34.平常心が家出中
「アイリ、どうしたんだ?」
「ぇ……」
朝食を、と食堂へやってきたところ、入り口で顔を合わせた瞬間にライが心配そうな声を上げた。
「いやその、ちょっと……」
恋心を自覚して悶えていて寝不足なの、なんて言えるはずもない。言葉を濁して目線を逸らしたら、腕をがしっと掴まれた。
「アイリ?」
「ま、ままま、待って! ちゃんと話す! 話すけど!」
その探るような目つきは勘弁して欲しい。色気とかいろいろやばいから。
「けど?」
「あの……、ライ、仕事終わって疲れてると思うんだけど、朝食の後で、少し……時間もらっても、いいかな」
「いいかな、なんて可愛く尋ねなくても、アイリのためなら別に構わないよ」
「あ、それはダメ。疲れてるなら、睡眠を優先して欲しい」
「アイリは本当に優しいね。でも、本当に大丈夫だよ。今日はそれほど忙しくなかったから」
エスコートなのか強制連行なのか、テーブルまで連れて行かれてしまったので、私はそのまま席に着く。すぐにジェインが私の前にお皿を並べてくれた。
「それで、アイリはどうしてそんな顔なのかな?」
「あー、今日もパンがふかふかで美味しそうダナー! 毎日こんな美味しいものを食べられて幸せダナー……」
「アイリ?」
「しょ、食後! 食後にちゃんと話すから! 今はちゃんと食べよう?」
「……その言葉、忘れるなよ?」
少しばかり脅迫めいた低い声を出され、うぐ、とパンを喉に詰まらせそうになる。スープで流し込みながら、ちらりと真向かいに座るライを盗み見ると、優雅な手つきで食事をしていた。
「ライは、食事マナーとかどこかで教わったの?」
「ん? あぁ、外で食べるときに下手な食べ方をすると、そこを突いてくる面倒な貴族が多いらしいから、徹底的に仕込まれた」
「私も気をつけた方がいいよね」
「別に? アイリに貴族の社交をさせる気はないし、そもそも滅多にそういう場所には出ないから問題ない」
「そうなの?」
「うちは職能貴族、っていう話はしたよな。領地を持つ貴族と違って、仕事さえきっちりこなしていれば、そうそう足を引っ張られることもない」
「そうなんだ……」
侯爵家の次期当主の婚約者、という立場にビビッていたけれど、色々と頑張らなくても良さそうなのは助かる、と私は胸を撫でおろした。
「マナーを覚えたいっていうなら応援する。でも、そんなに焦る必要はないさ。時間はたっぷりあるし」
「たっぷり……って、そこまで物覚え悪くないと思うんだけど」
「そうか? でも、俺はマナーとかあまり気にしないから、無理に矯正する必要はないぞ?」
「私が気にするんだって……」
とりあえずはライの所作を見様見真似で頑張るしかないか、と小さく息を吐く。
朝食を食べ終えた私が立とうとすると、何故かライがすぐ傍まで寄ってきて手を差し伸べてきた。
「?」
「食後に話があるんだろ? 俺の部屋でいいか? それともアイリの部屋にするか?」
「あー……、えぇと、できるだけライの睡眠時間は減らしたくないから、ライの部屋の方がいいのかな?」
「へぇ?」
おかしい。常識的な判断を下した筈なのに、ライがニヤニヤと笑う。
「男の部屋に来る意味、分かってる?」
「ふぁ!? いや、そういうんじゃなくて、ただ……」
「わかってるよ。アイリがそういうつもりじゃないってことは」
「か、からかったの?」
「変に入ってた力が抜けたろ?」
そういうからかい方は逆に心臓に悪いからやめて欲しい。そんなことを言おうものなら、逆に「男性として意識している」ことを気付かれそうなので、ぐっと押し黙る。沈黙は金なり。
「アイリ? 怒ったか?」
「うぅん、ちょっと息を整えてただけ。びっくりしたから」
本当は平常心が戻ってくるのを待っていただけなんだけど、残念ながら平常心はどこかへ家出してしまったらしい。表向きは平静を取り繕えていると思うけれど、鼓動はドコドコやかましいままだった。
「あと、ライにしたい話をどういう順序で言ったらいいか、考えてる」
「別に取り留めない感じでもいいのに。いつもの本の感想を話してくれるみたいにさ」
「それをすると、いきなり結論だけ叩きつけて、絶対ライは混乱すると思う」
「え、それ面白そう」
「面白がらないでー……」
私の弱々しい反論に、ライは声を上げて笑った。




