11.さぁ、脱走だ
(やっぱり不気味だわ……)
彼女、ぜんぜん表情が動かなかった。この邸は使用人にどんな教育をしているのだろう。その一方で、使者――リュコスがあれだけ自由人なのだから、どうにもちぐはぐでおかしい。
(どんな人なのかしら、この邸の主って)
それはつまり、自分の婚約者ということになる。もちろん、そんなことになる前に逃げる気満々なのであるが。
(それにしても……おいしいけどおいしくないわ)
とりとめのないことを考えながら、私はもぐもぐと咀嚼していた。
今日は移動で疲れただろうから、という配慮の元、婚約者サマとの顔合わせは明日の朝に持ち越しとなった。それを伝えに来たのは、庭を案内してくれた彼女だ。名前を聞いてみたら、ジェインだと教えてくれた。ただ、相変わらず無表情だし無感動だし、正直なところ苦手な相手だ。
そのジェインが給仕をしてくれている前で、私は一人自室で夕食をとっている。正直、居心地が悪い。夕食がとても美味しそうだったので、それに釣られてしまった自分がうらめしい。気の許せない相手の前で一人食事を味気なくとるなんて、そりゃもう、どれほど美味しくても砂を噛むようなものよ。
「ごちそうさま」
並べられたお皿すべてを綺麗にして、私は心の中で合掌する。貴重な食べ物を無駄にすることはなかったけれど、味を感じなかったのは非常にもったいなかった。
「それでは、湯浴みの支度をして参りますので、お待ちくださいませ」
「湯浴み?」
「はい」
私は高鳴る胸を押さえながら「ありがとう」と何とか口に出した。
だって、湯浴み! お貴族様の習慣として、大きな桶に程よい熱さのお湯を満たして浸かるということは聞いたことがあるけど、どんなものか体験したことはないし! きっと気持ちいいんだろうし!
村ではせいぜい水に浸した布で体を拭くことしかできなかったし、街に住んでいたときだって大して変わらなかった。だって、水を汲む手間とお湯を沸かす手間を考えたら、どう考えたって不経済の極みだもの!
――――結論から言えば、とても湯浴みは満足だった。手伝いとしてあの無表情メイドのジェインが控えて何くれと世話を焼いてくれたのも許容範囲。まぁ、作法も手順も何も分からない状態だから仕方ないと諦められた。ハーブの香りが強めの薬湯を準備してもらったり、髪に香油を塗り込んでもらったり、ちょっとしたお姫様気分を味わった。
浴室は湯気に満ちていて、それなりに暑かったと思うのだけれど、お仕着せをしっかり着込んだジェインが汗一つかいた様子がなかったことだけが解せなかった。もしかして、できるメイドというのは、汗すらかかないものなのだろうか。私にはとてもできない。
そんな初めての湯浴みに心地よい倦怠感でもって、ふかふかの寝台に寝転がった私は、うっかり眠りに落ちそうになるのをすんでのところで堪えていた。
(幸いにも、婚約者サマとの顔合わせもしてないから、罪悪感はない。今のうちよね)
自分で整理するから、と頑なにジェインの手を拒んだカバンは、クローゼットの隣に置かれている。村長との結婚を前にまとめた衣類なんかは、すべてクローゼットに収めた。そして、あのズタ袋も。
(満月なのが逃げるのに都合がいいのか悪いのかは分からない。でも、自分で明かりを付けるよりは、月明かりを頼りにした方が目立たないわよね)
脱走という初めてのミッションに、恐れと高揚がない交ぜになっている。それでも、このままここに留まる選択肢はない。
ズタ袋から取り出した男物の上下に着替え、きっちり一つに編んだ髪は、襟から中に入れる。
(まずは、二階のこの部屋から下に降りる方法、よね)
さすがに馬鹿正直に玄関から出ることもできない。下手をすれば、この部屋のドアを開けたらそこにジェインが立っているかもしれないからだ。現に「何かございましたらベルでお知らせください」と言って下がって行ったから。一度だけしかベルを使ってはいないけれど、あの反応の速さからして、絶対に近いところに待機しているはず。
それでも、私にはちゃんと秘策がある。
私はズタ袋の中から丈夫なロープを取り出した。毛布とロープと路銀があれば、まぁ何とかなる。そう言ったのは誰だったか。それとも本で読んだのだったか。
私はズタ袋を落とさないように肩に引っかけて、そっとバルコニーに通じる大窓を開けた。昼間、庭から確認したけれど、バルコニーの手すりはなかなかに太い。
(これなら、大丈夫そうね)
ロープを通し、両側の二本の束をぐっと掴む。二度三度と引っ張ってみるが、びくともしない。
私はハンカチを手のひらを覆うように巻くと、ロープを掴んだまま、バルコニーの手すりを乗り越えた。腕がきしむが、元々、贅沢な食生活なんてしていない。まぁ、今日の夕食は美味しくいただいたけれど。毎日の家事や農作業もあって筋力もついているし、ロープをつたって降りるには十分だった。
(まずは、一つ目の関門突破というところかしら?)
ロープを回収して、周囲を窺いながら邸を囲う生垣に向かう。正門から見えるようなところを避け、植え込みでしゃがみ込みながら、じりじりと歩いた。不思議と人の気配はなくて、少しばかりお貴族サマのお邸の警備体制を高く見積もりすぎたのかと拍子抜けしてしまった。
(さて、問題はここよね)
庭園すべてがバラで、生垣もバラ。それでも地面まで隙間なく生えている、なんてことはなくて、地面すれすれには僅かに空間がある。バラは木で組まれたフェンスに絡むようにして生垣を作っているので、フェンスの足さえ気を付ければ、くぐれないことはない。高さがあまりないので、服が汚れるけど。ついでに傷もついてしまうかもしれないけれど。
(でも、塀を越えるのなら、きっとこの方法が一番手っ取り早いし)
この生垣を整えているであろう庭師に、心の中で謝罪をしてから、私は生垣の下に這いつくばった。ずるずると匍匐前進をすると、ところどころで髪が引っ張られるし、地面の小石も痛いで散々な思いをした。
「……っぷはぁ!」
ようやく生垣をくぐり抜けたところで、私はすっかり疲れ切っていた。手のひらと服の全面は土で汚れ、背中は何か所もトゲを引っかけてしまった気がするので、後でしっかり確認して繕わないといけないだろう。
でも……
(出られた……!)
運が良いのか、最悪、見つかることも想定していただけに、私は大きく息をついた。
達成感を胸に空を見上げれば、まん丸のお月様が私を照らしてくれていた。




