零 百の密室事件の怪
それはまだ元号が令和に変わる前のことであった。
二〇一九年四月四日。
その日、後に『百の密室事件』と呼ばれることになるテロ事件は幕を閉じた。
首謀者は黒谷紅駿――日本の最高学府『桃郷大学』で、長年文学部教授を務めていた男だ。彼は四月二日午後一一時ぴったりに、世界的に有名な動画配信サイトに『告白』というタイトルの短い動画を投稿している。
カチ。
世界のどこかで。
どこかの誰かが。
マウスをクリックし、動画の再生が始まる。
おそらく大学の研究室で撮影されたのであろう。民俗学に関する文献がずらりと並ぶ本棚を背景に、スーツを着て眼鏡を掛けた初老の男が言葉を紡ぎ始める。
「ハローワールド。僕は黒谷紅駿。桃郷大学の教授で、ヴァンパイアだ」
動画は簡潔にして面妖な自己紹介で始まった。
丁寧に英語字幕も付けられている。
「僕は『百鬼夜行』という妖怪たちのテロ組織でリーダーを務めている。『百鬼夜行』は妖怪の妖怪による妖怪の為の組織だ。我々『百鬼夜行』は、これまで妖怪と呼ばれてきた不確かな存在が、確かにこの世に生きて営んでいるということを、世界中に納得させることを目的としている。オカルトブームを再燃させること、あるいは、もっと大袈裟に言うと、世界をアップデートすることが目的と言ってもいい」
滔々《とうとう》としながらも明瞭な語り口だった。
「僕たちが妖怪と呼んでいる存在の詳細な在り方については、今日すでに書店に並んでいるはずの拙著『幻想器官』を読んでみてほしい。必要なことはそこに全て書いたつもりだ」
机の上に置いてあった一冊の本を持ち上げて見せる。真っ黒な表紙に白い文字で『幻想器官 黒谷紅駿』とだけ書かれた、シンプルな装丁の本だった。
「この動画は身も蓋もない言い方をしてしまえば、この本のプロモーション動画なんだ。世界中の方々にこの本を手に取って読んでもらい、そして書いてある内容を信じてさえもらえれば、我々『百鬼夜行』の目的は達成されたことになる。なんとなくいるんだろうなという程度の、妖怪に対する曖昧で素朴な共通認識が崩れ去り、妖怪は常に人の生活を脅かしているという危機感が人類に共有されるはずだ」
紅駿は本を置き、一度膝を組み替えた。
「とは言っても、こんな荒唐無稽な主張が、そうそう信じてもらえないということもよくわかっている。本当ならこの場で、僕の『細胞を操る』という異能を披露して、蝙蝠にでも変身してあげたいところなんだけど、残念ながら妖怪には不特定多数の人の前で異能を行使できないという制約がある。それはカメラの前であっても同じだ。だから動画を見ている人たちに、今ここでわかりやすく証明することはできない。だけどその代わりに一つ、こちらから有力な判断材料を提供しようと思う」
紅駿は人差し指を立ててカメラに差し出した。
「僕の異能は『細胞の操作』と言ったけど、それは自身の細胞だけでなく、噛みついた相手の細胞も操ることができる。僕が噛みついた人間は仮の『幻想器官』を宿し、ヴァンパイア風に言うなら眷属になる。僕は長い時間をかけて、このキャンパスに通う学生をたくさん眷属にしてきた。ひっそりと、こっそりと、闇に紛れてね。そして細胞を操ると言っても色々あって、僕はニューロンとも呼ばれる脳味噌の神経細胞を操ることで、眷属にした人間の発する電気信号を受け取ったり、逆に電気信号を送ったりすることができる。イメージして欲しい。無限に広がるシナプスを。枝分かれする樹状細胞を。これはとても不思議な感覚で、僕は僕でありながら同時に他の誰かであることもできるんだ。つまり他の誰かであり僕となった他の誰かを、僕は君たちが見ていないところでなら、自由に操ることができる。ま、操れるのは眠っている人間に限定されるんだけどね。さながら夢遊病、というわけだ」
そこで一つ、パチン、と指を鳴らす。
「さて、ところで、だ。僕たちはテロ組織だと自己紹介したわけだけど、君たちはテロリズムという言葉の意味するところを、どのように考えているだろうか? そこをまず明確にしておきたい。いいかい? テロリズムというのは要するに、世間に向かって何か訴えを認めさせるために暴力を振るうことだ。そしてその行為に必要とされるのは、とびきりの暴力なんだ。人々を心の底から震撼させるようなね。暴力はその訴えの認められがたさに比例して、より強力で、より理不尽で、より無慈悲でなければならない」
それから黒谷は、カメラに向かって両手を広げた。
「だから僕は、妖怪が実在するということを世界に認めてもらう為に、とびきりの暴力を用意した。この動画が投稿された時刻の一時間後――深夜零時に、僕が眷属にしてきた桃郷大学の卒業生の中から、一〇〇人を無作為に選んで操って、殺そうと思う。それくらいの時間なら寝てる人も多いと思うしね。明日になったら、桃郷大学の卒業生が一〇〇人、鍵のかかった自分の部屋で首を吊って死んでいるのが見つかるだろう。『百鬼夜行』による『百の密室事件』というわけだ。この予言の成就をもって、妖怪が実在することの証明としたい。この動画が一日遅れのエイプリルフールというわけではないのだと、信じてもらえるだろう」
黒谷紅駿は、もう一度『幻想器官』を手に取ってカメラに映した。
「少しでも信じてみようと思ったら、この本を手に取って読んでみてほしい。出版社の人間と話を付けて、ここに書いてある内容の著作権は放棄している。自由に拡散してもらって構わない。我々『百鬼夜行』に属する妖怪の多くは、この二〇年近くの間、悪い妖怪というレッテルを張られて、ずっと夜に潜んできた。押し込められてきたと言ってもいい。だけどこのまま夜の世界に閉じ込められているのは気に入らない。妖怪はもっと自分の【呪い】に忠実に生きるべきなんだ。我々妖怪という存在がこの事件によって白日の下にさらされ、そして世界に広く浸透していくことを祈っているよ。この祈りが――世界を変えると信じて」
その言葉を最後に、動画は再生を終えた。
以後、黒谷紅駿の姿を見た者はいない。




