さようなら、愛してしまった人(前)
「婚約を……破棄させてほしい……」
喫茶店で、ホットケーキを頬張りながら完成したばかりの東京タワーを眺めていると、予想外の言葉が婚約者から飛び出した。
テーブル越しに頭を下げる男を、本田静子はフォークを持ったまま呆然と見つめていた。
婚約者は、『新進気鋭』と謳われている実業家・永野祐平だ。
「…………どうして……?」
静子は、涙を必死に堪え震える唇で問いかけた。
待ち合わせ場所である仕事場の駐車場で、運転席に座り、指輪のケースらしき物を開ける祐平を見て嬉しくなった。
プロポーズされると思っていた。
(じゃあ……あの指輪は、一体誰に……)
祐平は頭を上げ、暗い目で口を開く。
「他に……好きな人が出来たんだ。それに、生まれながらの『お嬢様』である君とは、やはり価値観が合わない……」
だから、すまない。
祐平は再び、深く頭を下げた。
静子は、今まで感じた事がないほどのドロドロとした憎悪を『祐平』と『祐平の好きになった女性』に抱いた。
それと同時に、自分が『資産家の娘』として生まれた事をかつてないほど呪った。
「……分かりました。婚約を、破棄しましょう……」
操り人形のように無感情に言い、フォークを置いてホットケーキもコーヒーも残したまま静子は席を立った。
祐平は、未だに頭を下げ続けている。
静子は、気づいたら仕事場である『本田物産』の経理部に足を運んでいた。
やはり屋敷にいるよりも、仕事場のほうが安心するらしい。
(……良いのよ……元々『利害の一致』のような関係だったんだから……)
自分の席の椅子に力なく座り込むと、堰を切ったように涙が溢れ出た。
どれだけ泣いたのか、目蓋は真っ赤に腫れ上がり喉もカラカラに渇いていた。
「……お水……」
今日は休日だ。
泣き腫らした目で建物内をうろついても誰にも会わないだろう。
静子は席を立って給湯室へ向かった。
コップに水道の水を注いで一気に飲み干すと、空になったコップをぼんやりと見つめた。
「……他のご令嬢は『給湯室で水を注いで、それを飲み干す』なんて事、するのかしら……」
静子自身は、自分の事を『他の令嬢よりも一般人らしい』と思っていた。
しかし、『自分でそう思っていた』だけであって、祐平から見たら違っていたらしい。
『他に……好きな人が出来たんだ。それに、生まれながらの『お嬢様』である君とは、やはり価値観が合わない……』
『他に好きな人が出来た』事も、もちろんショックだ。
しかし、静子の心を一番抉った言葉は。
(『価値観が合わない』という事は、今まで私に合わせて無理してくれていたという事よね……?)
静子は、大衆食堂や酒場に行った事がない。
今日行った喫茶店だって、金持ち向けに設えられた調度品なんかが飾ってある喫茶店だ。
(初めて行った時、祐平さん『まるで応接間みたいだ』なんて笑っていたわね……)
酒は嗜むが、ワインを静かな空間で料理と一緒に楽しむ程度。
酒とはそういうものだと思っていた。
騒がしい室内で『ビールの一気飲み』など、した事がない。
送り迎えは常に車で、運転手が車のドアを開けてくれる。
電車にも乗った事がない。
町を散策すると、雰囲気が違うのか変な目で見られる事がある。
祐平は一時期、とある屋敷で住み込みで働いていたらしく静子にも気さくに接して、庶民の暮らしを教えてくれた。
(これで良いんだ……)
喫茶店を出た祐平は、芝生に寝転んで秋の空を眺めていた。
祐平がパーティーで静子に近づいたのは、嫁に行き遅れた『資産家の娘』だからだった。
品行方正で、見た目もそれほど悪くない。
正直、何故貰い手がつかなかったのか不思議なくらいだ。
しかし、関わりを持ってすぐにその理由がよく分かった。
基本的に聡明でおしとやかな静子だが、仕事に没頭して家庭を顧みない事が多い。
それで愛想を尽かされて、何度か破談になったらしい。
しかし、それは祐平にとって『好都合』だった。
祐平の目的は、静子の父・本田泰造の金と人脈だ。
静子自身に興味などない。
(そのはず……だったのにな……)
『本当に愛してしまう』なんて。
ろくに市街地を見た事がないのか、祐平にくっつきながら、ありとあらゆる物を目を輝かせて見ていた。
馴染みの定食屋に連れていけば「美味しい!」と頬張る。
「普段の食事の方が、遥かに良い物を食べいるはずなのに……」
祐平は、手に持っていた鈴蘭のブローチを顔の上に掲げる。
市街地の雑貨屋で、お揃いで買った物だ。
静子が、普段身につけているネックレスよりもかなり安物なのだが、静子は無邪気に「可愛い」と見つめていた。
祐平はブローチを手にしたまま両目の上に片腕を乗せると、自嘲的な笑みを浮かべる。
「……さてと」
祐平は気を取り直して立ち上がると、花屋へと足を向けた。
花屋で百合の花束を買った祐平は、電車に揺られてぼんやりと窓の外を見ていた。
先ほどまでいた市街地を抜けると、民家もまばらな田園風景が広がる。
農作業中の人が、刈り取った稲を干す姿がちらほらと見えた。
1時間ほど電車に揺られてとある田舎駅で降りると、民家なんてほとんどない緩やかな山の方へ向かう。
祐平は山の手前のだだっ広い広場で立ち止まると、百合の花束を地面に置いて手を合わせた。
火事で焼失してしまったが、そこにはかつて、祐平が仕えた北條家という資産家の屋敷が建っていたのだ。
(旦那様達をあんな目に遭わせた俺が『幸せになる』など、あってはいけない……)
祐平の脳裏に北條家で過ごした日々が思い出され、合わせた手に力が入る。
(あってはいけないんだ……!)
祐平はようやく合掌を終えると、後悔の滲んだ目で目の前の広場を見つめる。
涙を流す事すら烏滸がましく感じられ、爪が食い込むほど握り拳に力を入れる。
駅へ向かおうと歩き始めると、リヤカーを引いた農作業姿の男がこちらに歩いてきた。
祐平はびくりと肩をはね上げたが、警戒したまま歩き続けた。
男は本当にただの農家のようで、祐平は少し肩の力を抜く。
男も祐平に気づき、「おや?」と声をかけた。
「珍しいね、こんな所に人が来るなんて」
男は穏やかな笑顔で、祐平に話しかけた。
「もしかして、あそこのお屋敷の跡に花でも備えに来てくれたのかい?」
「……ええ、そうです……知り合いだったものですから……」
祐平は歯切れ悪く答える。
しかし男は気にする事なく「そうかい、そうかい」と相槌を打った。
「あの屋敷が盗賊に襲われてから、もう15年になるのか」
男はしんみりとした表情で、屋敷跡へ目を向けた。
「気さくで、良い方達だったねぇ」
「……そうですね……」
「あ、引き留めて悪かったね。帰る所だったんだろう?」
「あ、はい……そうです……」
「じゃあね、気をつけて帰るんだよ」
「……はい……」
男が歩き出した為、祐平も再び歩き始める。
祐平に別れを告げられてから三ヶ月。
泰造の友人の祝賀パーティーで、静子はシャンパンを手に一人ため息をついた。
思いっきり泣いて、一ヶ月もすれば忘れられるかと思っていたがそうはならなかった。
(……酒場に飲みに行ってみようかしら……)
ビールの一気飲みは出来なくても、隅っこでちびちび酒を煽るくらいは出来るだろう。
泰造の友人への挨拶も済ませた。
『仕事が残っている』とか理由をつければ、パーティーを抜け出せるだろう。
静子は、他の招待客と談笑している泰造に近づく。
「ごめんなさい、お父様。やり残した仕事があるので失礼させていただきます」
「おや、珍しいな。お前が『仕事をやり残す』なんて」
「ちょっと最近、仕事に身が入らなくて……。本当にごめんなさい」
静子は申し訳なさそうに頭を下げ、駐車場へと歩いていく。
車の運転席に座っていた藤岡が、静子の姿を見て車から出てくる。
「お嬢様、どうなさいました?」
「仕事を残してきてしまったの。申し訳ないけど、屋敷に戻ってもらっても良いかしら」
「珍しいですね。かしこまりました」
「着替えたら、仕事場までお願いね」
「はい」
後部座席のドアを開けてもらって、静子は車に乗り込んだ。
祐平と出会うまで、これが普通だと思っていた。
(あれは、知り合ったばかりの頃だったわね……)
二人で海へドライブへ行った時だ。
「──さぁ、着きましたよ」
「ありがとうございます、永野さん」
祐平はシートベルトを外し、運転席を降りる。
しかし、いつまでも後部座席から降りない静子をしばらく見てプッと吹き出した。
「あー、そうだったな」
祐平は一人で何かを納得すると、後部座席のドアを開ける。
「どうぞ、お嬢様」
「……ありがとう……?」
静子は座席から降りながら、何故笑われたのか分からず頭の上に疑問符を浮かべる。
祐平は未だに、クスクスと笑っていた。
「どうかしましたか?」
「いや。前に住み込みで働いていた屋敷でも『運転手が後部座席のドアを開けていたな』と思いまして」
静子にとっては当たり前の事を、祐平はおかしそうに笑う。
何だか『自分がズレている』と言われているようで、静子はムッとした。
「それが普通ではないのかしら?」
「いやいや、一般人にとっては『車のドアは自分で開けるもの』なんですよ。他人に開けてもらうものじゃないんです」
「そうなの!?」
初めて知った。
その反応もおかしかったのか、祐平はひとしきり笑い終えると「さ、行きましょうか」とトランクの荷物を下ろした──。
(そんな事もあったわね……)
車に揺られながら、外の景色を眺める。
車が屋敷に着くと、静子はすぐに着替えて車に戻った。
着ている服は、自分が持っている中で一番地味なワンピースだ。
(これならきっと、市街地に行っても目立たないはず)
『仕事をやり残した』と聞いていた藤岡は後部座席に静子を乗せると、自分も運転席に乗り込み「仕事場へ向かってよろしいですか?」とにこやかに確認する。
「ええ、お願いね」
「お迎えは何時頃にいたしましょうか?」
「そうね……10時にお願いするわ」
「おや、そんな遅くまで……」
「最近、仕事に身が入らなくてね……」
「何か、心配事がおありですか?」
「そうじゃないわ」
気落ちしていたのが表情に出ていたのか、車を走らせ始めた藤岡は心配そうな目をしている。
しばらく無言で運転していた藤岡は、慰めるように口を開いた。
「……お嬢様、気を落とさないでください。あの男は、お嬢様に相応しくなかったのです」
「…………そうかしら……」
「そうです。あのような成り上がり」
『成り上がり』という見下したような発言が、妙に癪に障った。
静子にとって祐平は、違う世界を見せてくれる人だったのに。
車が仕事場の前に止まり、藤岡がドアを開けてくれる。
「ありがとう。じゃあ、ちょっと行ってくるわね」
「お気をつけて。10時にお迎えに上がります」
静子は一旦会社へ入ると、経理部のある3階へと上がり電気をつける。
窓から車がいなくなった事を確認して、電気をつけたまま仕事場から抜け出した。
(2時間半あれば、食事をして戻ってこれるはず……)
静子は、以前祐平と食事に行った定食屋『とんしち』へ小走りで向かった。
夕飯時というだけあって、『とんしち』はサラリーマンと親子連れで盛況だった。
昼間に来た時とは違い、ビールを煽る客が多い。
「いらっしゃい……」
何故か、挨拶をした店主は静子を妙な目で見る。
静子はおずおずと、空いてる席を探した。
「あ……こちらへどうぞ」
店主が、カウンター席へと静子を促す。
「ありがとうございます……」
「こちら、お冷やです。メニューはそちらですので……」
「ぁ……ありがとうございます……」
以前来た事があるのだから、お冷やが出される事も、メニューの場所も分かっている。
(祐平さんと来た時は、こんなによそよそしくなかったのに……)
店主がよそよそしくするから、他のカウンターに座る客もちらちらと静子を見る。
一体、何が違うのだろう。
『今後は違うものを食べてみようか』と、静子はメニューを開く。
「……あの……」
「はいっお決まりでしょうか?」
「……『豚カツ定食』を1つ、お願いします……」
「かしこまりました」
料理が出てくる間、静子は店内をぐるりと見回す。
昼間に来た時とは、何だか違って見えた。
「お待たせいたしました。『豚カツ定食』です」
店主は、緊張した面持ちで静子の前に料理を出す。
「ありがとうございます……」
店主の緊張感が移り、静子まで強張ってしまった。
目の前に出されたのは、揚げたての豚カツ、山盛りのキャベツ、ほかほかの白いご飯と味噌汁、胡瓜の漬物だ。
静子は、出来立ての定食に目を輝かせる。
箸を手にとり、「いただきます」と手を合わせた。
味噌汁を一口飲み、豚カツを齧る。
静子が食べる姿を、何故か店主と周りの客が息を飲んで見ていた。
「……美味しい……」
静子は口元に手を当て、ほう、と息を吐く。
静子の言葉を聞いて、店主も客も安堵の表情を浮かべていた。
静子の目から、ぽろぽろと涙が溢れ出す。
「どっどうしたんですか!?」
「やっぱり、お口に合わなかったとか……」
突然泣き出した静子に、店主も客も慌て出した。
「……違うんです……とても美味しいです……ただ、婚約者を思い出してしまって……」
「婚約者……」
静子は箸置きに箸を静かに置いた。
「はい……以前、婚約者にこのお店に連れてきていただいた事がありました。彼も私も『仕事優先』な気質なので契約結婚のようなものだったんです。私自身、彼に恋愛感情なんて抱いてないと思ったんですが……」
「『ですが』……?」
言葉を切った静子を隣の女性客が覗きこむ。
「この間、婚約破棄されて……それからずっと『彼と一緒に行った場所』ばかり思い出してしまったり、『彼が今想いを寄せている女性はどんな人なんだろう』とか考えてしまったり……」
静子はバッグからハンカチを取り出し、目元を押さえる。
(『お嬢様である君とは、やはり価値観が合わない』……)
きっと祐平が好きになった女性は、彼と価値観の合う一般人なんだろう。
「こんなに好きになっていると……思わなかったんです
……」
隣の女性客は、慰めるように静子の肩を抱いて、ぽんぽん、と軽く叩く。
「もう一度会ってみたら?会ってみて、全部想いをぶちまけて、またここで大泣きすりゃ良いじゃない」
「いや、ここで大泣きはちょっと……」
店主は苦笑いを浮かべている。
「ほら、美味しい豚カツが冷めちゃうわよ。温かいうちに食べましょう?」
「……はい!」
静子はハンカチでもう一度涙を拭い、箸を手にした。
「──ごちそうさまでした。美味しかったです」
「おう!また食べにおいで!」
「ありがとうございます!」
店主はすっかり、静子に対しても他の客と同じように接していた。
静子自身も、泣きながら胸の内を話すなど初めてだった。
(だいぶ、すっきりした)
今度はビールも飲んでみよう、と『とんしち』を出た静子は、憑き物がとれたように晴れやかな表情で仕事場まで歩く。
路肩で酔い潰れているサラリーマンを見つけて、静子はしゃがんで声をかけた。
「あの……大丈夫ですか?」
「……あ?」
男は、据わった目で静子を睨む。
温室育ちの静子は、睨みを利かせられた事など初めてで、思わず「ひっ」と後ずさった。
男はゆらりと立ち上がった。
「何だぁ……?ここに座ってちゃあ悪いのかよ……?」
「いえ……私は心配を……」
「『いかにもお嬢様です』みたいな空気出しやがって……俺ら庶民の事馬鹿にしてんだろぉ……?お高くとまってんじゃねぇ!」
男は静子に拳を振り上げる。
「っ!」
「俺の連れに、何をしているんだ?」
殴られる、と恐怖で目を瞑った瞬間、肩を抱き寄せられ聞き覚えのある声が耳に届く。
しかし、こんな底冷えするような声は聞いた事がなかった。
男もその冷徹な声と表情に怖じ気づき、そそくさと帰っていく。
おそるおそる見上げると、スーツ姿の祐平だった。
「……何をしているんだ、こんな所で」
祐平は静子を見て、あからさまにため息をつく。
「……ただ、以前行った定食屋に行ってみようかと……でも、何故か変な目で見られて……」
「君はそもそも『雰囲気』が違う。こんな所では、浮くに決まっているだろう」
「『雰囲気』……?」
祐平は呆れたように、再びため息をついた。
「……とりあえず、屋敷まで送るよ」