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プロローグ

 「日置。俺も一緒に行けるようになったで」


 大学生協の食堂で、宇梶正敏(うかじまさとし)が話しかけてきた時、日置静(ひおきじょう)は危うく冷奴(ひややっこ)を気管へ入れるところだった。


 宇梶は彼の心中などどこふく風で、空いている隣の席へトレイを置いた。


 「それって、カリフォルニアの?」

 「せや。同じ大学の短期2週間コースや」


 簡単に言ってくれる。推薦状やらの提出書類を整える手間を除いても、先立つものがなければ、おいそれと思いつきで海外渡航などできない。


 同じ目的を実現するため、費用を計算しつつ年中バイトを切らさない日置とは対照的である。


 今在籍するのが自宅から通える国立大学でなかったら、いくらバイトをしても海外留学などできなかったろう。


 宇梶は、在阪財閥系企業の御曹司である。戦後、GHQに解体を喰らっても、庶民から見たら何の影響も受けていないように思われる。


 彼とは教養課程で英語のクラスが一緒だった、というだけの縁である。学部も違う。やや低めの身長に留まる日置に対し、電信柱と例えられる宇梶とは、何の共通項も見出せない。なのに彼は、しばしば日置に絡んでくる。


 「静くん、もう渡米の準備しはったのん?」


 男子学生が圧倒的に多いキャンパスに、如何(いか)にもな女の子の声が聞こえた。日置が顔をそちらへ向けると、声の持ち主が、トレイを持って立っていた。


 艶のある真っ直ぐな髪を背中まで伸ばし、カチューシャで前に落ちるのを止めている。


 幼馴染の江上奈々子(えがみななこ)だった。彼女も学部こそ違え、同じ大学へ通っているのは、女子の一人暮らしを懸念した彼女の両親が、自宅から通える学校を進学条件にしたから、と聞いている。


 ただ女子大なら、他にも自宅から通える学校がいくつもあったし、むしろ現在通うよりも近場にあったと思うのだが、娘ながらに親の財布を考えたのだろうか。下世話(げせわ)な話だが、彼女の家の方が日置家より数段裕福である。


 「今できることは大体したけれど。初めて行く大学やから、行ってみないとわからん部分はあるな」


 「せやね。私も西海岸へ行くのは初めてやわ。ニューヨークとか、ハワイとか、フロリダとかは行ったことあるんやけど、同じ国でも全然違うものね」


 そういえば、江上の家からは、舶来(はくらい)と思しき食べ物や置き物を貰った覚えがある。いくら渡航解禁になったからといって、庶民がおいそれと行けるものではない。

 そんなにあちこち回ったとは、怒涛(どとう)の勢いで出かけたものである。


 「俺、カリフォルニアにはちょいと詳しいで。よかったら、講義の合間に案内したる」


 宇梶が口を挟んだ。こちらも、滞在経験は豊富のようだ。

 彼は江上に好意を持っていて、今回急にサマースクールに参加を決めたのも、十中八九、彼女が日置と同じ大学へ行く、と知ったからであった。


 つまりは、日置をダシにして、江上に近付こうという魂胆(こんたん)である。


 宇梶は御曹司であるし、背も高く、顔もそこそこ良さげに見える。正面から言い寄ったら、断る女子がいるとも思えないが、存外に奥手のようだった。



 「2週間しかあらしへんのに、学外へ出る暇ないと思うわ」


 折角の勇気も、江上にバッサリ切られた。

 気の毒だが、彼女のいう通りである。ただでさえ、アメリカの大学はカリキュラムが厳しい。これはアメリカに限らず、むしろ日本の大学が緩いのである。


 「そしたら、スクール終わった後、気分転換で少し遊んでいかんか? 実は、シスコに別荘持ってるねん」


 宇梶は切り札を出してきた。いや、それいつ買ったのやろか。金だけで買えんやろ。彼の本気を感じ、日置は緊張する。

 バイトの日程もあるし、彼の作戦に巻き込まれたくない。


 「ほんま? ええなあ、それ。泊めてくれるのん?」


 悪い予想は当たる。江上が大乗り気で尋ねた。宇梶の表情が明るくなる。


 「当たり前やん。宿泊費タダやで」


 「やったっ! 静くん、1週間ぐらいなら、いいよね?」


 「無理」


 「だって、男女2人きりでお泊まりなんて、親が許さないもの。静くんが一緒なら、絶対大丈夫だから」


 「何なら、日当出そうか?」


 「いや、それは要らん」


 このやりとりで、日置を除く2人の間では、サマースクールに続いて、宇梶家の別荘に滞在することが決まってしまった。


 実のところ、バイトのシフトは、まだ流動的ではあった。初めての土地を見ておきたい気持ちもないではない。ただ、日置が気乗りしないだけである。


 「ほな、午後の講義あるで、先行くわ」


 食事を終えていた日置は、勝手に盛り上がる江上と宇梶を置いて、席を立った。宇梶から、感謝の眼差しを投げかけられたが、気付かないふりをした。

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