10.逃走経路を下見しよう
(うぅ、怖い……)
すーはーと深呼吸して、緊張で少し汗のにじんだ指で、私はベルを摘まんだ。予想以上に軽くて、壊すんじゃないかと余計に心配になる。
ちりん、ちりん
高く澄んだベルの音が、予想以上に大きく響き、私は危うくベルを手放すところだった。危ない。冷や汗をかきながら、慎重に銀のお盆に戻す。
ベルを置いたタイミングを計ったかのように、コンコン、とノックの音が聞こえた。
「お嬢様、お呼びになりましたでしょうか」
「あ、は、はい!」
少し返事が裏返ってしまったけれど、ドアを開いて姿を見せた女性は、特に気にする素振りもなかった。丈の長い黒いワンピースに白いエプロンは、この邸のお仕着せなのだろうか。
「ご用件を」
感情も見せずに淡々とした様子で尋ねられ、なんだか申し訳ない気分になる。他のお仕事があっただろうに、邪魔してしまってすみません、みたいな。
「あの、外の……お庭の散策をしてみたいのですけど」
「承知いたしました。ご案内させていただきます。ですが、お嬢様。わたくしどもには敬語などご不要です。かえって主の不興を買いかねませんので、どうぞお気遣いなく」
「あ、はい」
立て板に水のごとく淀みなくまくし立てられて、勢いに飲まれるように頷いてしまった。正直、ハードルが高い。それでも、そんなに年かさの人でないだけ、マシかもしれないけど。
(それにしても――――)
庭を案内してくれる彼女の後ろを歩きながら、考える。
(ベルを鳴らしてから到着するまでの時間、すごく短くなかった?)
ドアもきっちり閉めていたのに即座に反応されたことを考えると、廊下で待機していたとか? それなら、うっかり独り言も漏らせない。
そんな思いで彼女の後ろ姿を凝視していると、彼女はくるりと振り向き「何かございましたか?」と尋ねてきた。
「い、え、別に何も」
ありません、と続けたくなる言葉をぐっと飲み込む。敬語を禁止されてしまったので、どうしても語尾がとっさに変えられない。
そうですか、と淡々と答えた彼女は再び前を向いて歩きだす。顔はずっと無表情。さらに言うなら、声から感情の欠片も感じられない。お貴族様のお邸で働くためには、そういうスキルが必要なのかと考えたけれど、それならあの使者――リュコスは何なのだ、と思い直した。嫌われているとも考えたけれど、それなら悪意の欠片ぐらいは感じとれてもいいはずだ。なんだかとても気味が悪い。
「こちらの庭は、ほぼすべてバラで構成されております。もし部屋に切り花をご所望であれば、世話をしている庭師か私どもにお申し付けください。トゲで怪我などされては大変ですので」
「あ、はい、分かりまし……分かったわ」
まず敬語をやめろというのが、家庭内底辺にいた私には無理な話だ。それぐらい丁寧口調が染みついている。
「とてもきれいに整えられてい……るのね。そちらの生垣もバラなの?」
「はい。一季咲きのものなので今は寂しく見えるかもしれませんが、花の時期はとても美しく見ごたえがございます」
「そうで……そうなの」
油断すると、どうしてもですます口調になってしまうのを無理やり修正するが、彼女は気にした様子はない。
少し胸をなでおろして、私は改めて生垣に向き直った。この邸の敷地から出るためには、この生垣をどうにかして乗り越えなければならない。どこかに隙間とか……いや、あったら警備上すごく問題になるか。
生垣は外敵の侵入を防ぐ目的もあるのだろうけど、他のものよりもトゲが多く鋭い気がする。これは絶対に痛い。いやそもそも入る隙間なんて――――
(あれ……?)
地面との間に隙間ができている。彼女に見られている以上、しゃがんで覗き込んで確認はできないけれど、これなら痛みに耐えれば十分に通り抜けられそうな感じに見えた。
「あまりお近づきになりませんよう。万が一にでも怪我をしてしまえば、大変なことになりますので」
「あ、そ、そうね」
彼女の腕を引かれ、私は生垣から離れた。そして今度は四季咲きのバラの咲く一角へと案内される。
「とてもきれいね」
「このバラの庭は、代々の主が大切になさっておいでです。だからこそ、切って邸内に飾るようなことはせず、花の時期には主が自ら足を運んで眺めております」
言われてみれば、確かに私の部屋に花瓶はあったけれど、そこに飾られていたのは生花ではなくて、ガラスで作られた花だった。いや、私の目が節穴なだけで、ガラスじゃなくて宝石なのかもしれない。怖くて確認できないけど。
「そこまで代々の主が大切にされているのは、家紋にバラが含まれているから、とか?」
「いいえ、当家の家紋にバラはございません。ですが、バラはとても大切なものですので」
「?」
言い回しが微妙な気がするけれど、よく理解できない。バラがとても大切、というのは、バラを大事にしている、ということと違うのかしら。分からない。
はぁ、という曖昧な返事しか出て来なかったので、話題を探すために視線をぐるりと周囲にめぐらせた。
「あら、裏にも庭があるの?」
生垣と邸の間を通る小道の向こうに、何やら赤い花のようなものを見つけて尋ねてみると、彼女は首を横に振った。
「あちらはお見せできるような場所ではございません。こちらのような目を楽しませる庭園ではなく、単なる菜園ですので」
「ふぅん」
トゲだらけの生垣がぐるりと邸を取り囲んでいることが確認できたので、「少し冷えたみたい、もう戻るわ」と私は部屋に戻ることにした。




