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相対性理論と僕の世界

 アインシュタインの相対性理論の話を、授業中の雑談として先生がした事があった。光速度が一定であるという事実から、時間や距離が相対的に変化するという結論が導かれたとか、そんな内容。

 中学の頃だったと思う。

 その時、僕はなんとなく計算式を書いてみたんだ。もちろん、そんなに難しいものじゃない。

 速度×時間=距離

 ただ、これだけ。で、もう少し考えてみた。電車の中で物を投げる。電車の中で、それは十メートル先まで進んだとする。電車の外では、その投げられた物が進んだ距離はそれよりも長くなっている。もちろん、電車の走っている速度がその投げた物に加算されるからだ。

 でも。

 光は何処から観測しても一定だという。速度は変化しない。なら、光の場合でこれと同じ事を考えたとしたら、どうなるのだろう?

 後、残されているのは時間と距離しかない。なら、時間か距離が変化するしかない……。

 なるほど、と僕は思った。

 相対性理論とはこんな発想なのか、と。


 僕は自分のその小さな発見を誰にも言わなかった。それなりに面白い事だと、個人的には思っていた訳なのだけど、どうせ伝えられないと思ったからだ。きっとそれを、その“面白さ”を含めてのそれを、上手く伝えられない。それは、自分の能力を諦めていたというよりも、自分と他の人間との差を諦めていたからだった。

 きっと、どうしてそんな事を言い始めたのかとかそんなレベルで、僕は疑問を投げかけられる。分かってもらえない。それが、どうしたの?って視線で見られる。

 ……相対性理論によれば、速度が違っている空間と空間は、時間の流れ方や距離が違っている、本当に別の世界であるらしい。

 多分、それと似たような事なのだろう。

 僕の世界は、他の人の世界とは基準が違っているんだ。だから。

 だから、

 ――多分、別の世界なんだ。


 僕がそれを感じ始めたのが、いつの頃だったのかはよく覚えてない。少しずつ実感させられていったからだと思う。例えば、僕は数学から文学性を感じていた。数学を、国語とか、そういうのと同じ範疇のものだと思っていたんだ。感覚の上での判断だから、何処をどうと説明できる訳じゃないのだけど。だけど、他の皆はそうではないらしかった。理数系と文系。そんな分け方に納得している。でも、僕はそれに納得ができなかった。だから、一人それに戸惑っていた。

 そういったズレに、孤独を感じなかったと言うと嘘になる。けど、“辛い”というのは贅沢な気もした。少し世界を淡白にすれば、別にどうって事のないものだ。

 もっとも、自分と他の人の世界にどれだけの酷い差があるのか、確信を持っていたのじゃない。自分は独りだとかなんだかとか、よく聞く陳腐な言葉だし。ひょっとしたら、それは大したものでもなく、そう思い込む事で僕は自分に酔おうとしているだけなのかもしれない。或いは、そんなのは誰にでもある有り触れた差なのかもしれない。どうであるにせよ、僕はそれを特別なものだとは思わないようにした。他人と無理に混ざろうとするのは、面倒くさいことだし。別にそのままでも何の問題もないから。


 ……学校の勉強は嫌いだった。特にテスト勉強は嫌いで、その意義に疑問を持ち、軽く敵視すらしていた。

 でも、科学だとかそういった事は好きだった。だからなのか、相対性理論の発想を偶然とはいえ自分の力で理解できたと思い、それに少しの面白さを感じていた僕は、もう少し深いところまでそれを知りたいと思っていた。

 難しい数式とかまでは、理解する気なんてなかったけれど、ニュアンス的に、それがどういったものなのかくらいは、つかんでおきたいと思ったんだ。ささやかな好奇心。ただし、それはそんなに強いものじゃない。だから、少しずつ。少しずつそれを僕は調べていった。

 図書館とかで、一人。そういった類の本をあさった。暇な日曜とかに。時々。

 ニュートン物理学。

 その発想を理解するには、どうしてもニュートンの話は避けられないようで、ほとんどの本でまずはそれが語られていた。特に、ニュートン物理学が定めた絶対空間と絶対時間の話が強調されてあった。

 ニュートンは自分の理論を展開する際に、ある条件を前提としたのだとか。

 この宇宙には絶対的な空間と絶対的な時間が存在する。つまり、この宇宙の基準となるような時空が存在するとした。でも、これはその当時の技術では、実験や調査によって確かめられない。そこでニュートンは、少し無理のある思考実験によって、強引にこれを正しいと結論付けてしまった。この点は、非難の対象となったらしい。無理もない話かもしれない。

 ……弱さ。

 その話を読んだ時、僕はそれを感じた。知識を追求する人間に限らない、どんな人間にもある性質だけど、人間は自分の住んでいる世界が不確かで曖昧な場所である事に恐怖を覚えるんだ。だから、そこに絶対性を求める。そして、自分の信じたがっている“それ”を正しいと思い込もうとする。

 多分、ニュートンも同じだったのじゃないだろうか?

 この世界の時空が相対的に変化するような曖昧なものだとは思いたくなかった。いつまで経っても、アインシュタインの相対性理論に対する反論がなくならないのは、その所為でもあるのかもしれない。絶対性に頼り安心をしたいが為に、相対的に変化するのだという意見を否定したがる。

 世の中に、こんな人達はたくさんいる。自分の感じたままのそれが絶対的に正しいと信じて疑わない人達。或いは、絶対的に正しい“それ”が存在すると信じている人達。

 他人との差を感じながら生きてきたからなのか、僕はそんなものが存在しない事をよく承知していた。だから、熱心に意味もなくそういったものの絶対性を前提として交わされる議論を、少し冷めた思いで見つめていた。

 国家だとか主義だとかの大きな事から、小説や漫画の面白さなんかの他愛もないものまで幅広く、そういうものはたくさんあった。

 そういったものの優劣とか価値とかは、何かしらの基準がないと決められない。基準を揃えないと、それはそもそも議論にすらなれないんだ。それなのに、別々の基準からそれを評価し、お互いに相手を非難している。

 もちろん、捉え方を変えるのなら、それは別々の基準を持った人達が、同じ基準になろうと葛藤しているとも受け取れる。関わり合いがゼロなら、そもそも、その相手はただ単に存在しているだけのものだろう。ギャップによって苦しむ事もない代わりに、一歩踏み込んでの触れ合いも起こらない。関わり合おうとしているからこそ、そういった議論も発生するんだ。

 なら。

 初めから、“どうせ別の世界だから”で諦めてしまっている僕には、それを“見せないよう”にしている僕には、誰か他の人と同じ基準を共有するなんて事は起こらないのだろう。

 ……いや、これはただ単にいじけてしまっているだけかもしれない。そう取られても仕方ない。


 ……アインシュタインの相対性理論は、ニュートン物理学が定めた絶対空間と絶対時間を否定した。

 つまり、そこが革新的だった訳だ。

 絶対な時空間は存在しない。それは相対的にしか決定はされない。動いている電車の中から観れば、外の世界の時間は遅く進んでいて、距離も縮んでいる。外の世界から観れば、電車の中の時間は遅くなっていて、距離も縮んでいる。違う基準から観れば、それは違うものになってしまう。全てのものの基準になるような、絶対的なものは存在しない。

 この考えは、もしかしたら、文化的な物事にも少なからず影響を与えたのかもしれない。

 文化相対主義という考え方がある。

 ナチスや旧日本軍なんかの全体主義は、文化の絶対性を主張して、自国の文化の優性を誇示しようとした。そして、その為に、他の国の文化を否定しようとした。

 終戦後、この考え方に対する反省から文化に優劣は存在しないという、文化相対主義が受け入れられたらしい。因みに、今の国際社会での標準的な考え方でもある。

 文化に絶対的な基準なんてない。その価値は相対的にしか求められない。単なる印象でしかないけど、なんだか相対性理論と似ているようにも思える。

 歴史を振り返ると、各時代、その社会での自然観は、平等な社会だと宇宙の成り立ちも平等なものとして捉え、支配階級が明確になっている社会だと、宇宙は地球を中心にしていたり、階層があるものとして捉えたがる傾向があるらしい。

 つまり、自分達の社会観を、そのまま宇宙の観方にも投影してしまう。

 もしも、その逆も有り得るのなら、相対的にしか空間が決定されないという考え方によって、文化相対主義が受け入れられ易くなったという可能性も否定できないのじゃないだろうか?

 もちろん、そんなのは確かめようもない事だけど。

 ……紛争だとかの問題解決以外にも、文化相対主義を受け入れる事のメリットは、恐らくあるのだろうと思う。

 “違い”は、問題を起こしもするけど、それはなくてはならないものでもある。物理的な観方からもこれは言える。簡単に分かるけど、全てが平均化され、全てが同じになった世界には、生命は存在できない。そこに変化と変異があるからこそ、生命は存在できるんだ。

 ただし、全くバラバラの基準を持った者が無秩序に集まっても、そこに機能する何かは発生しないのだけど。そこには、何かしらのルールが必要だ。情報のやり取り。影響の与え合い。それを上手く行えるようにする為の。その手段が得られなければ、何かしらの齟齬が生まれる。争いに発展するか、或いは完全に断絶してしまうか……。混乱の後に、その為の手段が自然発生する事もあるかもしれない。


 “違い”が世の中に必要なものだとはいえ、やっぱり似たような存在同士で集団を形作り易いという特性は変わらない。そして、集まったそれが一つの“機能”になる事がままある。例えば、農村や技術者達集団、商人、警護する者達、などなど。

 そして、この現象はインターネットの世界でもある程度観られる。絵を描くのに長けた者達の集まる場所、文章を書くのに長けた者達の集まる場所。その他、技術者など。恐らく、これらのコミュニティとコネクションを持てれば、それを利用して何らかの生産物を産む出す事も簡単にできるだろうと思う。それが成功するしないは別問題として。ただし、先にも述べたように、上手いインタフェースを築けなければ、それは無理なのだけど。

 さて。

 僕の世界でそれを考えてみよう。

 他の人とは、恐らく、別の基準を持っているだろう僕の世界で。

 自分の世界の、その基準を隠したままならば、僕は普通に社会で生きていける。人との関わりについて、淡白な視点を持てばそれは大して辛くない。

 でも。

 本当にそれでいいのだろうか?

 何かしら、自分と他の世界とを繋ぐインターフェースを僕は築き上げるべきではないのだろうか?

 相対的にしか存在し得ない僕の世界。この世の中で、それはどんな存在として決定される可能性があるのだろう?

 もちろん、それは全く無意味な事なのかもしれない。でも、少なくとも、それは試してみる価値のある事だとは思う。


 ……勘の良い人なら、もう気付いているかもしれない。この文章は、そのインターフェースそのものでもあるんだ。既に、僕はそれを築こうと試みている。……多分、僕は少しだけ、死ぬ必要があるのだと想う。

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[一言] 私は、愚かなことに、自分がありながら、人の基準で自分を見ていました。 人から受け入れてもらえない事が悲しかったのです。 他人からの評価が低い自分は、きっと無価値な人間なのだろうと・・・本当馬…
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