①「下北沢の大天狗」
元号が令和に変わり、ゴールデンウィークも終わった五月のことである。
春のうららかな日差しの中、高校生の集団が下北沢の商店街を歩いていた。
どこにでもある下校風景。
本日は中間テストの最終日ということで、時刻はまだ昼を過ぎた頃だった。
「ねぇ知ってる? トンカラトン2・0の話!」
髪を明るく染めた活発そうな女子高生が、隣を歩く友人たちに話を振る。
「聞いた聞いた。SNSでも流行ってるし。あれでしょ? トン、トン、トンカラトン♪とか歌いながら、全身包帯巻きの男が自転車で近づいてきて、トンカラトンと言えーって言うんでしょ?」
「そうそうそれそれ! で、言わなかったら日本刀で殺されて、自分も包帯に巻かれてトンカラトンになっちゃうってやつ」
「こわーw」
「でも何が2・0なん?」
「それが――」
女子高生は少しためを作る。
「――2・0は自転車じゃなくて、セグウェイに乗ってるんだって」
「くだらなーw」
「進化するとこ間違ってるっしょ絶対。むしろ退化してね?」
「セグウェイ乗った男が近寄ってきたら包帯巻いてなくてもビビるくない?w」
「ねー、事案だよねー」
「てか街中でセグウェイ乗ってるやついたらビビるっしょ」
「それな」
「じゃああれ、『タピオカおじさん』知ってる?」
「知ってるー。あれでしょ? 一人で――――」
キャイキャイと黄色い声をあげ、都市伝説で盛り上がる女子高生グループ。
その少し後ろを友人と連れ立って二人で歩く男――猿田正太郎は、危険を察知し、そっとイヤホンを耳に突っ込んだ。
音楽が世界の音を上書きする。
音楽を聴くことは、彼が耳を塞ぐ代わりに取る手段であった。『トンカラトン2・0』は以前不注意で知ってしまったので諦めていたが、『タピオカおじさん』なる新しい都市伝説の知識を仕入れたくなかったのである。
だから耳を塞いだ。
ささやかな自己防衛の手段。
猿田は黒のくせっ毛と、青く澄み渡りながらも死んだ瞳が特徴的な男だった。西洋人とのハーフで、顔の作りは悪くないのだが、その表情には微塵も覇気がなく、山羊が学ランを着て歩いているようであった。
彼のことを端的に表するならば、『何かを知ることを極端に恐れている男』であった。
何かを知ってしまえば、それは自分の世界に取り込まれ、自分の世界が拡張してしまう。
そのことを彼は恐れ、徹底して避けていた。
ゆえに『見ざる・聞かざる・言わざる』が彼の行動理念となっていた。
素晴らしきかな、三猿の叡智。
以前日光東照宮を訪れた時、清々しいまでにみっともなく、目を、耳を、口を塞ぐ三匹の猿の姿を見て、感銘を受けたものである。それ以来、あぁいう風に生きると決めた。
見ざる――あらゆることから目を背けた。
聞かざる――人の話には耳を塞いだ。
言わざる――無関係なことに口を挟むことをやめた。
猿田正太郎とは、そういう風にして生きている男であった。
「おーい、猿田! お前、また都市伝説にビビってんのか?」
隣を歩く友人――遠藤翔太が猿田の耳元で言う。イヤホンで耳を塞いでいても、さすがにこれだけ近ければ聞こえてしまうというものである。
「そうだよ、都市伝説の話は終わったか?」
「あぁ、終わったよ。今は履いてるパンツの色について話してる」
「なんだと!」
猿田はカッと刮目し、素早く耳に入れていたイヤホンを抜き去った。
「バーカ。そんなわけあるかよ」
遠藤はクックと笑う。
「だましたな!」
「まぁでも、もう終わってただろ? 都市伝説の話は。それより猿田――」
遠藤は行列を作るタピオカ屋の前でピタと立ち止まった。
「タピろうぜ」
それがタピオカ屋に人を誘う動詞であると理解するのに、猿田はしばし時間を要した。
「遠藤。落ち着け。俺たちはJKじゃない」
「知ってるよ、んなこと」
「何が悲しくて男二人でタピオカ屋の行列に並ばにゃあならんのだ」
「猿田。タピオカ屋に並ぶ程度のことを恥じるお前の心根の方が俺は悲しい。タピオカ屋は万人に開かれているのだ」
「ええいタピオカ如きで人を小物扱いするな。しゃあねぇ一緒に並んでやるよ」
二人は行列の最後尾に並ぶ。
行列は前から順に、カップル、女子高生、おじさん、女子高生、カップル、という構成だった。これがオセロならおじさんも女子高生になっているところである。あるいは『タピオカおじさん』なる都市伝説は、彼のことなのかもしれぬと、猿田は密かに警戒を強めていた。
猿田たちの前に並ぶカップルも、都市伝説の話題で盛り上がっている様子だった。猿田はまたそっとイヤホンで耳を塞ぐ。
どこもかしこも都市伝説。まったくうんざりである。
しばらくそうしてぼうと突っ立って順番を待っていると、不意に遠藤は猿田の耳からずぼとイヤホンを引っこ抜いた。
「だからそれやめろってんの」
「何をする! 何度も言うが俺は都市伝説なんぞ知りたくないんだ。夜トイレに行けなくなったらどうしてくれる」
「小学生かお前は。漏らせよ。もうその話は終わったから。いちいち耳塞がれると話がしづらいだろうが」
「都市伝説が悪い、都市伝説が。都市伝説を忌避する人間もいるんだ。喫煙所とかあんな感じで、都市伝説を話す人間を隔離してくれよ」
「んな無茶な。最近あんなことがあったんだし、みんな都市伝説を話したくてうずうずしてるんだろ」
遠藤の言うあんなこと、というのはもちろん、『百の密室事件』のことであった。
事件の首謀者である黒谷紅駿の書いた『幻想器官』は瞬く間にベストセラーになった。買って読まずとも、少しネットを検索すれば電子書籍が無料でいくらでも手に入る。その内容に関しては連日メディアで報道され、ネットワークにはまとめサイトもある。
ちょうど今も、タピオカ屋の向かいにある喫茶店の席で、コーヒーを飲みながら読んでいる金髪の少女がいた。猿田はその少女と目があった気がして、慌てて目をそらす。
とにかく、もはや妖怪の類が実在するというのは、世界の新しい常識と化していた。
都市伝説の噂話にも熱が入ろうというものだ。
青色のアイコンでお馴染みの某SNSでは、連日様々な都市伝説がトレンドを賑わせていた。中には実際に遭遇したという人物もいるし、都市伝説が原因か定かではないが、行方不明になった者までいる。ワイドショーどころか国営放送局のニュースでもそれらの情報は取り上げられるようになり、もはや都市伝説は噂話の領域を超え、社会現象と化していた。世界は確かに、劇的にアップデートされたのだ。
「にしても、本当に妖怪なんているんかね。猿田はどう思う?」
「さぁなぁ……。でも、自分が怪異に行き会うまでその存在を見ることはできないし、行き会ったらだいたい殺されちまうってんじゃ、なかなか目撃者もいないだろ」
「そりゃそうか」
「――でも、案外近くに、いたりするのかもな」
「実は猿田が妖怪でしたってか?」
「……んなわけあるかい。ま、そんなことより遠藤、じゃんけんでもしようぜ。タピオカじゃんけん」
「お、やるか? 受けて立つぞ」
二人は一斉に拳を振り上げた。
〇
(美味いなこれ……)
遠藤と別れた猿田は、じゃんけんの戦利品であるタピオカ入りミルクティーをチューチューもちゃもちゃとやりながら家路を歩いていた。
彼の住む家は下北沢の外れにある小さな寺だった。本堂には巨大な天狗のお面が祀られており、地元の人間からは天狗寺と呼ばれ親しまれている。
この寺には古くから伝わる言い伝えがあった。
何でも桃郷の街に困りごとがあれば、大天狗の太郎坊様がどこからともなく現れ、立ちどころに解決してくださるのだとか。
下北沢の街に特有の入り組んだ細い道を、タピオカをもちゃもちゃやりながら右に左に歩いていると、やがて天狗寺が見えてくる。
猿田は入口にある短い石段を上まで登り、そして鳥居の下ではたと足を止めた。
境内に二人の女性が立って、じっとこちらを見ていたのである。
参拝客という様子ではない。まるで猿田のことを待ち構えていたかのようだった。
(どこかで見たことがあるような……ないような……)
猿田は知り合いかもしれぬと考え、よくよく二人を観察する。
凸凹な組み合わせだった。
一人は皺の無い黒いスーツをピシッと着こなす背の高い女性だった。手には革の鞄と紙袋を持っている。歳は二〇半ばと言ったところか。髪は短めに切りそろえており、いかにも仕事のできる女といった体である。程よい大きさの胸が存在を主張しており、思わず猿田は見とれそうになった。
もう一人の方は様々な要素が対照的な背の低い少女だった。猿田の通う高校のセーラー服を着ているため、かろうじて高校生であると推測できたが、それがなければ小学生と言われても信じられそうなほどに小さい。リボンの色からすると一年生――猿田の一学年後輩であるようだった。
かように身長は低いのだが、しかしその佇まいは凛としてどこか気品があった。手には何故か木刀を携え、意志の強さを感じさせる鋭い眼光を猿田に向けていた。剣呑である。
風が吹き、長い髪がさらさらと舞う。
可憐な少女だと猿田は思った。
しかし胸に関しては絶無だった。絶望的なまでに無い。絶世の無い乳である。首から腰に掛けての体の線はストンと垂直に落下しており、さながら流れ落ちる滝のようであった。
そうして胸部の辺りを観察していると、やはりこの少女は小学生で、高校生のコスプレをしているのかもしれぬと思えてきた。むしろそうであって欲しかった。そうでなければあまりに世界は残酷である。成長の余地があるならば救いもあろうというものだ。
などと失礼なことを考えつつ、猿田は記憶を手繰ってみるが、やはりこれといった心当たりが浮かばなかった。
「どちら様でしょう?」
猿田は突っ立ったまま問いかけた。
「私は犬塚生駒――」
背の低いほうの少女が名を名乗り、手に持った木刀を猿田に向けて突き付けた。
「――あんた、私と共に戦いなさい!」
他に人がいないシンと静まり返った境内に甲高い声が響く。ひゅうと一陣の風が吹き、スカートが揺れた。
しばしの沈黙ののち、猿田は膝に手をついて屈み、優しい声音で話しかけた。
「えぇと、お嬢ちゃん。ごめんな、お兄ちゃんちょっと用事があるんだ。チャンバラごっこなら、隣のお姉さんにやってもらいな?」
猿田は安堵していた。通りで胸が無いはずだと。この犬塚という少女は小学生だったのである。本当に良かった。平坦な胸には可能性が詰まっていたのだ。
猿田は子供に向ける慈愛の精神で応対に当たったところ――
ゴッ。木刀で思い切り頭を殴られた。
「子ども扱いするな! はったおすわよ!」
「いってーなこのガキ! なにしてくれてんだ!」
猿田は掴みかかって木刀を奪い取ろうとした。
大人の力を示さねばならぬ。
「私はガキじゃないって言ってんの! もっぺん殴るわよ」
シュッ。再度頭に向かって振り下ろされる木刀。
パンッ。猿田は咄嗟に両手で挟んで受け止めた。
「殴りながら言うんじゃねぇよ! 大人に対する態度ってのを教えてやらぁ……!」
グググと互いに力を込めながら、木刀越しにいがみ合う二人。
「ちょっとちょっと! 何でいきなり喧嘩になるんですか! コミニケーション下手くそすぎですか? そりゃあいきなりあんな意味わかんないこと言われたら、あぁいうリアクションが返ってきますって」
隣に立っていた背の高い女性が慌てて仲裁に入り、犬塚を後ろから羽交い絞めにした。
「離しなさい咲芽! この男にギャフンと言わせてやるんだから!」
「落ち着いてください犬塚さん。今のは圧倒的にあなたが悪いです。手を出してはいけません。今時出会い頭に暴力を振るう女など、ライトノベルにも出てきませんよ? それはツンデレではありません。ただの暴漢です」
「この男が私のこと子供扱いしたのが悪いんでしょーっ!」
犬塚は持ち上げられ、体を浮かせてじたばたと足を動かしている。
猿田はひょいとその手から木刀を取り上げ、ぽこんと軽く頭を叩いた。
「いたっ。何すんのよ!」
「お返しだ。これでおあいこにしてやる」
「だったらあんたも謝りなさいよ! 私は十五歳! 高校生なの!」
この犬塚という少女、まるで狂犬である。
ぐるるるとうなり声を挙げて威嚇でもしているようであった。
確かに小学生と勘違いしたのは悪い気もしたが。
「どうどうどうどう。まぁでも、猿田さんも、謝ってあげてください」
「俺は――」
猿田はむっとして言い返そうとするが、それを遮って背の高い女性が言う。
「何か失礼なこと、考えてたりしたんじゃあないですか?」
――ぎく。図星であった。
「何でそう思うんですか?」
「ふふ。顔にそう書いてありますよ」
背の高い女性は悪戯っぽく笑った。
「そうよ! あんたも謝りなさい!」
味方を得て犬塚は俄然勢いづいた。
「……わかったよ。さっきは悪かった。ちょっとからかっただけだろうが。そんなに怒るなよ」
犬塚の胸部に関して非常に失礼なことを考えていたという罪悪感も手伝い、猿田は素直に謝罪に応じた。
事態の収拾を受けて羽交い絞めから解放された犬塚は、猿田の手から木刀を奪い取り、プイと顔を横にそむけた。
「ふん。むかつくやつ」
(なんだこいつ……態度までガキかよ)
猿田も阿呆ではない。わざわざ考えを言葉に出すことはしなかった。
「で、あんたら、俺に何の用ですか? というか誰ですか?」
犬塚は木刀を再度、猿田に向けて突き付けた。
「私は犬塚生駒。あんた――」
「ちょいちょいちょい。壊れたラジカセですかあなたは。私が説明しますから。ちょっと静かにしていてください」
背の高い女性にたしなめられ、犬塚はしゅんと肩を落とした。
「えぇと。猿田さん。連れが大変失礼しました。わたくし、こういうものです」
女性は懐から取り出した名刺を猿田に向けて差し出した。名刺を渡されるという経験がなかったため、多少ドギマギしつつ受け取る。白地の名刺には明朝体で『秘密結社オロチ 瓜園咲芽』とだけ書かれていた。その他の情報は一切ない。ふざけた名刺である。
「あぁー―親父の知り合いですか」
しかし猿田は納得した。
どこかで見たような気がしたというのは、おそらく通夜の場でのことだったのだろう。
それは春に亡くなった彼の父――猿田光太郎の所属していた組織の名前だった。
彼女たちは父親の同僚、ということなのだろう。
「もしかして、お通夜の時にお会いしましたかね? すみません、記憶になくて」
「えぇ。実は一度。でも仕方ないですよ。たくさんの人がいましたから」
瓜園は通夜のことを思い出したのか、少し悲し気な顔をした。
「お参りにでも来てくれたんですか?」
「そうですね。光太郎さんには生前たいへんお世話になりました。他に用事もあるのですが、まずはお参りさせて頂けると嬉しいです。四九日の前にと思っていましたから。四十九日までの間は、亡くなった方の霊魂もまだ現世に留まっていると言いますし、最後に挨拶させて頂けませんか?」
「他に用事というのが気になりますが……さすがにそう言われては、追い返すわけにもいきませんね」
猿田は渋々といった様子で二人を家の中へと招いた。
〇
境内にあるお守り売場の裏手が猿田家の居住スペースになっていた。寺で僧侶が生活を営む場所を庫裏と呼ぶものだが、そんなかっこうよい名称で呼ぶことが憚れるほどに小さな木造の小屋である。
畳の敷かれた六畳間が二つと、狭い台所があるだけの、間取りで言うなら2Kという狭い家。しかし一人暮らしをする猿田にとっては、それでも十分なスペースだった。猿田は基本的に物を持たない。勉強道具や日用品といった必需品を除けば、パソコンと専用のモニター、それと小説が並んだ小さな本棚があるくらいのものである。
昔持っていた玩具は随分前に全部捨ててしまった。
高校生の身で彼が一人暮らしをしている理由は単純で、猿田は両親を亡くしていた。一つ年下の妹もいたが、彼女は全寮制の学校のようなものに通っているため家にはいない。
母は五年前に、そして父はつい最近――『百の密室事件』の日に他界した。
まだ四九日前ということで、部屋の片隅に設置された小さな仏壇には、父親の遺影と遺骨が納められた骨壺が置かれている。
写真の父親は決め顔でグッと親指を立てていた。自分の身にもしものことがあったらこれを使ってくれと言って渡されていた写真で、本人曰く『奇跡の一枚』とのことだが、もう少しマシな写真を用意して欲しいものであった。
家に招かれた犬塚と瓜園の二人の女性は、真っ先にその仏壇の前に座り、黙とうを捧げていた。焼香の香りが部屋に充満している。
「葬儀の時も思いましたが、光太郎さんらしい写真ですよね。思わず笑っちゃいました」
「いつもふざけてばっかりいるんだから……」
などと言いながらも、瓜園の目は充血し、犬塚の目には涙が浮かんでいる。その涙は、二人が本当に父親と縁の深い人物であったのだと、猿田に雄弁に語った。
思えば猿田は、家にいる父の姿しかほとんど見ていない。この二人の女性と父の間に、どのような物語が存在したのかを聞いていない。
務めて知らないようにしてきたことなのだから、それも当然ではあった。
見ざる聞かざる。それが猿田の習性なのだ。
そんな彼の習性が、先ほどからけたたましく警鐘を鳴らしていた。これからろくでもないことを聞かされるぞと。本当はお参りがすんだらさっさと帰ってもらう算段だった。
(でも……。あんな顔されたら、無下にはできないよなぁ)
猿田はお盆に乗せた麦茶と、手土産にもらった水ようかんをちゃぶ台に置いた。
座布団を敷いて二人に向かい合って座る。
「それで、他に用事ってのは何ですか? まぁ……だいたい想像はつきますけど」
嫌そうな顔をする猿田を、犬塚はじとっと睨んだ。
「だから……さっきも言ったでしょう? 私と共に戦いなさいって」
「それ、本気で言ってるのか?」
猿田は先ほどと違い、あくまで真剣に、犬塚に問うような視線を投げかけた。
「あたりまえでしょう。私は冗談なんて言わない。あなた、あの光太郎さんの息子なんでしょう? だったら――」
「犬塚さん。私の方から話します」
瓜園は犬塚の言葉を遮った。不服そうにしながらも犬塚は大人しく従う。
「猿田さん。あなたは秘密結社オロチと呼ばれる組織については、ご存じですね?」
「えぇ。まぁ。父が所属していた組織ですから」
オロチは人を襲う妖怪から、人間を守る組織だった。
妖怪の妖怪による人間の為の組織。
「それなら話が早いです。では、端的に言いましょう。今日はあなたをスカウトに来ました。我々オロチに力を貸してほしいのです。あなたをオロチの創設者であり、黒谷紅駿を討ち取った英雄――猿田光太郎のご子息と見込んでのことです。妖怪の特性は一子相伝。あなたはその身に『念動力』の異能を宿す妖怪のはず。その力を、世界の為に役立ててはくれませんか?」
「嫌です」
「即答っ!?」
「ええ。絶対に」
瓜園の話は事前に予想していた通りの内容だった。
猿田は話を始める前から、きっぱりと断る為の意志を固めていた。
「うぐ。しかし、嫌と言われて、はいそうですかと引き下がるわけにはいきません。我々にも事情というものがあるのです」
「その事情とやら、あんまり聞きたくないんですけど」
イヤホンで耳を塞いでしまいたかった。さすがに猿田とて、初対面の人の前でやるほど非常識ではなかったが。
「いいえ。そういうわけには参りません。情けない話ですが、我々には人材が絶対的に不足しているのです」
「例の事件のせいですか?」
「そうです。『百の密室事件』は、世間では黒谷紅駿率いるテロ組織『百鬼夜行』の敗北という結果のみが報道されていますが、その水面下には多くの犠牲がありました。『桃郷大学決戦』という、オロチと『百鬼夜行』の総力戦が行われたのです。黒谷紅駿と相打ちを果たしたあなたの父親を始めとして、優秀な鎮守官が大勢亡くなりました。紅駿を筆頭に、オロチを裏切って『百鬼夜行』側についた妖怪もたくさんいましたしね。だから今のオロチはもぬけの殻のようなもので、まともに戦える人間がほとんどいないのです」
「……事情はわかりますよ。それでも妖怪は未だに跋扈していて、日常は水面下で脅かされ続けている。誰かがそれに対応しないといけないけど、人が足りていない」
「なら――」
瓜園の表情にパッと気色が差し込んだ。
「でも、お断りします」
「なぜです?」
「俺には……関係のないことだから。仮に俺が手伝わなかったとして、明日世界が滅ぶというわけではないでしょう?」
「それは……そうかもしれないですが。でも、誰かが困っているんです。明日にも悪い妖怪に殺されてしまう人がいるかもしれないんです。『百の密室事件』のように」
『百の密室事件』で黒谷紅駿は、全く罪もない無関係な一〇〇人を一晩で殺害してみせた。人々は震撼した。自分たちが薄氷の上に立っているのだということに気づいてしまったのだ。恐怖は伝染する。いまや世界は、明日にでも妖怪と呼ばれる存在に殺されるかもしれないという恐怖を共有していた。
瓜園の言はまったくもって正論である。
しかしそれでもなお、猿田の意志は固い。
「情けないことだと自覚して言いますけど――それは俺に関係ない人です」
パンっ。
乾いた音が部屋に響いた。
瓜園が制止する間もなく、犬塚がちゃぶ台に身を乗り出して猿田の頬を打ったのだ。
「さいてーよ! あんた、それでも光太郎さんの子供なわけ!?」
猿田はただ打たれた頬を抑えた。
反撃する権利がないことは承知している。
「別に……それは関係ないだろ」
「関係あるわよ! あんた、光太郎さんの子供なら、同じ【呪い】をその身に宿しているんでしょう!? なんでそんなことが平気で言えるわけっ!?」
「犬塚さん、落ち着いてください。猿田さん、申し訳ありませんでした」
瓜園は犬塚の代わりに頭を下げる。
「いえ、いいんです。ビンタくらいはされると思って言いましたし」
「だけど、私からも同じ質問をさせて頂いても良いですか? あなたがその身に宿す呪い――【救迫観念】。あなたは父である光太郎さんと同じく、人を助けずにはいられないという呪いを抱えた妖怪であるはずなのに、なぜそこまで無関心を貫けるのですか?」
瓜園の言葉にも隠しきれない棘が混じっていた。
無理もないことだと猿田は思う。
「それは知らないようにしているからです。三猿って知ってますか? 日光東照宮に飾られてる猿の彫刻。目と耳と口を塞いだ三匹の猿。俺はね、あれなんですよ。ああやって生きてる人間なんです。目を塞ぎ、耳を塞ぎ、何事も知らないように。口を塞ぎ、何事にも関わらないように。だから――呪いに苛まれずにすむんですよ。困っている人間を放っておけないというのなら、困っている人間がいるということを知らなければいい。知らない人間のことは、誰も助けようだなんて思わないでしょう?」
猿田はわざとおどけて言ってみせた。
犬塚はバンっとちゃぶ台を叩いて立ち上がる。
「ふざけるなっ! 自分の使命から逃げるんじゃないわよ!」
そう言いながら、コップに入っていた麦茶を猿田の頭に掛けた。
ぽたぽたと猿田の頭から水滴が伝わる。
犬塚は背が低い。
しかしあぐらをかいて座る猿田を、冷めた目で見下すには事足りた。
「咲芽。もう行きましょう。時間の無駄よ! 反吐が出る。こんな情けないやつと契りを結んで戦うなんてごめんだわ! 期待してた私が馬鹿だった」
犬塚はそのままズカズカと歩いて出て行ってしまう。
すれ違いざま――犬塚の瞳に涙があふれそうになっているのを、猿田は見てしまった。
――ドクン。
胸に微かな痛みが走る。彼は見ざるを徹底できなかったことを悔いた。彼にとって人の悲痛な涙は、身を苛む毒なのだ。
今更俯いてみるが、彼の脳裏にはまざまざと、犬塚の涙が刻まれてしまった。
彼女は泣いていた。その事実が胸を打つ。
――ドクン。
彼は自らの鼓動を聞かぬように努める。
部屋には猿田と瓜園だけが取り残されていた。
瓜園はふうと息を一つ吐いてから、鞄から取り出したタオルで猿田の顔を優しく拭いた。
「情けなくて、すみませんね」
「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。勝手に押しかけてきて勝手にお願いをした私たちが悪いんです。猿田さんが謝ることはありません」
一通り拭き終えると、瓜園は猿田にもう一度向き直る。
「だけど、最後に一つだけ、耳を塞がずに聞いてください。お願いします」
猿田は無言。
瓜園はそれを肯定と受け取って話を始める。
「犬塚さんは鎮守の家系に産まれ、一五になるまで必死に鍛錬に励み、オロチの任務を手伝って実戦経験も積んできました。そして今年の春からはようやく、正式な鎮守官となり、光太郎さんとパートナーを組んで活動することになっていたんです。光太郎さんには三年ほど前からずっと戦闘の手ほどきも受けていて、まぁよく知っている師匠のような方で、あの子も光太郎さんの役に立てると楽しみにしていたんです」
猿田の知らなかった父親の姿。聞こうとしなかったエピソード。
猿田の脳裏に木刀で模擬戦をする二人の姿が浮かんだ。見たこともない風景なのに、具体的かつ鮮明に想像できてしまった。猿田も以前はそのように、無邪気に父から戦闘の手ほどきを受けていたものだった。犬塚の姿が幼い自分と重なった。
「だけど『百の密室事件』で光太郎さんが亡くなられて、パートナーを組むという話は白紙になってしまいました。彼女は本当に落ち込みましたよ。ここのところはずっと、光太郎さんの役に立つんだと念じてきましたから。わざわざ光太郎さんの家の近くの高校まで受けたんですよ? あの子にとって、光太郎さんはまさにヒーローでした」
瓜園は眩しいものを見るように目を細めた。
「俺は……そのヒーローの、親父の代わりってことですか?」
「そういうことに、なりますね。それは取り繕っても仕方がないことなので、はっきりと言っておきます。葬儀の場で喪主を務めるあなたのことを見た時に、あの子、代わりにスカウトしてパートナーを組むんだ、と言いましてね」
「やめてくださいよ。俺は親父とは違う。ただの……臆病者ですから。何事も知らないように生きているだけの」
「えぇ。だからこうして、あなたに教えたんです。犬塚さんのことを。彼女の流した涙の理由を。あなたは犬塚さんのことを僅かにでも知ってしまった――違いますか?」
猿田はハッと俯けていた顔を上げる。
瓜園は静かに微笑んでいる。
「犬塚さんを――〈助けて〉あげてください」
――ドクン。
猿田の心臓が鼓動を強めた。胸がぎゅうと締め付けられるような感覚。
彼がその身に宿した呪い――【救迫観念】が騒ぎ出す。
「卑怯ですよ……そんなの」
「ごめんなさい。でも今は、とにかく人手が欲しいんです。あなたの力を貸してほしい。呪いでも何でも悪用してやりますよ。実は犬塚さん、これから初陣なんです。お恥ずかしながら現在のオロチはとにかく人手が足りなくて……。昨日、ついに新人である犬塚さんにまで、事件対応の指令が降りました。私たちはこれから戦いに赴きます。敵がどんな異能を持つ妖怪かはまだわかりませんが、最悪、死ぬかもしれません。だから猿田さん、もう一度言わせて頂きますね?」
猿田の頭の中に『死』の一文字が像を結び、次々と増殖し、メリーゴーランドのように回る。
「やめてくれ。言わないでくれ」
耳を――塞がなければ。これ以上聞いてはいけない。
猿田は両手を耳に突っ込んででも、続く言葉を聞くまいとした。
――ドクン。
しかしその身に宿す呪いが、それすらも許してくれなかった。
耳を塞ぐなと命じる。
瓜園は猿田を射貫くように見つめた。
「〈助けて〉ください。猿田さん」
――ドクンドクンドクン。
鼓動の音がさらに強まる。呪いが暴れる。
猿田は胸を押さえてうずくまり、瓜園を睨みつけて声を荒げる。
「やめろっ! 俺を巻き込むな! 帰ってくれっ……! さっさと帰れよっ!」
「えぇ、そうさせてもらいます。お茶、ごちそうさまでした」
瓜園はすっと立ち上がり、手提げ鞄から一枚のA4用紙と、腕に身に着ける電子時計のようなもの、それからインカム付きのヘッドセットをちゃぶ台の上に置いた。
「ここに事件の資料とオロチの装備を一式置いておきます。夕方――逢魔が時までまだ時間があります。確認しておいてくださいね」
「知るかよそんなの! 出てけって言ってんだろ! 鬼っ、悪魔!」
「あははは。酷い言われ様ですね。でも――犬塚さんの為なら、私は鬼でも悪魔でもなんにでもなりますよ。それでは猿田さん、また会いましょう。お待ちしてますね?」
最後にそう告げて、瓜園は部屋から去っていった。
うずくまる猿田が一人取り残される。
瓜園が戸を開けて玄関から外に出ると、犬塚は壁にもたれ掛かって、いじけたように体育座りをしていた。
「鬼、悪魔……」
「あらら。聞いてたんですか? お人が悪い」
「……私、無理なお願いしちゃったのかな。咲芽、あいつに嫌われちゃったかもしれないし。嫌な思いさせて……悪かったわ」
犬塚は叱られた子犬のように、小さな体をさらに丸めて縮こまる。
瓜園は手を差し伸べ犬塚を立ち上がらせると、優しく包むように抱きしめた。
「いいんです、犬塚さん。たまには〈本音を言いなさい〉。せめて、私くらいには」
「……そうやって軽々しく命令して、私の呪いを発動させるの、やめなさいよね」
「えー。呪いを悪用でもしないと、犬塚さんはなかなか本音を言ってくれないですし」
「それを止めろって言ってんのよ」
「本当は一人で戦うことに不安を感じてるんでしょう?」
「そんなわけないでしょ。私を誰だと思ってんの?」
「〈本音を言いなさい〉」
「どうしようもなく不安に決まってるでしょ! ……って、何言わせてんのよ! だから命令するの止めなさいってば!」
瓜園はギュッと犬塚の頭に顔をうずめた。
「いやー、本当に可愛いですねぇ、犬塚さんは。認めた相手の命令には逆らえなくなるなんて、【忠犬伝】はまさにツンデレ殺しの呪いですね」
「ほんとバカ……」
「大丈夫。猿田さんは、きっと来てくれますよ。彼もまた鎮守の家系――『下北沢の大天狗』なのですから」