ヘイトアシュベリー 前編
電話を掛けてみると、クライドは、自分のアパートの方に在宅していた。
日置が、彼と直接連絡を取るのは、初めてである。パーティへ招かれた際に連絡先を交換してはいたものの、宇梶を介した交流で、事足りていた。
バークレーで会ったのが、最後である。事件に遭遇して、何となく気まずい別れになった記憶が残っている。
“やあジョー。先週、ロサンゼルスで遊んで戻ったところなんだ。すれ違いにならなくてよかった。マーシーやナナは元気?”
クライドは、突然の電話に驚いた様子もなく、親しげな調子で話しかけてきた。電話口の向こう側にいては、表情も考えも読み取れない。
“ああ。2人共元気や。それで、もし明日空いとるようなら、こっちで知り合うた可愛い女の子を紹介するから、一緒にゴールデンゲートパークでも行かへんか、と思うて電話してみたのや”
“おお、いいね。ミランダには内緒だよ”
“もちろんや”
とんとん拍子に待ち合わせ時間と場所が決まり、電話を切った。
フレモントも、受話器を置いた。
透明な板によって仕切られた刑事の仕事場は、紫煙で霧のように霞んでいる。
互いに寄せ合った机の上には、どこも書類や何かが積み重なり、制服の警官や私服の刑事らしい人間が、ひっきりなしに出入りする。
向こうの話し声は、こちらまで届かなかった。
“これで、ええのですか?”
“まあ、そんなところだろう。明朝、婦人捜査官を迎えに行かせるから、今日は、2人とも、竹野くんの部屋で寝泊りするように”
“護衛も兼ねるが、見張りをつける。逃げるんじゃないぞ”
スコットが付け加えた。
そこで、2人は一応、解放された。警察署を出ると、竹野の自動車が、予め教えられた場所に、駐車してあった。
"車にも、盗聴器がついている。エロい話は、なしだ。寄り道はしない。見張りの手間を省いてやろう"
"了解。お世話になります"
英語を使って話す時点で、十分に協力的だ。きっと、日本語で話してもFBIは困らないだろうが、痛くない腹を探られるのも、面白くない。今の日置としては、日英どちらで話しても、支障を感じなかった。
車は順調に進んだ。途中、日置はあちこち見回してみたが、尾行の車を発見できなかった。
"クライドは、前もって、警察に協力を頼まれていたんじゃないかな"
竹野はごく普通に、運転しながら、会話する。
"そうでなければ今の時期、日置の提案に簡単には乗らないだろう。彼にしてみれば、お前と一緒にいると、必ず事件に巻き込まれる訳だから"
"僕のせいやないのやけど"
"まあな"
"竹野さんの推測が当たっとるなら、この囮捜査で、犯人は動かんのやないかな"
"チッチッチ"
竹野は舌打ちをして見せた。
"俺たちを駆り出す以上、動く見込みがある。動くように、彼らも裏で色々仕掛けているんだろう"
スコットが聞いたら、怒りそうな発言である。しかし、2人きりの車内には、何事も起こらなかった。
自動車は、賑やかな街へ入って行った。
竹野のアパートは、彼が学ぶ大学に近い、ヘイトアシュベリーという地区にあった。
集合住宅のような建物ばかりなのは他の地区と同様で、ただし、壁の落書きが家賃の低さを物語っていた。
その落書きの内容が、“戦争反対”だの、“世界に愛と平和を”だの、口に出して読める類いの言葉であるところが、如何にも学生の多く住む地区らしかった。
きれいに彩色された漫画のような絵もあった。素人の手によるものとは思えない出来栄えである。
それも落書きらしく、軽音楽の演奏会のチラシが容赦なく、絵を半分方覆い隠していた。
"煩いと眠れない性質なら、今のうちに睡眠をとっておいた方が、いい"
部屋に入るなり、竹野は忠告した。
シャワーとトイレ、洗面台のついた部屋はコンパクトで、簡素な鉄柵のベッドと作り付けのハンガーラック、本棚からなっていた。
『信州りんご』と焼き印のある木箱を重ねた物が、恐らくは机である。『温州みかん』の木箱は、食器棚になっていた。
本棚は満杯で、本の前に本や雑誌が積み上げられていた。感心なことに、概ね医学関係書らしい。日置の知らない単語が大分ある。見る限り、英字本ばかりだった。
そして煙草臭い。
"凄いね"
竹野はさっさと上着を脱ぎ、ハンガーにかけた。日置にも放り投げるように渡す。
"ここも盗聴されているだろう。探すのも面倒だから、そのつもりでいてくれ。ところで、一眠りしなくていいのか? 下でライブが始まったら、かなり響くぞ"
"ライブ?"
"洋楽聞かないのか? 1階が、生演奏を提供する飲食店なんだ。それで家賃が安い"
"……寝るわ。竹野さんは、その間どうしはるの?"
"明日の朝飯を、調達してくる。夕飯は下で食べられる。上品なところばかりじゃなくて、こういう場所も知っておいた方がいい。面白いぞ"
窓際に寄せられたベッドを借りて、横たわった。
外には、隣りの建物の壁が迫っている。
窓枠に小鳥が止まった。雀より一回り大きく、全体が濡れた灰のような色で、細長い嘴を持っていた。小首を傾げながら枠を行き来して、日置と目が合った途端に飛び去った。日置はカーテンを閉めて、目を閉じた。
こんなに明るいうちから眠れるものか、と思った割には熟睡した。
ずん、ずん、という震動で目が覚めた時には、出掛けていた筈の竹野は、とうに戻って、日置を待っていた。どこからか、賑わしい人声と音が聞こえてくる。
部屋の中は、薄暗い。
"よく眠れたみたいだな。夕食、入りそうか?"
"うん。お蔭さまで"
そのまま灯りを点けずに仕度し、部屋を出て階下の店へ入った。
最初通った時に、気が付かなかった訳が、わかった。
その時は、店のシャッターが下りていたのである。
今は、看板が光り、店の中からも灯りが漏れている。
さほど広くない店内には、小さなテーブルと椅子がごたごた並べられ、前面に簡易ステージが設えてあった。
今しも、エレキギターを抱えたグループが壇上にあって、演奏を始めるところであった。
たち込める煙草の煙が、演者の姿を霞ませ、思いがけなくも神秘的な効果を演出していた。
観客席には気楽な恰好をした若者が多く、前の方から順に8割方埋まっていた。
クライドような白人は少ない。様々なルーツを持つと思しき人々、東洋系でも、日本人ではなさそうな人もいた。
竹野達は、ステージから離れた隅の席を占めた。
ビールを注文した日置は、料理の方を竹野に任せ、これまで接したことのない世界に五感を向けた。
“あ、ビートルズや”
聞き覚えのある音楽が流れてきた。竹野は嬉しそうに笑った。
“ビートルズは、知っているんだな”
“竹野さんも好きなん?”
“悪くないね。ジャズの方が好きだけど”
日置がこうした店に入るのは、初めてだった。
レコードやラジオからではなく、演奏を直接聞く事は、もうもうたる紫煙さえなければ、楽しかった。
ビールだけが先に届いた。日本で見るより、小さめの瓶で、グラスがない。
竹野が瓶ごと持ち上げるので、日置も倣う。
“明日の成功を祈って、乾杯”
“乾杯”
アルコールが、喉に溜まった紫煙を洗い流し、すっきりとした気分になった。2人は一気に半分を呷った。
“上手くいくやろか”
“俺達が心配したって仕方ない”
料理が運ばれてきた。
海老の茹でたのが、山盛りで、半分に切ったレモンがついていた。
竹野はレモンを手で掴み、海老の上から絞った。
パンの中をくり抜き、クラムチャウダーを詰めたものもある。
それから、フライドチキンもあった。たちまちテーブルが、料理の皿で埋まる。
“こんなに食べ切れへん”
“食べなきゃ大きくならないぞ”
“身長なら、もう止まっとる”
互いに軽口を交わしつつ、2人は料理を頬張った。クラムチャウダー入りのパンは、独特の酸味があった。サワードゥブレッドという。
ステージでは、喧しい曲を演奏している。客が喜んで拍子を取った。
"プレスリーだ"
”なかなか喧しいね”
”そうか?”
竹野に言わせれば、ビートルズの方がよほど喧しい曲だということである。
“さっきの続きなんやけど、どうして上手く行くと思うん?”
周囲が騒がしいので、耳元に口を近付け、片手で耳を覆って声を出した。竹野も同じようにして言葉を返す。空いた手には、フライドチキンを持っている。
“奴にとって、またとない絶好の機会だからだ”
言葉を切って、竹野はチキンにかぶりついた。
何だかんだと日置も食べたので、皿の上はあらかた片付いていた。竹野が店員に合図して、コーヒーとアイスクリームを追加した。空き皿が下げられる。
“まだ食べるの?”
“甘い物は別腹と言うだろう。ところで、1本だけ吸ってもいいか?”
“煙草? ああ、どうぞ”
“ありがとう”
日置から許可をもらい、竹野は嬉しそうに煙草を取り出した。日置が煙草を吸わないのを知っていて、彼はずっと我慢していたのだった。
どうせ、紫煙に取り囲まれている。目の前で吸われたところで、状況に変わりはなかった。
店員が遠ざかったところで、日置は話の続きをせがんだ。曲が終わり、演奏者達は小休止していた。音楽の代りに話し声が高まったが、店内は少しだけ静かになった。
"奴は、空港でお前の存在を知った"




