③「雨の記憶、あるいは、灰色の夢②」
それは雨の記憶である。
その日は朝からずっと、しとしとと雨が降っていた。
それは灰色の夢である。
全ての景色がモノクロの、色の無い世界であった。
「なぁ、起きろ正太郎。これから連れていきたいところがあるんだ」
何度となく見た夢。この夢はいつも決まってこの言葉で始まった。
光太郎は毎度そうであるように、正太郎を車の助手席に乗せて日光東照宮を目指す。
「俺たちはさ、まったくもって、呪われた一族だよな」
光太郎はまた同じ話を正太郎にし始める。
繰り返し見てきた夢。
「困ってる人を放っておけない、正義のヒーローという呪いを宿した妖怪。もうちょっとマシな言い方をすると、使命とか宿命ってところか」
使命と宿命。
正義のヒーローという、猿田の一族が宿した呪いについて。
(それがあんたの使命で、宿命なの)
光太郎の話の途中、耳元で囁くように、別の声が響いた気がした。
少女の声だ。
その声には聞き覚えがあった。
しかし、それが誰かは曖昧で、はっきりとは思い出せない。
ただ、聞いたことがあるということだけは何となくわかる。
運転席に座る光太郎はなおも言葉を紡いでいる。
「つまり、お前はもう、誰とも戦う必要はないって言ってるんだ。お前にはどうか平穏に、心安らかに生きてほしい」
(その力を世のため人の為に生かさないとダメよ)
まただ。また聞こえる。
少女の声。
先ほどよりも大きく聞こえた気がする。
やがて二人は日光東照宮に辿り着き、傘を差して杉並木の道を歩き始める。
「この前お前のこと、俺の同僚の友達に相談してさ。頭の良いやつなんだ、そいつ」
(僕のパパと君のパパは古くからの友人同士だったんだよ)
今度は違う少女の声が脳裏に響いた。
副音声のようだった。何度も何度も、それこそテープが擦り切れるみたいにして、繰り返し見てきた夢の映像に、新たに加えられた副音声。
光太郎は二体の金剛像の前で立ち止まり、指差して言う。
「あれはさ、阿形と吽形っていう、この神社を守る神様みたいなもんだ」
(あんたは私と阿吽の契りを結んだんだから、これからもしっかり頼むわよ)
「口を開いた像が宇宙の始まりを、口を結んだ像が宇宙の終りを表現してるんだと。そこから考えるにな、吽ってのは誰かの発した言葉を、全部ひっくるめて飲み込む言葉なんだ。だからさ、もしもこれから俺が言うことに、お前がちゃんと納得してくれたら、その時はうんって言ってくれ。わかったか?」
「……うん」
「よーし、良い返事だ」
仁王門をくぐり、やがて二人は、この夢がいつもそうであるように、神厩舎(※神の使いとされる馬を飼育する建造物)の前で立ち止まって三猿の彫刻を見上げる。
「正太郎、あれを見ろ。あれがお前に見せたかったものだ」
いつもは指差された先で鮮やかな色彩を放っている三匹の猿の彫刻が、周囲の風景と同化したかのように灰色だった。
目と耳と口を塞いだ、色の無い三匹の猿。
モノクロの夢の中で、唯一あった色彩が失われていた。
そのことに不安を覚えた。
見慣れた夢に現れた変化。それがひどく心を乱す。
「あれはな、三つの猿と書いて三猿っていうんだ。お前も聞いたことあるだろう? 見ざる・聞かざる・言わざるってやつだ」
(耳を塞ぐな。猿田正太郎。刮目しろ。声を上げろ)
「うん」
「俺はさ、お前にはこれから、ああいう風にして生きてもらいたいんだ」
「なんで?」
「お前さ、戦うの、怖いんだろう?」
(猿田、行くわよ!)
「……うん」
「でも、困ってる人がいるって知ったら、呪いのせいで苦しいだろ?」
(知らないことを知ろうとするんだ)
「……うん」
光太郎の声と重なるようにして、少女たちの声が重なって聞こえた。
輪唱でもしているようだった。
「だったら、あぁやって、目を耳を口を塞いで、色んなことを知らないようにして生きればいい。そうすれば戦わなくてすむし、呪いで苦しまなくてもいい」
「……でも」
夢の中の幼い正太郎は口ごもっていた。ひどく情けない姿である。
猿田正太郎と猿田光太郎。
三匹の猿を見上げる二人を、見下ろす。
見上げる二人を、見下ろす。
……ん? あれ?
……見下ろす?
……二人を、見下ろしている?
見上げているのではなかったか?
おかしい。
途端に生じる違和感。
さっきまで三猿の彫刻を見上げていたはずだ。
なのに今は、俯瞰で二人を見下ろしている。
ちょっと待て。
自分はあそこに立つ幼い少年じゃなかったのか?
じゃあ、この映像を見ているのは誰だ?
あそこに立っているのは誰で、この映像を見ているのは誰なんだ?
疑問が生じると、バグの発生したゲーム画面のように視界がゆがんだ。
「お前が罪悪感を感じる必要はない」(さいてーよ! あんた、それでも光太郎さんの子供なわけ!?)「いいか? これは俺の我儘でもあるんだ。だからお前が悪いと思う必要は全くない。お前の分も、俺が戦う」(ふん。あんたなんて猿田で十分よ。光太郎さんみたいに立派になったら、先輩って呼んであげるわ)「だから正太郎。お前はあの三匹の猿のように生きるんだ。あらゆることから目をそらせ。あらゆることから耳を塞げ。あらゆることに口を出すな」(見ざる・聞かざる・言わざるとかふざけたこと言って、目をそらしてんじゃないわよ)
ぐちゃぐちゃだ。
音も映像も。
無数の言葉が木霊のように反響していた。
夢の光景にノイズのようなものが走る。
壊れかけた視界に移っているのは、三猿を見上げる幼い正太郎と光太郎の姿だった。
やはり、二人を上から見下ろしている。
――誰が?
――俺が。
その時、俺は自覚した。
俺は――俺であると。
俺は宙に浮かんで、幽霊のようにして、過去の二人を見下ろしている。
今ここでこの夢を見ているのは俺で、地面に立って三猿を見上げているのは、過去の俺と過去の親父なのだ。
俺は俺で、過去の俺は過去の俺。
そのことがはっきりとわかる。
たった一つしかない世界の真理を見つけたようだった。
過去の親父が言う。
「困っている人間を放っておけないというのなら、困っている人間がいるということを知らなければいい」
夢は終わりに向かっていた。
いつもこの夢は、過去の親父の言葉に、過去の俺が「うん」と頷いて終わっていた。
俺は念じる。
二人の前に立つように。
念じたように動かす力。
念動力。
それが俺の宿した異能なのだ。
上空を漂っていた俺は、過去の俺の前に立って、そっと手で口を塞いだ。
うんと言わせなかった。
すると、まるで氷の彫刻にでもなったように、ピタリと二人は動きを止めた。
静止した時間。
されど止まない雨。
いつまで経っても色が取り戻されない、灰色の夢。
そこにどこかから、声が響く。
「猿田っ! 猿田ぁ! 起きなさいよっ!」
まったく、騒々しい。
俺は声のする方に振り向いた。
そこには背の低い少女が、手に持った木刀をこちらに突き付けて立っていた。
「――あんた、私と共に戦いなさい!」
――ドクン。
少女は眩い光を放った。
光は拡散し、世界を照らし、そして夢に色が取り戻されていく。
降り続いていた雨が上がり、天から差し込む光が少女を照らす。
雨上がり、カラフルな夢。
その中心に立つは、犬塚生駒。
まったくもって、キャンキャンとうるさい女である。
人を馬鹿にするようなことばかり言いやがるし。
勝手に人の世界に上がり込んでくるし。
ちっとも俺のことを敬わないし。
素直じゃないし。
阿呆だし。
犬猿の仲とはよく言ったものだ。
まぁでも、そこに立つ犬塚の姿を見たら、自然と口元に笑みが浮かんでいた。
「うん」
だから俺ははっきりと頷いた。
この夢を見たのは、これが最後だった。
〇
猿田が重たい瞼を持ち上げると、体の上に馬乗りになって、犬塚がボロボロと泣いていた。どうやら、いつの間にか花山の部屋に運ばれ、ベッドで寝かされていたらしい。
瓜園と花山の姿は見えず、部屋にいるのは猿田と犬塚だけだった。
キスをした時みたいに近い距離に犬塚の顔があって、猿田は少し照れる。
「……おはよう」
「――っ!」
犬塚は目を見開いて、それから猿田の胸倉を掴んでゆさゆさと揺する。
「びっくりしたでしょ! あんた急に倒れて! 呼びかけても起きないしっ! 不安になるでしょーっ! バカ猿っ! ばかばかばかっ!」
「ったく、寝起きからうるせぇなぁ。もうちょっと優しく起こしてくんない?」
犬塚はパッと手を離し、どさっと枕に猿田の頭が落ちる。
枕元の時計を見ると、午後の九時を回ったころだった。さほど時間は経っていないようだ。
それからしばし、沈黙が二人を包む。
――ドクン。
犬塚と見つめ合うような形になり、猿田の心臓は昂った。
近くでよくよく見ると、やはり犬塚は可愛いのである。
「私……猿田に、謝罪するわ。その、ごめんなさい」
「何がだよ?」
犬塚は目元の涙をぬぐった。
しかし次から次へと、新たに涙が溢れる。
水滴が猿田の頬に雨のように落ちた。
「私、あんたに、光太郎さんと比べるようなことばっかり言ってた。それで、あんたに嫌な思いをさせてた。さいてーなんて言ったけど、さいてーなのは私だった。だから謝るの。ごめんなさい、ふぐ。うぇぇ、ごめんなさいぃ」
反省の色を浮かべて、ぐすぐすと泣く犬塚を見ていると、猿田はなんだか笑えてきた。
らしくないの一言に尽きる。
「妙に殊勝じゃねぇか。悪いもんでも食ったのか?」
「……なっ」
「そうだな。悪いと思ってんなら、俺のこと先輩って呼んでみろよ。ほれ」
わざと挑発するように言ってみる。
犬塚は一瞬、喧嘩を売られた犬みたいに毛を逆立てたが、しばらく逡巡した後に、涙をぬぐって頬を染めて、おっかなびっくり口を開く。
「猿田……先輩」
「ぷっ。似合わねぇ」
「あんたが言わせたんでしょーっ!?」
犬塚は再度、胸倉を掴んで揺すった。
うん。こっちの方が犬塚らしい。
手を掴んで止めさせる。
「猿田で良いよ。もう慣れた」
犬塚はすぐに猿田の手を振りほどいて、プイと顔を背ける。
「ふ、ふん。もうちょっと頼もしくなったら、素直に先輩って呼んであげるわっ!」
「……親父みたいに?」
いじわるな質問をしてみる。
「ち、ちがっ! そうじゃなくて! あんたはあんたよ。もう光太郎さんと比べるようなことは言わない。これは絶対。あんたはあんたなんだから、あんたらしくでいい。だから、その、あの――」
犬塚は手をつんつんとさせて、もにょもにょと何かを言いよどむ。
「なんだよ、〈はっきり言えよ〉」
言うや否や。
犬塚はくるっと向き直って、まるで激昂しているみたいに叫ぶ。
「私とこれからもパートナーでいて欲しいっ! 今日みたいに隣に立って一緒に戦って欲しいっ! 私を……これからも〈助けて〉欲しいのっ!」
――ドクン。
助けてという言葉に反応して、猿田の心臓を呪いが叩く。
全く難儀な呪いである。
まだこの犬塚という少女と知り合ってから二日しか経っていないのだ。
だからこれは、あくまで呪いに従って、仕方なく言うのだ。
自分という男はちょろくないぞ。勘違いしないでくれ。
猿田は心の中でそんな言い訳をしながら、されど、はっきりと頷いた。
「うん。わかった」
「……ありがとうっ」
犬塚の顔に花が咲いた。
これまで猿田が見てきた中で、それは一番の笑顔だった。
つい、見惚れてしまった。
目と目が合い、猿田と犬塚は口を閉ざして見つめ合う。
「な……なによ、そっそんなじっと、見るんじゃないわよ……」
「いや、はは、すまんつい」
「つい、なによ……」
奇妙な雰囲気。
むずがゆい時間。
そんな空気を、どんがらがっしゃんという漫画みたいな音が、一気に振り払った。
台無しである。
音のした方を見ると、瓜園と花山が折り重なって倒れていた。
〇
「いやー。花子さんと隠れて見守っていたんですが、転んで見つかってしまうとは、とんだ失態でした」
瓜園はバーカウンターに立ち、頭をかきながらそんなことを宣った。他の三人は並んで椅子に座っている。
「部屋にいないと思ってたら、何してるのよっ! 見せもんじゃないのよーっ!」
犬塚は瓜園をゆさゆさする。
「だから押さんといてくださいって言ったじゃないですかー。あのまま見とったら、チューくらいしたかもしれへんのに」
「先輩も止めてくださいよーっ!」
ゆさゆさゆさゆさ。
「なははは。顔赤なっとんで」
「まぁでも、猿田さんが目を覚ましてくれて良かったです。体調はどうですか? 水でも飲んでください」
猿田は差し出されたグラスに入った水を、ぐびぐびと喉を鳴らして一気に飲み干す。
「ふぅ。案外すっきりしてますよ。まぁ……炎を見たら、またぶっ倒れちゃうでしょうけど」
「猿田さんの弱点は炎というわけですね……」
瓜園は懐からライターを取り出し、猿田の目の前で着火した。
ぼっ。
「ひぃいいっ! 瓜園さん何すんですか止めてくださいよ!」
猿田は頭を抱えてがくがくと震えた。
「あはは。無様ですね」
「ひどい!」
「ふふ。つい悪戯をしたくなっちゃって」
「止めてくださいよ! わりとシリアスなやつですからね、これ! 悪ふざけも大概にしといてくださいよっ」
「すみませんすみません。実はこれ、私の呪いでして」
「呪い?」
「私は【悪戯願望】という呪いを宿していましてね、たまに無性に人をからかってみたくなるんですよ。猿田さん炎を見たら怖がるかなーと思ったら……ついやってみたくなっちゃって」
ペロンと舌を出した。
「えぇ。なんですかその微妙に迷惑な呪い。でも、そういえば今まで聞いてなかったですね。異能の方は、どんなのを宿してるんですか?」
「【読心術】の異能です。いわゆる天邪鬼ですね。まぁでも所詮は下級なので、なんとなく嫌そうだなぁとか、そんな程度のことがふんわりとわかるくらいなんですけどね。でも一応、直接現実に干渉するタイプではないので、妖怪化していなくても異能が使えるんですよ。いつだって空気が読める女、というわけです」
「……あぁ、だから初めて会った時に、俺が失礼なこと考えてるってわかったんですか」
図星を突かれたことを思い出す。
「ふふ。そういうことです。猿田さんの僅かな罪悪感を、私は感じ取ったのですよ」
「便利なような、便利じゃないような……」
「ま、悪戯するには便利な能力ですよ」
そう言って、瓜園は悪戯っぽく笑ったのだった。
それから真面目な表情で続ける。
「それで、ですね。実はこの異能で、先ほど向かい合った時、黒谷の心を読んでみたんです。そしたら驚きましたよ。彼女は驚くほどまっすぐで、曇りなくて、悪意なんて欠片もなくて、ただただ純粋に善意のみで行動しているようでした」
「ありがた迷惑、ここに極まれりですね……」
うんざりとする。
「全くです。やってることは最悪ですからね。死者の遺骨を盗んで、しかも人様の家に火を放つだなんて……。それでも、彼女は猿田さんのことを想ってやっていたというのは間違いなさそうでした。あれはもう愛ですよ。ラブです。猿田さんに、呪いに従って生きてほしいと、心から思っているんでしょうね」
「己の身に宿した【呪い】に忠実であること、ですか……。勘弁してほしいっすね」
正義のヒーローという呪い。使命で宿命。
妖怪の宿す呪いというものは、なんと難儀であることか。
そんなことを猿田は思う。
「そういや、呪いといえばさ――」
猿田は隣に座る犬塚を見た。
「犬塚はどんな呪いを宿してるんだ?」
不意の質問に、犬塚は驚いた猫のようにビクッと背筋を伸ばした。
「そ、そそ、それはっ!」
犬塚はぎゅうっとスカートを握り締めた。
瓜園は犬塚に、どうするんですか、と問うような視線を送る。
彼女は信用した相手にしか、呪いのことを明かさないと決めていたのだ。
犬塚はじっと俯いて黙考。
しかし、もちろん答えは決まっている。
「私の呪いは【忠犬伝】――仲間の命令には逆らえない呪いよ」
そのカミングアウトは、彼女にとって、信頼の証だった。
本当は認めた相手なのだが、猿田のことを認めたと言うのがひどく癪で、ついそんな風に誤魔化して言った。
「ええ……マジか」
猿田は困惑した。そんな不便な呪いがあるのかと。
「大マジよ……」
「じゃあ例えば…………」
この後に続く彼の発言について、予め擁護をしておこう。
彼はあくまでも、ありえない命令を受けてもそれを守るのか? ということを犬塚に確認したかっただけで、やましい気持ちは一つもなかった。ただ、彼が常々日頃から、そういうことを考えていたせいで、つい、無意識に、おもむろに、反射的に、口を突いて出てきただけなのだ。
「〈パンツ見せろ〉って言ったら見せんのかよ?」
最悪である。
「なっ! ちょ、あんた何言って……っ! 死ね! 死ね死ね死ね!」
言葉とは裏腹に。
犬塚は椅子から立ち上がって、真っ赤な顔を横に向け、ぷるぷると震える両手でスカートを摘まんで持ち上げた。
淡い水色の布地が、猿田の網膜にまざまざと焼き付けられる。
それはさながら、光であった。
世界が止まったようだった。
次の瞬間。
ゴッ。鈍い音と共に木刀が猿田の脳天に打ち付けられた。
「ひゃっぺん死ねっ! バカ猿!」
その後、犬塚による徹底的なリンチが行われたのは言うまでもない。
女性陣で猿田を庇うものは一人としておらず、最終的に猿田は顔を腫らして土下座をすることで、ようやく恩赦を頂戴した。
されど猿田は頭を蹴られながら思った。
思いつめているより、ずっとマシかもしれぬと。
父親の死体と戦うということを想像するよりかは、随分と。
そうこうして夜は更けていき、やがて丑三つ時と言われる時間がやってくる。