②「雨の記憶、あるいは、灰色の夢①」
猿田は畳の上に大の字になって寝ころんでいた。
二人が帰ってしばらく経つと、呪いによる動悸は落ち着いた。しかしそれでもなお、棘が刺さったような、チクチクとした違和感が残っている。
聞いてしまった――犬塚という少女のことを、わずかにでも知ってしまった。関わってしまった。瓜園と犬塚は、猿田の世界に土足でズカズカと踏み込んできたのだ。
「やり方が汚いだろうが……」
思わず独り言ちる。
妖怪がその身に宿した呪いは渇望のようなものである。自分の意志とはほとんど無関係に、呪いは妖怪に行動を促すのだ。
猿田がその身に宿すは【救迫観念】。
困っている人を助けずにはいられない呪い。
むくりと起き上がり、ぼりぼりと頭をかいて、ちゃぶ台の上に置かれたA4用紙に目を向ける。しかし手に取ることはない。彼はこの期に及んで、見ざるの理念を諦めきれなかった。読む決心がなかなかつかない。
瓜園は事件の資料と言っていた。事件の詳細についてなど知りたくもなかった。しかしもしも読まないで捨て置けば、犬塚の身に何かがあった時、知らないでいたということそれ自体によって、呪いが身を焦がすことが想像できた。
かといって、事件とやらについて知ってしまったら、それはそれで呪いに苛まれるわけであり、猿田にとっては前門の虎後門の狼とでも言うべき状況であった。
にっちもさっちも行かぬ。
猿田はしばらくそうして、あぁでもないこうでもないと葛藤していたが、おもむろに立ち上がると、のそのそと歩いて仏壇の前で胡坐をかいた。
父親の遺影と骨壺が置かれている。猿田の心境など露知らず、父親は額縁の中で能天気に決め顔である。
「これでは深刻な気分になれんだろうが……」
亡き父に問いかけるなどして、ヒロイックな気分に浸ってみようとしたのだが、眺めているうちにそんな思惑は霧散してしまった。
とたんに悩んでいるのが阿呆らしくなってくる。
猿田はパタと後ろに倒れて仰向けになった。
(…………ダメだ。寝よう。考えるのはやめだ)
下手な考え休むに似たり。ならば寝た方がお得というものである。
昨夜は遅くまでテスト勉強に励んでいたので、純粋に寝不足ということもあった。
座布団を枕にして目を閉じると、すぐに眠気が猿田を包んだ。
目を閉ざすことは彼の得意とするところだった。
そして猿田は――夢を見る。
その夢は、身に宿す呪いの産物、あるいは、父親との過去の記憶であった。
〇
それは雨の記憶である。
その日は朝からずっと、しとしとと雨が降っていた。
それは灰色の夢である。
全ての景色がモノクロの、色の無い世界であった。
「なぁ、起きろ正太郎。これから連れていきたいところがあるんだ」
亡くなった母親の葬儀が終わって一月ほど経った、土曜日の朝のことだった。
猿田光太郎は居間に敷いた布団で眠っていた息子――正太郎を起こし、車の助手席に乗せた。当時はまだ正太郎も小学六年生の子供であり、今よりも随分背が低く、あどけない顔立ちをしていた。
しかしその表情には、一切の生気がなかった。高校生になった彼のように、覇気がない等という次元ではない。
ただひたすらに虚ろであった。さながら糸で操られた意思なき人形のようである。
無理もない。彼はほんの一月ほど前に、母親が自分の目の前で黒こげの焼死体になるのを見たのだ。まだ若く美しい容貌だった母の面影を、一切残さぬおぞましい焼死体。
母はとある悪い魔術師に人質として攫われた正太郎を助けに向かい、そして息子を庇って焼け死んだのだった。
当然、その光景に正太郎は恐怖した。震えが止まらなかった。だがそれ以上に彼は、自分があのような異能を持つ人間と、戦わねばならぬ運命にあることを恐れた。
自分は死んだ母親のように、脅威に対して勇敢に立ち向かえるだろうかと自問した。そしてその度に否と自答した。
繰り返すうちに彼は、感情を摩耗させていったのである。
車は高速道路に乗って北に向かっていた。道中の車内には重い空気が漂っており、光太郎は時折冗談を言ったりしてみたものの、正太郎はほとんど無言を貫いた。
やがて光太郎も諦めて口を閉ざした。
二時間ほど走り、目的地の近くのインターで降りて、信号で止まっていた時である。
「俺たちはさ、まったくもって、呪われた一族だよな」
光太郎はぼそりとそんなことを言った。
「うん」
正太郎は窓についた水滴をぼんやりと眺めながら、感情の希薄な相槌を返した。
「困ってる人を放っておけない、正義のヒーローという呪いを宿した妖怪。もうちょっとマシな言い方をすると、使命とか宿命ってところか。まぁ……呼び方は何でもいいや。とにかく俺たち猿田の一族は、そういう妖怪の家系だ。俺の父ちゃんも、そのまた父ちゃんも、さらにそのまた父ちゃんも。オロチができるずっと前から、悪い妖怪と戦って、いくつも怪異を解決してきた。鎮守の家系――下北沢の大天狗様、ってわけだ」
「うん」
それは正太郎にとって当たり前のことだった。ならばこそ、幼い頃から父親に、天狗としての戦闘術を学んできたのである。
なぜそんなことを改めて説明するのか、甚だ疑問であった。
「だけどさ、それは俺の代で終わりにしようと思うんだ」
「……え?」
正太郎にとって、その一言は青天の霹靂であった。
小さなころから、鎮守の家系に生まれた妖怪としての自覚をもって生きてきたのだ。戦闘術の鍛錬にも身を入れて取り組んできた。
だからこそ、父の言葉に耳を疑った。
「つまり、お前はもう、誰とも戦う必要はないって言ってるんだ。お前にはどうか平穏に、心安らかに生きてほしい。俺や母さんみたいに無理して戦うことはない。最近はオロチっていう組織もできたんだ。鎮守の家系の人間だけが、責任を負う必要はないんだよ」
「でも、そんなこと言ったって、僕にも呪いが宿ってるじゃないか」
「だから……お前をここへ連れてきたんだ。ほら、着いたぞ、降りてくれ」
そこは日光東照宮の駐車場であった。
光太郎は車から出て鍵を閉めると、傘を差し、正太郎の手を握り道のりを歩き始める。
「なんでこんなところに?」
「見せたいものがあってな。この前お前のこと、俺の同僚の友達に相談してさ。頭の良いやつなんだ、そいつ。で、それだったら良い考えがあるって教えてもらって、なるほどなって思ったから、お前にも教えてやろうと思ってさ」
「友達……?」
「まぁ古くからのライバルっつーか、腐れ縁っつーか、そんな感じのやつだ」
二人は天に高く伸びる杉並木の道を行く。
石段を登り、鳥居をくぐり、入場券を買い求めて仁王門を抜けようとした時、光太郎は立ち止まって二体の金剛像を順に指差した。
「あれはさ、阿形と吽形っていう、この神社を守る神様みたいなもんだ」
正太郎には両サイドに並んだ金剛像がひどく恐ろしいものに見えた。口を開けた像は怒りを露にし、口を結んだ像は怒りに震えているようだと感じた。
「口を開いた像が宇宙の始まりを、口を結んだ像が宇宙の終りを表現してるんだと。そこから考えるにな、吽ってのは誰かの発した言葉を、全部ひっくるめて飲み込む言葉なんだ。だからさ、もしもこれから俺が言うことに、お前がちゃんと納得してくれたら、その時はうんって言ってくれ。わかったか?」
「……うん」
「よーし、良い返事だ」
光太郎はニッと笑ってみせた。
仁王門を抜けると広大な境内が広がっていた。自分の家である天狗寺とは随分違うなと思ったものである。
光太郎はそのまま道なりに進み、神厩舎(※神の使いとされる馬を飼育する建造物)の前で立ち止まって、上の方を指差した。
「正太郎、あれを見ろ。あれがお前に見せたかったものだ」
そこには三匹の猿の彫刻があった。
色の無いこの夢の世界の中で、その三匹だけが鮮やかな色彩を放っていた。
左の猿は目を塞ぎ、真ん中の猿は口を塞ぎ、右の猿は耳を塞いでいる。
「あれはな、三つの猿と書いて三猿っていうんだ。お前も聞いたことあるだろう? 見ざる・聞かざる・言わざるってやつだ」
「うん」
「俺はさ、お前にはこれから、ああいう風にして生きてもらいたいんだ」
「なんで?」
「お前さ、戦うの、怖いんだろう?」
「……うん」
「でも、困ってる人がいるって知ったら、呪いのせいで苦しいだろ?」
「……うん」
「だったら、あぁやって、目を耳を口を塞いで、色んなことを知らないようにして生きればいい。そうすれば戦わなくてすむし、呪いで苦しまなくてもいい」
「……でも」
正太郎は口ごもる。
それは確かに魅力的な提案だった。この身を襲う恐怖と立ち向かう必要がなくなるのだ。しかしそんな情けないことが許されるのだろうかと素朴に思った。
罪悪感を――感じた。
「お前が罪悪感を感じる必要はない」
父はそんな息子のことを見透かしたように言う。
すっと心のつかえが取れるようであった。
「いいか? これは俺の我儘でもあるんだ。お前に死んでほしくないっていう我儘だし、困った顔をするお前を見たくないっていう我儘でもある。だからお前が悪いと思う必要は全くない。お前の分も、俺が戦う」
正太郎に向き合って言葉を続ける。
「だから正太郎。お前はあの三匹の猿のように生きるんだ。あらゆることから目をそらせ。あらゆることから耳を塞げ。あらゆることに口を出すな。困っている人間を放っておけないというのなら、困っている人間がいるということを知らなければいい」
光太郎が言い終えると、途端に三猿の彫刻が眩い光を放った。
光は拡散し、世界を照らし、そして夢に色が取り戻される。
それは三猿の叡智が正太郎の胸に刻まれた瞬間であった。
「うん」
正太郎ははっきりと頷いた。
この夢はいつもここで終わる。
〇
そして猿田は目を覚ました。
寝て起きたことで、随分と頭はすっきりとしている。壁掛け時計に目をやると、間もなく六時になろうとしていた。
夢を見ていたことははっきり覚えていた。
今は亡き父との記憶。
あるいは心象風景か。
猿田はあの日以来、父の言うとおりに、何かを知ることを徹底して避けてきた。
最初のうちは半信半疑であった。そんな風にして生きることが果たして自分にとって良いことなのかと自問したものだ。
しかし自分に無理やりにでも言い聞かせて三猿の叡智を実践しているうちに、いつの間にかそういう風にして生きることが当然となっていた。
狂人の真似とて大路を走らば則ち狂人なり。
半信半疑で実践していた猿の真似が、いつしか猿田という人間を塗り替えていた。
猿田はむくりと起き上がり、箪笥の引き出しを開けた。
そこには鉄扇、六節棍、荒縄、それから真っ赤な天狗の面が入っていた。
自分の分と、父親の分。それぞれ二つずつ。
これらは猿田の家に代々伝わる戦闘術、『天狗道』に用いる装備である。
天狗道は一子相伝の武術であり、妖怪としての異能を活かす術である。
猿田の家に産まれ、【念動力】の異能を宿した者として、彼も幼少の頃から天狗道の手ほどきを受けていた。長いブランクこそあれど、戦うこと自体はできるはずだ。父のようにはいかないだろうが、犬塚という少女に手を貸すことくらいはできるだろう。
――ドクン。
犬塚の涙が脳裏によぎり、救迫観念の呪いがざわめいた。
瓜園は〈助けてくれ〉と救いを求めた。
――ドクン。
呪いが苛む。猿田は胸を押さえた。
「ちくしょう……」
しかしやはり、なかなか決心がつかなかった。
母親の死がフラッシュバックする。
幼い頃の炎の記憶が、猿田を縛る。
依然としてふんぎりがつかなかった。
その時である。ちゃぶ台の上に置かれた電子端末が、けたたましいアラートを鳴らした。瓜園が置いていったものだ。
それは明らかに、緊急事態が発生したことを告げていた。
――ドクンドクンドクンドクン。
猿田の心臓は、これまでにない程の早鐘を打ち鳴らしていた。