40.駄犬のしつけ
「ねぇ、もう寝た方がいいんじゃないのー?」
図書室で本を立ち読みしていた私に声を掛けてきたのは、リュコスさんだった。いつも通り軽い口調ながら、その黒い瞳は真剣味を帯びていた。
「何か御用ですか、リュコスさん。それに今の時間は、ライの仕事を手伝っているんじゃなかったですか?」
「別にずっと付き添う必要はないからねー。アイリちゃんがまだ寝てないのを、ご主人様も気にしてるっぽいしー?」
どういう理屈でまだ寝ていないのがバレているんだろう、と考えたところで、ふと、ある考えに行きついた。ライは自分を人間ではないと言っていた。それなら、ここで働いている人たちもそうなんだろうか、と。
「あの……リュコスさん」
手にしていた本を棚に差し戻して、向き直る。
「リュコスさんって、夜はライの仕事に付き添ってるんですよね? それなのに昼間によく会う気がするんですけど、いつ寝てるんですか?」
「あぁ、オレっち? いわゆるショートスリーパーだから、そんなに寝なくて大丈夫なの。心配してくれたの?」
「ショートスリーパー……」
具体的に一日の睡眠時間はどれくらいなんだろう、と疑問に思ったのがバレたのか、リュコスさんがにんまりとした笑みを浮かべた。そう、私をからかうときに見せるあの笑みだ。
「ま、一週間に6時間ぐらい寝れば十分かな?」
「はい?」
本を戻しておいてよかった、と思った。そうでなければ、絶対に落としていたに違いない。
「あれ? ご主人様から聞いたんだよね? ご主人様が人間からはみ出てるってこと」
「はみ出てる……」
そんな表現は使っていなかったが、吸血鬼に近い存在、というからには、そういうことなんだろう。表現が違うだけで受ける印象が全然違うけれど。
「そう考えればオレっちも、そういう存在なんだろうなーってことぐらい、簡単に予想できるっしょ?」
「そ……うですね。えぇ。リュコスさんの睡眠時間が少なくて済むのも、同じ理由ですか?」
「そういうこと。一週間に6時間は言い過ぎかもしれないけど、でも一か月に一度は丸一日寝るかな。あとだらだらごろごろするのは好きだよ?」
「そうですか」
最後の情報は至極どうでもよかったので、つい淡々とした相槌を返してしまう。邪険にしてもいいのかな、と一瞬だけ思ったけれど、リュコスさんだから構わないと判断した。
「……で、いつになったら決心つきそう?」
「っ」
ずっと頭の隅にあったことだけに、動揺が表に出た。頬が赤くなっているのが分かる。
「盗み聞き、ですか」
「違う違う。警護の関係上、聞こえちゃっただけー」
ひらひらと手を振る様子はいつも通り、だけれど、その目は笑っていない。
「早くしろ、っていう顔ですね」
「わかってくれて嬉しいな。だって、オレっちの仕事が、それで倍以上楽になるし、そう望むのは当然っしょ?」
「そこまで変わるんですね」
もちろん、リュコスさんの都合に忖度するつもりはない。これはこれで踏ん切りをつけるのが難しいことなんだから。
「あのまま雰囲気で流されちゃえば楽だったのに、どうして踏み止まっちゃうかねー?」
「リュコスさんは女心が分からない人なんですね」
「そう? 痛いのなんて最初だけ、それも吸われた直後なら酩酊感と高揚感で気にならないらしいよ?」
「そんなことを言われても、全然その気になりません」
「そう?」
リュコスさんが、ぐいっと私に近づいてくる。
「あんまり遅いと、貫く直前まで仕上げておいてご主人様の前に裸で献上しちゃうよ?」
「……サイテーですね」
「それだけオレっちも切羽詰まってるってこと。あ、まだ眠る予定が全然ないなら、これから実地で色々と教えられる時間があるけど――――」
突然、ゴスッという重い音がして、リュコスさんが動きをぴしりと止めた。
「おい、駄犬」
「急ぎの用がございましたかご主人様」
余裕綽々だったリュコスさんの目が泳いでいた。そりゃもう盛大に。間近にあるから余計にその様子が分かって、なんだかいたたまれない。
「来週の新規17人分に資料はどうした。刑期終了対象の資料のチェックも頼んだはずだったな?」
「はいはい、こちらには資料を置きに来ただけです、はい」
「駄犬、あんまりおイタが過ぎると、お前の飯は骨にするぞ」
「はいはい、かしこまりー!」
脱兎、という言葉がふさわしいと思えるほどに逃げていったリュコスさんを目で追ってから、私はゆっくりと視線を乱入者――ライに向けた。
「ご飯を骨にって、どういうこと?」
「リュコスは大飯食らいなんだ。肉ばっかり食ってる。そのせいで前居たところから追い出されたところを拾った」
「その肉を……骨に」
想像したらちょっと不憫になった。ほんのちょっとだけだけど。
「リュコスの言うことは気にするな。別にそこまで焦らせるつもりはない」
「ごめんなさい。私がうだうだしているせいだよね。仕事の邪魔もしちゃったし」
「ちょっとした気分転換になった。気にするな」
ぽん、と私の頭に手が乗せられる。決して大きくない手だけれど、なんだかホッとして、気が緩んだせいか眠気がようやくやってきた。
「ありがとう。もう、寝るね。ようやくだけど、眠くなってきちゃ……った?」
眠くなったはずなのに、一瞬で眠気が吹き飛んだ。私の視界の端にあるもののせいだ。壁から異物が生えている。いや、さっきまでは絶対になかったはず。
「あぁ、気にするな。後で修理させるから」
壁から生えていた――いや、めりこんでいた本を引き抜いたライが爽やかに笑う。そうか、さっきのゴスッっていう音は、これが壁に刺さった音だったのかー。
(本って、壁に刺さるものだったかな……?)
常識が揺らぐ音を聞きながら、私はライが図書室を出るのを見送ってから、のろのろと足を動かし始めた。
なんか、すごく、疲れた。今なら気絶するように眠れる自信がある。




