留学生寮 前編
地元の新聞には、でかでかとバークレーの事件が掲載されていた。
日置は、記事を大学の図書館で読んだ。
サンフランシスコ空港の時よりも、扱いが大きい。新聞では、今回の銃撃事件が、空港の事件と同一の犯人による仕業である、という警察の見解を支持していた。着実に死者を増やす犯人が、未だ正体不明であることを重くみて、記事にしたものと思われた。
当初に疑われた、共産主義者によるテロ事件との見方は、完全に消えた。少なくとも、紙上では、そうした意見が見当たらなかった。
日置は図書館に備え付けの全紙のみならず、取りこぼした分を売店で買い求め、関連記事の隅々にまで目を通した。
どれを読んでも、日本人学生に疑いがかかっている、という記事を見出すことはできなかった。
警察もFBIも、本気で容疑をかけたのではない。日置は、ほっとした。
新聞にちらりとでも日置達の存在が仄めかされたら、講義どころではない騒ぎが持ち上がるかもしれない。講義に集中できない事態は、避けたかった。
国家権力も怖いが、マス・メディアも怖い。
ボブ、と呼ばれていた男性は、やはり香港から来ていた観光客であった。続いて倒れた若い男性は、ブランドというバークレーの学生であった。
ある大衆紙は、空港での犠牲者が資産家の老婆であったことと併せて、今回の犯行が金銭に困窮した者による恨みに端を発している、と示唆していた。
バークレーに通う中にも貧乏な学生だっている筈なのだ。例えば、オリヴァーみたいに。
一緒に講義を受ける学生が、日置達に銃撃事件について根掘り葉掘り尋ねる、などという心配は、杞憂だった。
身近で起きた事件である。話題に上るのは避けられなかった。
しかし、まさか日置達がその場にいたとは、誰も思っていなかった。日置が自ら打ち明けることはなく、宇梶や江上も、警察やFBIに疑いをかけられた話を、自慢話にするほど軽率ではなかった。
講義は滞りなく進んでいる。
週の半ばに、日置たちの住む寮とは別の寮生から、パーティに誘われた。大学が大きい分、学生を住まわせる寮もいくつかあった。
直接に誘われたのは、宇梶である。彼は当日の朝になって、1人で参加するのが急に不安になり、日置を誘ったのだった。
”今日、レオナルド達が寮でお茶会するのやて。お茶会言うても、お行儀よく座っとる必要なんかのうて、立ったまま気楽にお喋りするだけやねんけどな。一緒に来いへんか”
”急な話やな。僕がいきなり参加してもええの?”
レオナルドって誰やねん、とボケるのを省略し、日置は念押しだけした。彼は、宇梶と同じコースを受講する留学生仲間である。
”自分のカップと、みんなで食べるお菓子を1品持ち寄れば、ええのやて。構へん構へん。何や女子学生もぎょうさん来るらしいで。江上さんもどうや?”
と、宇梶は通りかかった江上にも、すかさず声をかけた。偶然通りかかったのではなく、宇梶と日置が話すところを見つけて、話を聞きにきたのだ。
”ほな、行くわ”
江上は、参加を即答した。
その日の昼休みに、構内のスーパーマーケットへ行って、持参用の菓子を買い求めた。このスーパーも大きいが、売り場に並んだ商品も、大きかった。
パッケージからして既に、特大である。1品で良いと聞いたが、参加者の数を知らされていない。初めての参加で、大体の数も予想がつかない。多過ぎた場合も考慮して、2種類の品を用意した。
持参するカップについては、大学の書店で大学のロゴ入りの物を手に入れた。
買ってから気づく。同じ留学生同士、カップがお揃いとなる可能性がある。そこで日置は、心ならずも買いたてのカップにマジックで”JOE H. “と書き入れなければならなかった。
その日の授業は、常になく早く時間が過ぎた。
パーティ会場は、寮にある共用室の一つであった。レオナルドの寮も、日置たちの滞在する建物と、似通った間取りだった。
早めに到着した日置達も、主催者側の学生と一緒になって、使わない椅子を端に寄せたり、持参した菓子などを並べたりするのを、手伝った。
開会の辞や来賓の挨拶といった堅苦しいことは一切なく、準備ができたら始まるという、日本人からすると締まりがなくて落ち着かないような、しかし気楽な集まりであった。
飲み物としてコーヒーと紅茶とジュースが用意され、どれでも好きな物を自分のカップに満たし、並べられた中から好きな食べ物を摘み、適当な相手を見つけてお喋りする。
そうやって、親睦を深めるのが、パーティの目的だった。
立食式である。決まった席がなく、立ったままなので、移動に遠慮がいらない。むしろ、あちこち移動し、次から次へと話し相手を変えるのが、普通の在り方であるらしかった。
時間が経つにつれて人数も増えた。パーティ会場が、バーゲンセール会場並みに混雑してきた。
レオナルドいる寮生ばかりでなく、宇梶や日置のように他寮の留学生や、留学生でない学生、たまたま来合わせた他大学の学生までが、姿を見せた。
学生どころか、教授までカップ片手に参加していた。宇梶の受講講座を受け持っていた。
他の教員も、見かけた。カップを持たずに顔だけ出して、お菓子を寄付すると、すぐに帰っていった。女子学生の姿は、宇梶が期待を持たせたほどの数ではなかった。そもそも絶対数が少ないのである。
日置はぐるぐると会場を回って、色々な人と言葉を交わした。今日、初めて話す相手がほとんどであった。
“名前は?”
“どこから来たの?”
“何を専攻しているの?”
顔ぶれは変わっても、訊かれる事、尋ねる事は大体決まっていた。特に、日置が日本人と知ると、この秋行われるオリンピックの話題を振られることには、やや閉口した。日置は、スポーツにすこぶる疎い。
それでも、普段会わない人々と話すのは、楽しかった。留学生達は、それぞれ出身国の言葉の訛りが混じった英語を、臆することなく話していた。
聞き取れなくても、例えば中国語を話せる学生とは、お菓子の包み紙に漢字を書いて意思疎通を図った。
それで本家では、簡略化された漢字が使われていると知ったのも、面白かった。
スペインから来た学生の英語には、歌うような抑揚があった。イギリスから来た学生には、日置の英語が美しい、と褒められた。
“やあ、ジョー”
“やあ……以前お話しはりましたか”
その男に声をかけられたのは、次から次へと目まぐるしく話し相手を変える最中だった。
人いきれによる部屋の熱気もあって、日置は、記憶を辿るのが億劫になるくらいに、のぼせた状態にあった。
まずは、失礼にならないよう、慎重に応じた。
“言葉を交わすのは、今日が初めてだな”
“同じ講座にいてはりましたか。失礼ですが、お名前は?”
“フレッド”
やはり、記憶になかった。同じ講座に属していれば、名前も顔もすぐに出る。
フレッドは、プラチナブロンドの髪を長めに切り揃え、七三分けにして余りを耳にかけている。
よく見れば、講座の学生達よりも、随分と年上であった。欧米的な外見は老けて見えることを考慮しても、日置とは一回りも違うように思われた。
一見、親しげな笑みを浮かべている。しかしフレッドの眼窩に嵌まる灰色の瞳は、冷たい光を宿し日置を見下ろしていた。敵意は感じられないが、同時に、何を考えているのかも、わからない。
彼の考えが、わからない。
日置は警戒しつつ、定番の質問を投げかける。
“何を専攻しはってます?”
フレッドは上体を折り曲げ、日置の耳元に口を近付けた。
“超能力、君と一緒。日本から遠く離れたアメリカにいるからって、調子に乗って馬鹿な真似はしない方が、いいぜ”
日置はフレッドを見返した。白々しくとも、惚けて誤魔化せる瞬間は、既に過ぎ去っていた。
代わりに言うべき言葉が見つからないまま、相手と向き合う。
と、フレッドは踵を返すと、人込みを器用に縫って、あっという間に部屋から出ていってしまった。日置は我に返って追いかけたが、ごった返す人の壁に阻まれた。
日置がようやく廊下に出た時には、何処へ消えたものやら、フレッドの気配を完全に見失っていた。




