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桃郷百鬼夜行  作者: 龍宮群青
一 トンカラトン2・0の怪
5/15

③「奇怪機械! 怪人トンカラトン2・0の怪」

 時刻は午後六時を過ぎた頃。

 陽もかなり傾いてきた時分である。


 夜に向けて人通りが増えつつある下北沢の商店街に、ウィィというモーター音と、奇妙な歌が響いている。


「トン、とン、トんカラとン……♪」


 それはとても超現実的シュールな光景であった。


 包帯で全身をグルグル巻きにされ、青白い燐光をまとった男が、背中に日本刀を担いで、街行く人の間をセグウェイに乗って走っている。包帯には小さな文字でびっしりと何やら書かれており、それが怪人の奇怪さをより際立たせていた。その首からぶら下げたブルートゥースの小型スピーカーが、機械音声による間抜けな歌を延々とループ再生している。


「トン、とン、トんカラとン……♪」


 異様ないで立ち。

 その空間における明らかな異物。

 とびきりの不審者。


 ――だというのに、道行く人々はその男のことを一顧だにしない。まるでそこに存在していないかのように振る舞っている。


 包帯男の操縦するセグウェイが、道を歩くサラリーマンとあわや正面衝突しそうになる。しかしサラリーマンには見えていないらしく、全く動じていない。

 間もなく二つの人影がぶつかろうというその時、包帯男はすうっと亡霊のようにサラリーマンの体を通り抜けた。


「トン、とン、トんカラとン……♪」


 歌声を響かせながら、包帯男は何事もなかったかのように進む。


 妖怪がその身に宿す『幻想器官』を発動させた時、妖怪は妖怪化して、この世界とは異なるレイヤーに存在するようになると、黒谷紅駿は著作『幻想器官』で述べている。だから妖怪は、人の世に異能で干渉することが、一部の例外を除いて基本的にはできないと。


 ただし、ある状況化では、その制約が解除されるとも記していた。

 以下は『幻想器官』からの抜粋である。


「人が怪異を認識する条件は、以下の二つが満たされた時である。


・その時間にその場所にいると妖怪に遭遇すると、不特定多数の人間に信じられている時間と場所であること。ただし、日の入りの前後一時間――逢魔が時だけは例外的に、時間と場所を問わない。


・その怪異を認識する人間が自分一人でいるか、もしくは、その集団で一緒にいると妖怪に遭遇すると、そこで営む不特定多数の人間に信じられている集団でいること。


 この二つの条件がどちらも満たされた時、僕たち妖怪は人の前に姿を見せる。要するに、大事なのは妖怪に出会ってもおかしくないシチュエーションであること、というわけだ。


 そして、そういった妖怪を認識した人間の感情が、恐怖や性的興奮などによって大きく昂った時、妖怪は人間を『逢魔時空おうまじくう』へと誘うことができる。


『逢魔時空』は現実世界とも妖怪の世界とも異なるレイヤーに存在し、そこでは『幻想器官』を持たないただの人間に向かって、妖怪は異能の力を作用させることが可能になる。

『逢魔時空』とは、人とあやかしが重なる時であり、空間なのである」


 ――まもなく、日が西に沈もうとしていた。

 逢魔が時が近づいている。


 セグウェイでひた走る怪人は、手を振って友人と別れ、一人になった女子高生に目を止めた。それは下校中に都市伝説の話題を振っていた女子高生だった。


 怪人は進路を変え、女子高生に向かって背後からセグウェイで忍び寄る。

 魔の手を差し出す。


 〇


 女子高生は人気のない住宅街の路地を一人、家に向かって歩いていた。歩きスマホでSNSを眺めながら、薄暗くなり始めた道を行く。下北沢からは随分と西の方に離れ、どちらかというと隣駅の方が近いくらいの位置だった。


 彼女は曲がり角の近くまで来ると、不意にピタと足を止め耳を澄ませた。背後から何かが聞こえたような気がしたのである。


「トン、とン、トんカラとン……♪」


 奇妙な電子音声の歌声と、ウィィというモーター音が、微かに聞こえた。

 最初は幻聴か何かだと思った。


「トン、とン、トんカラとン……♪」


 しかし歌声は徐々に大きくなり、明らかに自分へと近づいてきている。

 それはもはや幻聴であると無視できる音量ではなかった。


 不安が胸を覆う。

 まさか――いや、しかし。


 友人と都市伝説を話してはいたが、あくまで半信半疑である。『幻想器官』によって、妖怪というものの実在は信じるに足るものであると思っていたが、まさか自分が現に遭遇しようなどとは想像すらしていなかった。


 だから、次には誰かのいたずらであると思った。

 いや、そう思おうとした。


「トン、とン、トんカラとン……♪」


 音はさらに近づいていた。

 背後に忍び寄る歌声と、セグウェイのモーター音。


 ――恐怖。振り返る勇気がわかなかった。


 彼女は速足で歩き始めた。ツカツカと音を鳴らして角を曲がる。

 この路地を抜ければ人通りの多い道に出る。最悪誰かに助けを求めることもできるだろう。


 ところがである。

 そこには人っ子一人いないではないか。


 そんなことがあるだろうか。まだ時刻は六時を過ぎた頃である。深夜というわけではないのだ。普段ならば駅から自宅へ向かう人が、何人も歩いているはずだった。


 女子高生は呆然と立ち尽くす。

 まるでゴーストタウンのようだった。人の気配を一切感じない。


 心なしか、空が何時もより赤く染まっているような気がした。


「トン、とン、トんカラとン……♪」


 ウィィ――。

 ピタ。

 セグウェイのモーター音が真後ろで止まる。


「対象、を、捕捉、しました」


 不気味な電子音声。

 恐怖で息が詰まりそうだった。

 女子高生は顔を引きつらせながら、ゆっくりと振り返る。

 そこには包帯を巻き、日本刀を背負ったでかい男が、セグウェイに片足を乗せて立っていた。


「――ひっ」


 彼女は思わず小さな悲鳴を上げた。

 面妖な出で立ち。怪人トンカラトン2・0は、都市伝説で語られるのと全く同じ格好をしていた。包帯に巻かれているため顔は見えないが、隙間から覗く虚ろな瞳がじっとこちらを見ていた。包帯にはびっしりと小さな文字が刻まれている。近くで見るとそれは、英文字の羅列られつであった。


 混乱する頭で努めて冷静に、都市伝説を心の中で思い返す。


 そう、対応さえ誤らなければ、命は助かるという話なのだ。トンカラトンと言えと言われたら、素直に従うだけでよい。

 女子高生はごくりと唾をのみ込んで、その一言を待った。


 しかしいつまで経っても包帯男は何も言わない。

 ただただじっと、そこに立っているだけである。


 怖い。早くこの恐怖から解放されたい。

 しびれを切らした彼女は、つい、たずねてしまう。


「……あの、トンカラトンって言えって、言わないんですか?」


 その言葉を受けて、ブルートゥースのスピーカーから妙に早口な電子音声が再生される。


「……対象、の、無断でのトンカラトンの発声、を、確認しました。ケース、1、の、音声を再生、します。『おい、お前。勝手ニ……、とンカらトんッて、言ったなッ! 勝手にトンカラとんって言ウ人間は、殺しマス。ごめんね』。再生、を、終了、します」


 ぶつ切りの電子音声の再生を終えると、包帯男は背中の日本刀を抜き去った。


「……へ? え?」


 包帯男はセグウェイから降りると、近寄りながら日本刀をゆっくりと振り上げ、女子高生に向かって振り下ろした。


 接近する鋭利な刃。


 どさ。


 女子高生は咄嗟の出来事に、尻餅をついて目をつむることしかできなかった。


 キィン。


 しかし待てども待てども、痛みがない。


 ゆっくりと目を開けると、そこには木刀で日本刀を受け止める、小さな少女がいた。

 自分と同じ高校のセーラー服を着て、犬のように見える白いお面を被っている。

 少女は木刀を振るって日本刀を弾くと、油断なく包帯男に相対した。


「何ぼさっとしてるの! さっさと立って逃げなさいっ! 邪魔よ!」


 少女に激を飛ばされ、女子高生は立とうとするが、足が震えて上手く行かない。そこへスーツを着た背の高い女性がやってきて、手を引っ張って起こしてくれた。

 その女性はひょっとこのお面を被っていた。


「大丈夫ですか? 災難でしたね。さぁ、早くこちらへ」


 女子高生は手を引かれて走り出す。


「あ、あの子は大丈夫なんですか!?」

「えぇ、大丈夫ですよ。彼女は正義の味方ですから」


 二人はひたすらに走って、やがて人でにぎわう商店街まで帰ってきた。

 大勢の人々がいる。いつも通りの風景――日常の世界である。

 女子高生は心から安堵した。


「あの、ありがとうございました。私もうホントに怖く……って?」


 お礼を言おうとして女子高生が振り返ると、ひょっとこの面を被った背の高い女性は忽然と姿を消していた。


 まるでそんなものは初めからいなかった、とでもいうかのように。


 〇


「さて、ここからは妖怪の時間ね」


 走り去る二人の姿をちらと後ろ目に確認すると、少女は犬の面を持ち上げた。もう顔を隠す必要はないだろうと判断したのだ。


 お面の下から現れたのは、犬塚生駒いぬづかいこま、その人である。

 犬塚と包帯男は、住宅街の無人の道路の真ん中に立ち、対峙していた。


「反抗を、確認、しました。妖力反応。これより、対妖怪用ジェノサイド・モード、に、移行、します」

「ちょっとあんた、何ブツブツ言っ……て?」


 包帯男の体が赤黒い光を放つと、全身の筋肉がみるみる膨張していく。包帯が隆起した筋肉によって部分的に弾け飛び白い肌が覗いた。

 変身を終えると、包帯男の体は二倍ほどに膨れ上がり、纏う燐光が青白い色から濃い紫に変わっていた。異形の化け物。


「ふん。醜悪ね」

「どうしました? 犬塚さん?」


 ヘッドセットのインカムから瓜園うりそのの声が聞こえる。


「包帯巻いた男が、急にやたらとマッチョになった」

「えぇ……? よ、よくわからないけど、油断だけはしないでくださいね。犬塚さんはまだ異能が使えないんですから」

「当たり前でしょ。最初から全力よ」


 犬塚は木刀を構えなおしながら、妖力をその身に纏った。青い燐光が彼女の体と木刀を包む。燐光を帯びた木刀は、刀身に水が流るる妖刀のようにも見えた。


 妖力とは、妖怪としての力を振るう為のエネルギーのようなものだ。妖力を纏った身体と道具は尋常を超えた力を発揮する。妖怪同士の戦いとはつまるところ、この妖力の削り合いであると言えた。


 戦いが始まる。


 包帯男は日本刀を構えて飛び掛かり、犬塚も同時に地を足で蹴る。

 振り下ろされる刃を木刀で受け流しながら、犬塚は跳躍して空中で反転、かかとで包帯男の側頭部に蹴りを放った。


 綺麗に決まる。ゴッと鈍い音を立て、包帯男は真横に吹き飛び、路上の電柱に背中を打ち付けた。コンクリートに亀裂が入る。


 犬塚は間断なく追撃。


 腰を落とした低い姿勢から地を蹴り、さながら一本の矢のように包帯男のもとへと急行。木刀をピンとまっすぐ伸ばし、加速の力と合わせた突きを放った。


”突技・通り雨“


 木刀は包帯男の鳩尾に深々と突き刺さる。


 その衝撃によって、亀裂の入った電柱は真っ二つに折れた。音を立てて倒壊する電柱を横に跳んで難なく躱すと、犬塚は木刀を肩に乗せて得意げに笑う。


「ふん。大した事ないじゃな……」


 いない。

 折れた電柱の下に倒れていなければならないはずの包帯男の姿が――ない。


 油断である。


 咄嗟に周囲の気配を探るが、遅い。

 包帯男はその巨体からは信じられぬスピードで動き、いつのまにやら犬塚の背後を取っていた。日本刀を豪快に薙ぐ。


「――くそっ」


 犬塚は刹那に、回避が間に合わぬと判断。

 代わりに妖力を集中させて防護を固めた。


 その甲斐あって、刃が犬塚の体を二つに切り裂くようなことはなかったが、今度は犬塚の体が衝撃で吹き飛ばされた。攻撃で破れたセーラー服から覗く素肌には血がにじんでいる。近くの家の前に駐車されていた車のボンネットにぶち当たり、犬塚の体は高々と弾んだ。


「犬塚さんっ!?」


 インカムからの声。


「平気よっ! こんなの!」


 中空でくるくると回りながら、きっと鋭く包帯男を睨みつけ、木刀を握る手に力を込める。

 包帯男とて、悠長に犬塚の着地を待つ義理はない。すぐさま日本刀を構えて追撃に移った。


「なめんじゃ、ないわよっ!」


 犬塚は自分を裂かんと振り上げられる日本刀に向けて、木刀を力の限りに振り下ろす。キィンと硬質な音が響いた。両者の身体は反発する磁石のように、上と下、それぞれの方向に弾き飛ばされる。

 結果、包帯男は前のめりに車のボンネットに倒れ込み、犬塚は回転しながら再度宙に舞った。


 ――否。


 犬塚に関しては、弾き飛ばされたというのは語弊があった。

 彼女は、弾いて、跳んだのである。


 天高く、あくまで主体的に。


 空中で回転する犬塚は木刀を一度大きく振るい、軌道の修正を図った。


「これでしまいよっ!」


 そして小柄な身躯をさらに畳んで、車輪のように高速で回転させつつ包帯男に向けて落下。重力と回転の力を加え、両手で握った木刀を猛然と打ち下ろした。


”局所集中・雨車軸“


 雨が激しく降ることを、雨車軸の如しとなぞらえる。

 その一撃は――さながら木刀による局所豪雨であった。


 放たれた技は包帯男の脳天を正確に穿つ。

 まるで鉄球でも落としたように、包帯男の体がボンネットに沈み込んだ。尋常ならざる圧力に耐え切れず、車体の前半分はバラバラに四散。さらにその下にあったアスファルトの地面までもが、クレーターのように抉れた。

 包帯男はその真ん中に落下した隕石のように、ピクリとも動かなくなった。


 犬塚は木刀を支えにくるっと軽やかに一回転すると、二、三歩よろけて着地した。

 激しい運動と妖力の消費によって、呼吸が若干乱れている。


「ふぅ。これにて決着ね。終わったわよ、咲芽さくめ


 犬塚はインカムに向けて報告を入れた。


「お見事です。犬塚さん!」

「ふん。私一人でも楽勝なのよ!」

「楽勝ってことはないでしょう。思い切り攻撃食らってたじゃないですか。息も荒いですよ? 怪我はないですか?」


 犬塚は腹部にできた切り傷を見やる。

 血は多少出ているが、深い傷ではない。妖怪は身体回復力も高いので、じきに治るだろう。どちらかといえば、肉体の傷よりも、妖力の消費の方が問題だった。ついかっとなって大技を打ってしまった。軽い脱力感のようなものがある。


「これくらい何てことないわよ」


 だが当然、犬塚はことさらに強がってみせた。

 犬塚生駒とは、そういう女である。


「それならいいんですが……。あまり無理はしないでくださいね。私も被害者を逢魔時空の外へお送りしたので、今からそちらに戻ります」

「了解。さて、それじゃあ私は、一足先にご尊顔を拝んでやるとしようかしらね」


 犬塚は地面に倒れ伏す包帯男に歩み寄り、まずは木刀でツンツンと突いてみた。反応がないことに安堵しつつ、足で蹴って体を反転させる。


 観察していると、包帯男の輪郭が緩やかに萎んでいった。

 元の大きさに戻るのかと思って見ていたが、どうやらそうではなく、男の体はミイラのように徐々に干からびていき、やがて白骨になった。


 後には包帯とブルートゥースのスピーカー、それから日本刀が残る。しゃがんで包帯をよく見てみると、びっしりと刻まれていた文字は、どうやら全て英語の文字であるらしかった。


「これは……ぷろぐらむ?」


 犬塚は機械に疎いが、何となくそうであるらしいことはわかった。


「プログラムがどうしました?」

「倒したやつを検分してたんだけど、包帯にびっしりと英語の文字が書かれてたから、プログラムなのかなって」

「……ふぅむ。それまた面妖な。ということは、相手は死体を操る類の異能の持ち主かもしれませんね。犬塚さん。それ、多分、妖怪本人ではないですよ。まだ周囲に敵が潜んでいるかもしれません。警戒を怠らないでください」

「……はん、こんなやつ私の敵じゃないわ! 何匹でもかかってきなさいっ!」


 初陣の勝利の高揚感が、犬塚の気を大きくしていた。


「犬塚さん、それ、フラグってやつじゃ……」



 ――然り。



 瓜園が言い終えるや否や、犬塚の耳に不気味な電子音声の輪唱が聞こえてきた。


「トン、とン、トんカラとン……♪」

 「トン、とン、トんカラとン……♪」

  「トン、とン、トんカラとン……♪」

   「トン、とン、トんカラとン……♪」


 歌声は四方からゆっくり近寄ってきている。

 犬塚は恐る恐る視線を上げた。


 かくしてそこには、新たな包帯男が立っていた。振り返るともう一体。首を振れば左右に一体ずつ。全部で四体。


 要するに――犬塚はいつの間にか囲まれていたのである。


「ヤバい、咲芽。新しいのが四匹も……」


 犬塚の顔が引きつった。

 包帯男たちはすでに筋骨隆々の姿に変身を終えて、日本刀を構えている。

 犬塚も慌てて妖力を身に纏い、臨戦態勢を取った。


「もうっ! だから言ったじゃないですか! すぐ逃げましょう! もう被害者はいないんです! 逃げるが勝ちという言葉も――」


 瓜園が言い終わるのを待たず、包帯男の集団は一斉に切りかかった。


 キィン。


 犬塚は咄嗟に反応。背後からの斬撃を木刀で受け止めつつ、前方からの攻撃は身をそらして回避。微かにタイミングがずれた左右からの切込みは、そのまま流れるようにゴロゴロとアスファルトを転がり何とか躱す。


「くっ……!」


 態勢を整える間もなく追撃が来る。正面からの攻撃はどうにか受け止めるが、死角からの横薙ぎを躱せず直撃を受ける。


 ――ドっ。


 妖力でガードしていても僅かに貫通した斬撃によって、体から血が噴き出した。先ほどよりも深い傷だ。犬塚は水面に投じられた小石のように二度三度アスファルトを跳ね、青い燐光の尾を引いて、民家の壁に穴を開けて突っ込んだ。


「犬塚さんっ!?」


 瓜園の悲痛な叫び。


「うるさいわね! 生きてるわよ!」


 犬塚が吹き飛ばされた先は無人のリビングだった。

 ここは逢魔時空――現実とは異なるレイヤー。現実においては今も、家族が団らんを繰り広げている空間なのだが、逢魔時空では無人の戦場となる。

 自分とは異なる妖怪が張った逢魔時空から抜ける為には、相手が完璧に見失うくらいに遠ざかる必要があった。現状、その条件を達成するのは難しそうだ。


「あはは。こりゃ、初任務でいきなり殉職? 伝説じゃない?」


 犬塚は自嘲した。


「犬塚さん! 馬鹿言わないでください! 諦めてはいけません! そうだ、私が囮になります! 今からそちらに向かいます! その間に逃げてください! 私は戦闘では大して役に立たない妖怪です! 犬塚さんが生きた方が、世のため人のためになるってもんです!」


 瓜園は明るい声で言った。わざとそうしているということがわからぬほど、犬塚も阿呆ではない。弱気になった自分に喝を入れるように叫ぶ。


「あんたこそ、馬鹿言ってんじゃないわよっ!」


 犬塚の後を追って、二体の包帯男がリビングに突入してくる。

 彼らが放つ太刀を一つは受け止め、一つは躱し、素早く戸を開け放って廊下へ踊り出る。靴音をドタドタと鳴らして目の前にあった階段を一足飛びで駆け上がり、表札のかかった扉を蹴破った。


 中はぬいぐるみの並ぶ子供部屋だった。背後からは接近する足音が聞こえる。

 犬塚は迷わず、窓に向かって前転でダイブした。粉々に砕けたガラスの破片が、キラキラと西日を反射しながら飛び散る。


 屋根に出ると先回りしていたのか、包帯男が二体、犬塚を待ち構えていた。

 顔がゆがむ。


「調子に……乗るなぁっ!」


 木刀を半月を描くようにして振るう。

 一体にクリーンヒットするが、お返しと言わんばかりに、もう一体による攻撃をもろに食らった。


 屋根の傾斜を転がって地面に投げ出され、後頭部をアスファルトに強かに打ち付ける。いくら妖怪がタフな体をしているとはいえ、さすがにダメージが大きい。手をついて起き上がるが、どうにも足元がふらついた。

 傷が痛む。手で腹を抑えると、血がべったりとついた。


「くそったれ……」


 包帯男の集団は舌なめずりをするように、ゆっくりと犬塚の元へと歩みを進める。


 犬塚の視界が涙でにじんだ。


 絶体絶命であるということが、今更ながらに、無意識に、理解できてしまったのだ。

 すると途端に、体がガタガタと震え始めた。


 恐怖――である。


 自分がまさか、こんなに情けないとは容易には信じられなかった。これまでずっと、戦闘の訓練を積んできたのだ。少し劣勢に陥ったくらいでこの様かと、自分を鼓舞する。


 しかし――怖いものは、怖いのである。


「助けて……誰か……」


 思わず、誰にも聞こえないような、か細い声を漏らしてしまった。


 〇


 夕暮れ。下北沢の商店街を人波を縫うように走る男が一人。

 猿田正太郎である。


 彼は今にも泣きだしそうな顔をしていた。

 未だ何一つとして、気持ちの整理はついていない。


 しかしアラートを聞いたその時から、彼の身に宿す呪いが叫ぶのだ。


 走れ。

 いいから黙って足を動かせと。


 気づけば天狗とオロチの装備を全て身に着け、家を飛び出していた。

 猿田が腕に着けた電子端末の液晶には地図が表示されていた。GPSでも仕込まれているのか、矢印が南西の方角を差し示している。それが猿田には急かしているように感じられ、心臓の鼓動がさらに速くなった。


 ――ドクン。


 そのとき不意に、頭に付けたヘッドセットのインカムから、ノイズ交じりの微かな声が聞こえた気がした。


〈助けて〉


 そう聞こえた気がした。

 気のせいかもしれない。

 しかしそうかもしれないと思っただけで、彼の身に宿った呪いは激しく暴れる。


 ――ドクンドクンドクンドクン。


 猿田は歯を食いしばる。


(えぇい、こうなったら仕方ない……)


 猿田は人の目を盗み、商店街の通りから狭い裏路地に入った。

 周囲を見渡し、誰にも見られていないことを確認すると、その身に宿す妖怪としての力を発揮する為の、『妖化の言霊』をやけくそ気味に叫ぶ。


「天・身っ!」


 瞬間、猿田の体が真っ赤な燐光に包まれた。妖力が全身に満ちていく。


 ――説明しよう。

『妖化の言霊』とは、人の身から妖怪へと変化する為に、発する必要のある言葉である。その言葉の内容は人それぞれだが、共通しているのは、それが最も自分の感情が昂る言葉であるということだった。他の妖怪の名誉の為に補足しておくと、全員が全員、こんな変身ヒーローみたいな掛け声を叫ぶわけではない。


 猿田は肩に提げた鞄から天狗のお面を取り出して被った。

 それから商店街の通りに戻る。そこには大勢の人が歩いているが、皆一様に幽霊のように半透明であった。猿田の体を、人々が何食わぬ顔で通り過ぎていく。


 それが妖怪の目で見る世界であった。

 妖力をその身に纏った妖怪は、ただの人とは異なるレイヤーに存在するようになる。妖怪はただの人に干渉できなくなるし、ただの人はその存在に気づけなくなる。

 そしてそのように妖力を纏った妖怪は、異能の力を行使することが可能になる。


 猿田正太郎――下北沢の大天狗。

 彼が宿した異能は『念動力』。

 触れているものを念じたように動かす力。


 猿田は腰にベルトのように巻いていた荒縄を手に取り、電柱の上部に向けて放り投げた。荒縄は中空でうねりながら意思を持った蛇のように進み、電柱にグルグルととぐろを巻く。

 猿田は軽く引っ張って具合を確認してから、地面を蹴りつつ念動力で縄を巻き取った。


”猿田天狗道第一一手 蜘蛛の糸“


 上昇する力と引き寄せる力が合わさり、猿田はさながらカタパルトのように天へと射出される。


 下北沢の空に大天狗が舞い上がった。


 上から街を見渡すと、腕の電子端末が指し示していた方向に、赤いドームのようなものができていた。逢魔時空である。


「あそこか……」


 猿田は家の屋根に着地すると、街路樹や雑居ビルの看板、信号機などに次々と荒縄を巻き付け、木々を渡る猿のように現場へと急いだ。


「こうなりゃ自棄だ! やってやらぁ!」


 彼の瞳には久方ぶりに生気が宿っていた。

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