、祐平がいる事には気づいていない。

 音を立てないように背後に近づき、モリで背中を突き刺す。

 里子へ目を向けると、舌を噛みきっていた。

 祐平は何の感情も浮かばないまま里子を見て、部屋を出ていった。

(旦那様……奥様……)

 どうか、ご無事で。

「あと……一人……」

 とりあえず一階を全て確認しようと、祐平は厨房へと向かった。

 厨房を入り口から覗くと一切荒らされておらず、多賀が優雅に猪口で日本酒を煽っていた。

「……さすが、美味い酒だな」

 多賀は祐平を見ずに話しかける。

「田岡達を殺ったのか。乗せられやすい小僧だと思っていたが、なかなかやるな」

 多賀は楽しそうにふっと笑う。

「……優雅だな、あんた」

 祐平は入り口から姿を現し、憎しみの篭った目で多賀を睨みつける。

 モリを持つ手に、思わず力が入った。

 多賀は、ようやく視線を祐平に向ける。

「……何だ、その目は。俺達の話に乗ったのが自分だって事、忘れたのか?」

「忘れちゃいないさ。だから自分で精算する」

「なるほどな」

 多賀は懐から拳銃を取り出し、銃口を祐平に向ける。

「まぁ、俺は死ぬ気はないんでね」

 穏やかに言う多賀に、祐平は後ずさった。

(くそ……さすがに拳銃じゃあ……)

 その時、外でガタガタッという物音がした。

 祐平が緊張した面持ちで勝手口を見つめていると、勢いよくドアが開き、谷村が薪割り用の斧を持って多賀に襲いかかった。

 しかし多賀は眉一つ動かさず、谷村を射殺する。

 それと同時に、ドンという猟銃の発砲音が廊下から鳴り響いた。

 祐平が肩をはね上げ「何事か」と辺りを見回していると、多賀は首を撃たれたらしく床へと倒れこんだ。

「…………祐平……無事か……?」

 体のあちこちに切り傷や刺し傷があり満身創痍の弘一郎が、猟銃を手に廊下で座り込んでいる。

 祐平は弘一郎に駆け寄り、隣にしゃがみこんだ。

「旦那様……!旦那様が、あの男を……!?」

「ああ……」

「っありがとうございます!俺がっ……俺が……奴らを……」

 祐平は今更ながら、自分のしでかした事に血の気が引いた。

 弘一郎はか細い声で、ゆっくりと祐平に話しかける。

「……俺はもう……動けそうにない……広子も殺されてしまった……」

「え……?」

「桜と……すみれは……」

「…………崖下に……」

「そうか……」

 突然、玄関の方からガシャガシャッと金属のぶつかる音が聞こえてきた。

(もう一人いたのか……!)

 祐平は震える手でモリを掴むが、恐怖で動く事が出来ない。

「戦わなくていい……逃げろ……」

「しかし──」

「生きるんだ……お前にはまだ未来がある……」

 屋敷の者全員の未来を奪ってしまった自分に、どんな未来があるというのか。

 祐平は拳を握りしめ、俯いて大粒の涙を流す。

「未来を描けそうにないんだったら……そうだな……俺達の事を忘れない為に生きてくれ」

 良い奴らだったろう?と、弘一郎は朗らかに笑う。

「……はい……!」

 微かにパチパチ、という音が聞こえた気がして、祐平は顔を上げる。

 玄関の方で、オレンジ色の光が揺らいでいた。

「裏口から逃げろ……火の手が回る前に……」

 弘一郎は、有無を言わせぬ真剣な表情で祐平を見た。

 祐平は弘一郎に向き直り、深くお辞儀をする。

「旦那様……今まで本当に……お世話になりました……!」

 弘一郎は柔和な笑みを浮かべる。

「元気でな……」

「はい……!」

 祐平がモリを持って裏口から玄関に回ると、玄関は火に覆われ、通る事が出来なくなっていた。

 草むらの方に、膨らんだ麻布を引きずる男の姿を見つける。

 里子を襲っていた男だ。

 祐平は全速力で男に駆け寄り、背中から心臓を突き刺す。

 限界を超えていたのか、そのまま男の横に倒れて気を失ってしまった。



「──気がついたら、病院のベッドの上だったよ」

 辺りはほとんど暗くなり、さざ波の音だけが聞こえる。

「俺もあの時死ねば良かったのに……死ぬのが怖かった……!」

 顔を両腕に埋め懺悔する祐平を、静子はただじっと見つめる。

「……自首して。祐平さん」

 静子は穏やかに、しかし強く自首を促す。

 祐平は顔を半分上げて、暗い目をして「……無理だよ」と呟いた。

「もう、時効なんだ……」

 静子は衝撃で目を見開く。

「時効が成立した翌日、君にプロポーズしようとしたんだ。君に近づいた目的は、泰造さんの金と人脈だったから」

 静子は目を伏せる。

 検討はついていたのだ。

 こんな行き遅れた女、好き好んで嫁にしたがるなんて『何かある』と。

「でも、君の事を本当に愛してしまった。君は本当に素敵な女性だったよ」

「お世辞はいいわ」

「君には、本当に幸せになってもらいたい。だから、離れなくちゃいけないんだ」

 祐平はレジャーシートから立ち上がる。

「そろそろホテルに行こう。友人も心配する」

「あのっ祐平さん……!」

 咄嗟に祐平の手を掴む静子に、祐平は「何だい?」と穏やかに笑う。

(死なないで……)

「っあの時、どうして『頭』と『頬』にキスしたの?」

 静子の質問に祐平は切なそうに笑うと、静子の前に片膝をついて座った。

「キスには場所ごとに意味があってね。頭は『思慕』、頬は『親愛』、唇は──」

 祐平は静子の横に片手をつき、唇に軽く触れるだけのキスをする。

「『愛情』」

「『愛情』……」

「さようなら。幸せになってね」

 新聞の『死亡欄』で祐平の名前を見つけたのは、それから1週間後の事だ。

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